東京の本社に呼び出され用事が終わった頃には、太陽は既に西の空に傾きかけていた。日中に比べれば少しましになったとはいえ、なお横から強く照りつける日差しが、歩く人々を、そしてアスファルトをじりじりと焼いていく。滝のように噴き出す汗をこまめにタオルで拭いながら、真斗は駅に向かった。
 送って行きましょうかぼっちゃま、とお抱え運転手が申し出てくれたが、丁重に断った。これから行く場所は、誰にも知られてはならないし、知られたくない場所だったからだ。
 目指すは、横浜。ここ東京から約三十分ほど電車に揺られれば着く。空いている席に座り、黒い革のバッグを膝に乗せて、溜息をついた。さすがにこの高い気温の中、スーツでいるのは想像以上に辛いものがある。京都も暑い暑いと言われているが、東京もさほど変わらないな、と真斗はぼんやりと思った。
 思った以上に、早く来ることができた。
 口実作りが大変だろうかと考えていたところに、父からの呼び出しがあったのは幸いだった。父と対面するのは基本的に好きではなかったが、この時ばかりは密かに感謝した。厳格な父と対面する時のあの胃の圧迫感は、二十歳を過ぎた今となっても慣れることができない。先程も顔を僅かに苦渋に歪めつつ、やや俯き加減で父の話を聞いていたが、やっと解放されてほっと一息つくことができた。
 とはいえ、これから目指す場所も、ある意味同じような圧迫感を感じることになるのかもしれない――真斗は電車の外の風景に視線を移しながら、元恋人に思いを馳せた。


 神宮寺レン。神宮寺財閥の御曹司であり、早乙女学園で真斗と同室だった男。
 幼なじみだった彼との再会は初め、真斗の心に不穏をもたらした。何も知らずに無邪気にはしゃいでいた幼い頃とは、何もかもが違っていた。価値観も、生活スタイルも、好みも、全てが違う男と共同生活を送るのは、真斗にとって大きなストレスだった。
 だがその生活も、二人が一線を超えたことで一変する。初めてレンに抱かれた日のことを、真斗は今でも鮮明に思い出すことができる。その度に、心が甘く疼いた。
 それから一年間でレンに刻まれた刻印は、ちょっとやそっとで消えるものではなかった。
 一年の学園生活の後オーディションに合格し、シャイニング早乙女事務所に所属していた時も、関係は密やかに続けられていた。だが、三年ほど経ち成人を迎えた真斗に、父は家に戻れ、と冷たく告げた。真斗はそれに抗うことなく、生まれ持った運命を受け入れた。レンとの関係もこれまでだ。そう告げたときレンは不服そうではあったが、一度はお互い納得して、別れたはずだった。
 忘れていたかったのに、と真斗は思う。考えないようにしていたのに、まさかレンの側から京都の実家までやって来るとは思いもしなかった。帽子にサングラスをかけただけの下手な変装で、真斗の目が誤魔化せるはずもない。
 レンとはその時、元恋人同士にしては大して甘くもない会話を二言三言交わしただけだった。そこで終わっていれば良かったものを、真斗は最後に何を思ったか、彼の前で言い放っていた。
 ――俺も、横浜に行く用ができるかもしれん
 何故自分があんなことを口走ったか分からない。そんなことをすれば傷が深くなるだけだと分かっていたくせに、真斗の口は勝手にその言葉を紡いでいた。レンは待ってるぜ、と嬉しそうに頬を緩め、背を向けて去っていった。
 結局は自分も、レンと同じように楽な方に流されてしまっているだけなのだ。レンが最初真斗の前で自分だと名乗らなかったのは、きっと後ろめたさがあったからに違いない。すっぱり別れた後に元恋人に会いに行くだなんて、どう考えても未練のある男の行動にしか見えない。そんなの最高に格好悪いじゃないか、と唇の端を歪めて笑うレンの顔が目に浮かぶようだ。
 やがて横浜に着いたことを告げる車内アナウンスが流れ、真斗は慌てて立ち上がった。


 駅を出て、港に面した臨海公園に向かう。目の前に広がった海は、既に濃いオレンジ色に染まっていた。緩やかに波立つ水面に、光が反射して煌めいている。
 そういえば、と真斗は不意に思い出す。レンの髪も、あの光のように鮮やかな山吹色だった――太陽に透かしてみると、一層その美しさが際だった。真斗はあのレンの髪が好きだった。最初は長くて鬱陶しいだの、もう少し切り揃えろだのと文句を言っていたはずなのに、いつしか常に両の手で引き寄せていたくなるくらい、レンのさらさらの髪を愛していた。
「変わっていないな」
 吹き付ける風に抗って、真斗は髪を掻き上げる。幼い頃、パーティに連れて来られた時に、何度かここへ立ち寄ったことがある。ずっと京都で暮らしていた真斗にとって、この都会の風景はとても新鮮に映った。父に直接告げることはできなかったが、またあの綺麗な街に行ってみたい。そんなふうに憧れながら、結局それ以降機会を得ることは出来ず、今に至る。
 レンには、ただ一言――『明日、東京に向かう』と、それだけメールしておいた。それだけでレンはきっと分かってくれるだろうという期待をしていた。だからといって具体的な待ち合わせ場所を告げたわけではないから、このまま会えない可能性も高い。それならそれでいい、と思った。
 新幹線の時間まで、あと一時間半。一時間だけなら待とう。そう決意して、柵にもたれかかった、その時だった。
「スーツなんて堅苦しい服、よく着ていられるな。しかもこんな暑い日に」
 からかうような声が、公園に響き渡る。真斗が振り向くと、向こうからレンが歩いてくるのが見えた。レンはまたあの下手な変装をしていた。真斗が僅かに顔をしかめるのに気付いていないのかそれとも無視しているのか、何事もなかったかのような顔で真斗の隣に並んだ。
「お前こそ、もう少し変装を工夫したらどうだ。ファンに見つかりでもしたらどうする」
「その時は勿論、レディを抱き寄せていつもありがとう、と囁くまで」
「ファンサービスは大切だが、皆にしていてはきりがなかろう」
 真斗の苦言を、レンはフッと笑って軽く流した。
 会って早々こんな落ち着かない気分にさせられるのは、やはり相手がこの男だからだろうか――真斗はざわつく心を悟られぬよう平静を装いながら、レンに尋ねた。
「何故、ここが分かった」
「お前が来るならここだろうと思ってね。小さい頃、ここで瞳をきらきらさせていたお前を覚えていたから」
 真斗は微かに頬を染める。幼い頃のことを言われるのは苦手だった。あの頃は何も知らずに無邪気に、レンを兄のように慕っていたから――
「案外、早くに来られたんだな。お前のことだから、オレに会うための口実をあれこれ考えて、なかなか出てこられないんじゃないかと思っていたが」
 すっかり見通されている――悔しさに、真斗は思わず唇を噛む。
「別に俺は、お前に会いに来たわけではない。本社に用があったから、その帰りに立ち寄ったまでだ」
「東京からわざわざ横浜までか? しかも、こんな遅くに」
「悪いか。幼い頃に来たきりだから、久しぶりに来てみたくなっただけだ」
 嘘で塗り固めた言葉を言うのが、そろそろ辛くなってくる。レンはそれを見通してか、唇に更に深い笑みを刻んだ。
「相変わらず、聖川財閥のおぼっちゃまは素直じゃないな。特にこのオレ相手には、余程あまのじゃくと見える」
「何が言いたい」
「オレに会いに来た、って、どうしても言わないつもりか」
 レンの顔は、既に笑っていなかった。真斗は気まずさを感じて視線を逸らす。言えなかった。言えるはずがなかった。未練を抱えている自分をさらけ出すことができないというのもあったが、それ以上に、言ってしまえば、もう後戻りできなくなる予感がしていたからだ。真斗はそれが恐ろしかった。
 父の敷いたレールに一度抗って、再び戻ってきた自分。そこからまた足を踏み外すことは、決してあってはならないことだったから。
「お前は俺を、一体どうしたいんだ」
 最後の足掻きだった。真斗は低い声で言いながら、レンを睨み付けた。レンも僅かに目を細めて、その視線を受け止めた。
「何が望みだ。何故今更、俺の前に現れた……!」
「そんなこと、賢いお前ならとっくに分かってるだろう?」
 レンは怜悧な声で言い放つ。真斗は何か反論しようとして、思わず言葉に詰まった。そうだ、分かっている。レンが自分の前に現れた理由、それは自分がここに来た理由と、全く同じものだったからだ。
 真斗は息苦しさに喘いだ。酸素が足りない、と思った。足りないのは酸素などではないと、頭では分かっているくせに。
「これ以上、どうにもなりはしないのに……」
 真斗は顔を歪めながら、絞り出すように言葉を吐き出す。
「残った気持ちはどうしてくれる。お前が綺麗さっぱり消してくれるのか?」
 地を這うような声で、八つ当たりのような言葉を口にする。すると驚いたことに、レンは意外な言葉を放った。
「……消さなくていいだろう。そんな必要、ない」
「ど、どういう意――」
 動揺と共に零れ落ちた真斗の言葉は、あっという間にレンの唇によって拾われていた。
 こうして重ね合うのはいつぶりだろう――真斗の唇は、レンのそれの感触をはっきりと覚えていた。懐かしくて、思わず涙が出そうになる。好きだった、否、今でも好きな元恋人との、愛しいキス――レンは貪るようにして、何度も何度も真斗の唇にかぶりついた。
「……じんぐ、じ……」
 身体の芯がぞくぞくと震えた。この感覚は。まずい、と直感的に思う。後戻り、できない――
 レンの手が伸びてきて、背に到達した途端、ぐいと強い力で引き寄せられた。
「忘れられるわけ、ないだろうが」
 真斗の目が、限界まで見開かれる。
「オレがお前を欲しいって望んでるんだ。それ以上に理由が要るか」
 僅かばかり残っていた理性の糸が、ぷつり、と切れる音がした。


 火照りを持て余した怠惰な身体をようやく持ち上げて、真斗はベッドから足を投げ出した。胸の奥が疼いて仕方がない。直後シーツが引き寄せられる音がして、レンの指が真斗の背をつ、となぞった。
 思わず反射的に身体を震わせながらも、真斗は決してレンの方を向かなかった。
「……お前のせいだぞ」
「一体何が」
「後戻り、できなくなってしまった」
 そう言って、真斗は項垂れた。悪いのはレンだけではない。そう頭では分かっていても、八つ当たりせずにはいられなかった。
 忘れていたはずなのに、真斗の身体はもう、完全にレンの身体を思い出してしまった。レンの情熱的な息遣いを、意地悪く囁かれる言葉を、やわやわと触れられる指を、重ねられる火傷しそうなくらい熱い肌を――全て。
 レンが起き上がる気配がした。シーツの擦れる音がして、やがて真斗の身体に、レンの腕が巻き付けられる。
「戻る必要なんかないだろ。むしろ、何で俺達は別れなきゃならなかった」
「それは、俺とお前の家の確執が――」
「お前、学園にいる時よく言ってたよな。家のことはここでは関係ない、って」
 遮って話すレンの言葉が、耳にはっきりと届く。真斗が戸惑いながら頷くと、レンはそのまま続けた。
「だったら、今も関係ない。もし、どうしても気になるっていうんなら、」
 一旦言葉を切って、思いがけないことを口にする。
「俺が神宮寺を出て、ただのレンになってやろうか」
 真斗は大きく目を見開いた。冗談めかした言い方ではあったが、しかし――レンの言葉の根底にある真意を、真斗は読み取っていた。レンは、本気だ。それを悟って思わず戦慄するほどに、彼の思いは強い、ということも。
 暴れそうになる心臓を無理矢理落ち着けて、冷静な言葉を吐く。
「ふん……身の回りの世話を全て使用人に任せてきたお前が、後ろ盾を失って一人で生きていけるなど、到底思えん」
 レンはははっ、と軽く笑って、真斗を更に強い力で抱き寄せた。
「何を言っているんだ? オレの世話は、お前がしてくれるんだろう? 家事万能な真斗くん」
「誰がそんな面倒なことを。ふざけるのも大概にしろ」
「冷たいねえ、相変わらず」
 真斗がなるべく冷たい声で切り捨てると、レンはそう言って真斗の頬を指でなぞった。きっ、と強く睨み付けると、おお怖い、とおどけたような声が返ってくる。先程感じた本気のようなものは、きっと気のせいだろう。真斗はそう思うことにした。レンが自分の家を捨てることなどできるはずがない。真斗がそうであるように。
 だが、この時まだ真斗は気付いていなかった。
 レンの笑みの中に秘められた、密やかなる決意に。


「真斗様横浜に行く」編。もう後戻りできません。しかし元恋人同士って設定いいですよね…萌え…(2011.8.11)