トキヤはその日朝早く、部屋の中でHAYATOの衣装に身を包んでいた。
 今日は土曜日。おはやっほーニュースはないからわざわざ着替える必要性などどこにもないのに、トキヤは水色とピンクのパーカーに着替え、髪をワックスで整えていた。
 鏡の前で髪の先を弄った後、唇を横一杯に広げてにこりと笑った。HAYATOスマイルともてはやされるこの笑顔を維持するのは、トキヤにとって大変な精神的労力を必要とするものだった。けれどプロとして人前に出る以上、その労力を惜しんではいられない。一見プライベートに見える今でさえ、そうだ。HAYATOになった以上は、この笑顔で、そしてあの口調と仕草を音也の前で何としても演じきらなければ。それが、トキヤのプロとしての矜持だった。
 音也はまだ起きてこない。幸せそうな寝息を立てて、ベッドの上に寝転んだままだ。トキヤはそのベッドの前に立って、布団を抱き締めて眠る音也の寝顔を見つめた。思わず目が細まる。愛おしくてたまらない。今すぐにでも抱き締めたいと思うのに、そうすることは許されない。ぎり、と奥歯を噛んだ。今はそんなことを考えている場合ではない。この姿になったその目的を、遂行しなければならない。
 トキヤはしゃがんで、とんとん、と音也の肩を優しく叩いた。
「音也くん。音也くん」
 普段より一段と高い声で囁きかける。
「ぅう……ん……」
 音也が目を擦り、ゆっくりと目を開けた。トキヤは口角を上げていっぱいの笑みを広げた。やがてHAYATOに気付いた音也が、驚いたように目を見開いて飛び起きる。
「う、うわぁっ! は、は、HAYATO!?」
「そうだよ。音也くん、おはやっほー!」
「お、おはやっ、ほー……」
 音也は呆然としていた。寝起きということもあってか、まだ状況がよく呑み込めていないらしい。
「な、なんで、HAYATOがここに……」
「たまたま早乙女学園の近くまで来たから、様子を見に来てみたんだにゃ!」
 敢えてトキヤの様子を、とは言わないようにして、音也がここに“トキヤがいない”ことに気付くのを遅らせようとする。そうして未だ呆然としている音也に迫り、ぐい、と顔を近づけた。
「ね、音也くん。トキヤは元気にやってる?」
「え? トキヤ……は、うん、元気だけど……」
「最近、トキヤの様子が変なんだ。溜息をついたり、辛そうな顔してたり。音也くん、何か心当たりはない?」
 白々しい、と自分で言いながら思う。それはまぎれもなく、昨日の自分の姿だった。けれどもトキヤとHAYATOは別人である以上、他人事であることを装って口にする必要がある。
 音也は心当たりがあるのか、はっと顔を上げて、考え込むような仕草をした。
「そういえば……確かに昨日、あんまり元気なかったかもしれない……」
「やっぱり! あのねあのね、この間トキヤが、音也くんの名前をボソッて呟いてたんだっ!」
「え!? 俺の……名前?」
 音也が自分を指差して、ぽかんと口を開ける。トキヤはうんうんと頷いて、大げさに芝居がかった口調で言う。
「そ。すごく憂鬱そうにね。だからもしかしたら、トキヤは音也くんと喧嘩したんじゃないかって思ってボク、心配で!」
「け、喧嘩なんかしてないって! 俺とトキヤはいつも仲良いし……あ、でも……」
 音也が再び考え込むような仕草をするので、トキヤは首を傾げた。
「どうしたの? 音也くん」
「トキヤ、昨日ここに帰ってきてからずっと目を合わせてくれなかったんだ。俺が話し掛けてもどこか上の空だったし……俺、なんか嫌われるようなことしたのかな……」
 トキヤがどんな苦言を呈してもポジティブな方向にしか受け取らない音也が、こんなに悩んでいる姿を見るのは初めてのことだった。思わずHAYATOでいることを忘れて、そんな音也をじっと見つめてしまう。
 ふと我に返り、音也の視線がこちらに向く前に慌てて表情を引き締め直す。それからいつものHAYATOに戻って、ふにゃり、と頬を緩めた。
「ね、音也くん。聞いてもいい?」
「え? うん。何?」
「音也くんは、トキヤのこと、どう思ってるの?」
 音也が目を瞬かせた。少し遅れて、え、と戸惑いの声が洩れる。予想外の質問だったようだ。
 これこそが、トキヤの“目的”であり、最後の足掻きだった。直接聞くのが怖い。なら、仮初めの姿でせめて、音也が自分をどう思っているのかが知りたい。一昨日、音也は自分を好きだ、と言った。音也のことだから、きっとその言葉に嘘はない。だが、こうしてトキヤがはっきりと音也への恋愛感情を意識した後で、改めて彼の気持ちを確認しておきたかったのだ。たとえそうすることで、自分がますます深みにはまってしまうかもしれないと分かっていても。
「トキヤは……俺の大切な友達で、でも今は友達じゃなくて……」
 音也が言い淀む。その先を促すように、トキヤは音也の顔を覗き込みながら言った。
「好き?」
 音也がはっと息を呑んだ。それから微かに頬を赤らめて、トキヤの身体を押し返す。
「は、HAYATOには内緒だよ! 俺、ちゃんとトキヤに向かって言う。そのつもりだから……」
 トキヤの心臓が一段と高く跳ねた。何を言うつもりなのか、音也ははっきりとは言わなかった。けれど――
 もしかしたら、という甘い想像に胸が高鳴る。けれどその思いは、鍵を掛けて奥深くに封印せねばならないもの。もしくは完全に捨て去れたらどんなにいいかわからない。首を掻きむしりたくなる思いを堪えて、トキヤは一瞬目を閉じて奥歯を噛み締める。それからすぐに、HAYATOに戻って立ち上がった。
「そっかぁ。ならいいや! これからも、トキヤと仲良くしてあげてねっ。んじゃ、バイバイにゃあ〜!」
「あ、う、うん……」
 呆気にとられた様子で、音也はHAYATOに軽く手を振り返す。
 トキヤは寮の部屋を出て、素早く近くのトイレに隠れた。早朝ということもあり、この姿を他の生徒たちに見られなかったのは幸いだった。
 トイレの鏡と向き合い、髪を撫でつけ普段の自分の髪型に戻しながら、トキヤは高鳴る胸を抑えきれずにいた。


 パートナーと約束していたレコーディングルームでの練習が終わり、寮に帰ってきた時には既に日が暮れていた。自然とお腹が鳴るのを感じ、トキヤは今日の夕飯に思いを馳せる。そういえば一週間前、トキヤの簡素な食事に耐えられなくなった音也が泣きついてきたので、来週はハンバーグにしてあげます、なんて約束していたっけ。
 音也のことを考えると、胸が甘酸っぱい感情で満たされる。けれど昨日の早乙女の忠告が蘇ってきて、途端に苦しくなる。音也のことで頭がいっぱいになり、普段ならあれこれと頭を悩ませてしまうカロリーの問題など、トキヤの中からはすっかり消え失せていた。
 今朝の様子からして、音也がトキヤに何かを言うつもりなのは間違いない。その内容にも薄々感付いていたが、自分の前で口にされるのがどうしようもなく怖かった。言われた時、自分を抑える自信がなかった。既にトキヤは音也の前で、“普段通りの一ノ瀬トキヤ”を演じることができなくなっていた。
 重い足取りで、寮の自室へと戻る。扉を開けて中に入ると、音也がベッドに腰掛けていた。
「あっトキヤ! おかえり! 遅かったね、俺もう腹ぺこぺこだよー」
「すみません。すぐに作りますから」
 トキヤはなるべく音也と目を合わせないように早口で言って、机の上に置きっぱなしだったエプロンをひっつかんだ。素早く着て台所に立つ。音也が立ち上がって、こちらに歩いてくる気配がした。
「今日ってハンバーグだったよね? 俺、超楽しみにしてたんだけど!」
「ええ、そのつもりです。楽しみに待ってなさい」
「うん! あー、ほんと腹減った! でもトキヤのハンバーグ楽しみだから、待ってる!」
 トキヤは思わず拳を握り締めていた。そういう態度がいけないのだ。今までは煩わしさしか感じなかった音也の無邪気な言葉一つ一つが、トキヤの鼓動を加速させていく。皮を剥いて切り始めた玉ねぎが、今日はやけにしみるような気がした。
 玉ねぎを炒めて冷まし、ハンバーグのタネになるものをボウルに放り込んでこねていく。音也は鼻歌を歌いながらベッドに腰掛け足をぱたぱたさせていたが、時折いい香りがする、とか、お腹すいたぁ、とか言うのが、トキヤには愛おしく聞こえてならなかった。
「できましたよ」
 皿の上に盛りつけてテーブルの上に置くと、音也が目を輝かせた。
「うわぁ、すごい! うっまそー! トキヤ、早く食べようぜ!」
「少し待ちなさい、今スープを作りますから。音也は食器を出しておいてください」
「はーい!」
 音也がまるで先生の話を聞いた後の幼稚園児のように片手を真っ直ぐに挙げ、鼻歌を歌いながら食器棚に向かった。
 野菜を入れたコンソメスープを手早く作り、テーブルに置くと、トキヤの腹も自然と鳴った。当然それは音也に聞かれていて、くすくす、と笑われて思わず赤面する。
「……私もあなたと一緒で、お腹が空いているんですよ」
「へへ。じゃ、早く食べようぜ!」
 二人は向かい合って席に着き、いただきます、と手を合わせた。まずは、と一口ハンバーグを口に放り込んだ音也が、たちまち瞳を輝かせる。
「うわ、うめぇ! やっぱトキヤ料理上手いよなー!」
「音也。食べながら話すのは行儀が悪いですよ」
「はーい」
 音也をたしなめつつも、おいしそうに食べてくれる音也の顔を見ていると、トキヤの表情も自然とほころんだ。このまま、こんな穏やかな時間が永遠に続けばいい。そんな非現実的なことを願ってしまって、トキヤの表情が微かに陰る。
 すると音也が箸を止め、心配そうにトキヤの顔を覗き込んできた。
「トキヤ、どうしたの? 具合悪い?」
「……いえ。何でもありません」
 取り繕おうとしたが、音也はなおも心配そうな顔をしたまま、言葉を続けた。
「そういえば今朝、HAYATOがここに来たんだ」
「HAYATOが……」
 トキヤがわざと驚いた顔をすると、音也は頷いた。
「トキヤのこと、心配してた。最近元気がなさそうだって。俺も気になってたんだ。昨日のトキヤ、俺と全然目を合わせてくれなかったから」
 トキヤの箸の先が微かに震える。思ったよりも早く、この話題に到達してしまった――トキヤは内心溜息をついた。いつかは、という覚悟はあったとはいえ、せめてこの時間だけは、せめてテーブルの上の物を食べ終わるまでは。そう思っていたのに。
 音也が箸を置いて、トキヤを真摯な目で見つめる。
「ねえ、トキヤ。今日が終わったら、俺達の恋人関係も……終わりだね」
「……ええ、そうですね」
「その……付き合ってくれてありがとう。俺、トキヤが相手で良かったと思ってる」
 音也の言葉が胸に響いて痛い。その痛みを隠すように、トキヤは無表情で、なるべく抑揚を付けずに話す。
「台本は……読めそうですか?」
「……ああ、あれか。トキヤとのこの関係が楽しくって、ずっと忘れてた」
 音也はそう言って微かに笑う。
「うん、すごくよく分かった気がする。みんなから見れば異端かもしれなくても、好きにならずにはいられないんだよね。その人は替えのきかない、自分にとって唯一の人だから」
 目の奥が強く刺激される。トキヤは唇を噛み締めて、涙が溢れそうになるのを堪えた。
 たとえそれが世間的に見て同性同士という異質な関係であったとしても、世間的に許されない関係であったとしても、自分の心は、簡単にはごまかせない。Aクラスの台本をきちんと読んだわけではないが、今ならトキヤも、主人公の男の気持ちが痛いほどに分かるような気がした。
「……そうですか、それは良かった」
 涙声にならぬよう、そう早口で言うだけで精一杯だった。すると音也が身体を乗り出して、トキヤの顔をより近くで見つめてきた。
「ねえトキヤ、聞いて欲しいことがあるんだ」
「……すみません、私はちょっと」
 それ以上音也の言葉を聞いていられなくなって、思わず立ち上がろうとする。だがすぐに、音也に腕を掴まれ、振り向かせられた。
「何か用があるの? 急ぎの用?」
「それは……」
「じゃあ手短に言うよ。俺、トキヤが好きだ」
 雷に打たれたような衝撃が、トキヤの全身に走り抜ける。
 音也の真摯な瞳に捉えられて、その場から逃れられなくなった。息が出来ない。
「恋人ごっこしてきたからとか、そんなんじゃない。俺は本当に――」
「音也! 恋愛禁止令を……お忘れですか?」
 思わず言葉を遮っていた。音也が驚いたように目を見開く。
「でも、あれって――」
「学園長があの規則を作ったわけを考えてみなさい。私たちはこれからアイドルになる人間です。アイドルは誰のものでもない、みんなのものでなければならない。男女交際は当然のことながら、男の恋人がいるなんて知れたら、どんなスキャンダルになるか」
 トキヤの口調に圧倒されたのか、音也はしばらくそのまま固まっていた。あわよくば、このまま自分を諦めてくれたら。けれどもそんなトキヤの儚い願いは、あっという間に散ってしまう。
「そんなの……そんなの無理だよ。おかしいよ! この気持ちは簡単に止められるものなんかじゃないのに……」
 音也の言いたいことはわかる。トキヤだって同意見だ。だがここで、同意です、などと口にするわけにはいかないのだ。何としても。
「音也。あなたはあまりにも真っ直ぐすぎます。でもそれだけでは、この世界では生きていけない。あなたが目指しているのはそういう世界です。私は……私は、」
 トキヤは苦悶に顔を歪めながら、もう片方の手で、服の胸辺りを握り締める。
「あなたにこんな一時の感情だけで、退学になって欲しくなどない」
「トキヤ……」
 音也は微かに俯いて、言葉を途切れさせた。だがすぐに顔を上げる。
「それで自分の……本当の自分を殺せっていうの? そんなこと、できないよ。俺はトキヤが好きっていう、この気持ちに……嘘なんか、つけない」
「……音也」
 もう駄目だ。トキヤは目を閉じた。涙が溢れないことを願いながら、首を横に振る。
「とにかく、この関係は、今日までで終わりです。私とあなたは、ただの寮の同室者。恋人などではありません」
「トキヤ!」
「……離して……ください。もうこれ以上、私を縛らないでください……」
 トキヤの絞り出すような声に、音也の手の束縛が緩む。それで息苦しさが少しは緩和されると思ったのに、ますます胸が苦しく、そして悲しくなるだけだった。
「トキヤは……縛られてるって思ってたの? 俺に、俺が言い出したこの関係に」
 違う。そうじゃない。心でそう訴える。けれども唇を震わせなければ、その声は音也には届かない。
 音也はやがてそっか、と、寂しそうに目を伏せた。
「……ごめん。俺のこの気持ちは、俺だけの一方的なものだったんだな。トキヤの気持ちなんて何も考えずに……本当に、ごめん」
 音也の手が完全に離れる。トキヤの手が、束縛を失って自身の身体へと戻っていく。
「じゃあ、これで……終わりだね」
 二人を結びつけていた鎖が外れる音がした。けれどもそれはトキヤにとって、既に拘束具などではなくなっていた。トキヤは目を伏せて、感情の荒波に耐えた。唇を血が滲むまで噛み締め、拳を握り締めた。
 この夜さえ越えてしまえば。そうすれば何もかも忘れて、きっと新しい朝が来てくれる。そうなりますようにと、心の底から祈りながら。


トキヤさんの選択。実際書きながら感情移入してしまって辛かったです(2011.9.25)