音也と遊園地に行った次の日、トキヤはいつになく上機嫌だった。
 いつの間にか鼻歌まで歌っていたらしく、休み時間、翔に思い切り怪訝そうな顔をされてしまった。
「なんかあったのか? トキヤ……まあ、元気そうなのはいいことだけどよ」
「この間は溜息なんてついてたしね、それに比べれば」
 レンがそう言った後で、唇の端を吊り上げて笑う。
「にしても、あのお堅いイッチーが鼻歌とは……今日は雨でも降るのかな?」
 教室の窓から眩しく輝く太陽を見上げ、レンがわざとらしく言った。トキヤは思わず赤面して、座ったまま机の上で拳を震わせる。
「別に、なんでもありませんから。さっきのは……昨日、遅くまで練習していたせいです」
 それは事実だった。すっかり腰の抜けてしまった音也を寮に送り届けた後、トキヤはパートナーを誘って少しの間だけでも、とレコーディングルームに練習に行ったのだ。練習は有意義なものではあったが、寮の部屋に残してきた音也のことが気になって、いつもほど集中はできなかった。
「……あぁ、そういえば」
 あることを思い出して、トキヤは立ち上がる。つられて視線を上げた翔が、椅子の背もたれに腕を置いたまま、尋ねた。
「どうしたんだ? もうすぐ授業、始まるぜ」
「教科書を音也に貸したままでした。ちょっと取ってきます」
「早く戻ってこいよー」
「善処します」
 トキヤはそう言って、素早く教室を出た。
 廊下を駆け抜けAクラスの教室に入り、トキヤは音也の姿を探した。が、どこにも見当たらない。不審に思いつつも視線を走らせていると、背後から声がした。
「一ノ瀬?」
 振り返ると、そこには聖川真斗が立っていた。音也と同じAクラスの生徒で、寮ではレンと同室の男だ。顔を合わせる機会が少ないためにあまり会話をしたことはなかったが、真面目で面倒見の良い人物だ、ということは音也から聞いて知っていた。
「どうかしたのか? ここはAクラスだが」
「音也を見かけませんでしたか?」
「一十木か? さあ……そういえばさっきから姿を見ないな。授業が終わってすぐに教室を出て行ってしまったようだが……」
 トキヤは溜息をついた。あの教科書がすぐに入り用というわけではないが、自分のものが自分の手元にないというのは落ち着かない。それに、音也のことが少し気がかりでもあった。いつもなら、Aクラスに顔を出すと教室内で誰かしらと――その相手は大抵聖川真斗か四ノ宮那月だったけれど――楽しそうに話をしているのに、一人でどこかに行ってしまうなんて珍しい。
「……では、仕方ないですね。出直します」
 気がかりではあったが、探している時間はもうない。真斗に向かって軽く会釈して、トキヤは自分の教室に戻ることにした。


 二限の授業が終わり、昼休みを告げるチャイムが鳴る。教卓の前に立っていた日向が立ち去った後、トキヤは教科書を机の上でとんとんと叩いて整理した。
 いつものように翔とレンが席から立ち上がり、こちらに歩いてくる。
「トキヤ、昼飯食べに行こうぜ」
「すみません。その前にもう一度Aクラスに行ってきます。さっき行ってみたら、音也が教室にいなかったものですから」
「そうかい。じゃあ、先行って待ってるよ」
 ひらりと手を振って、二人は先にカフェテリアに行ってしまった。
 トキヤも素早く用を済ませるべく、再びAクラスへと赴いた。昼休みということもあって、廊下は大勢の生徒たちで溢れかえっていた。その間を縫うように早足で歩く。
 トキヤがAクラスの開け放たれた扉の前に立つと、ちょうど教室の中で一人佇んでいる那月と目が合った。那月はすぐに人なつこい笑顔を浮かべ、トキヤの方に向かって歩いてきた。
「トキヤくん! どうしたんですか? 何か御用ですか?」
「ええ。音也を探しているんですが」
「音也くん……」
 すると、途端に那月の表情が陰った。様子がおかしい――トキヤがその理由を尋ねようとした時、那月が先に口を開いて、思いがけないことを言った。
「実は、音也くんがいないんです。授業が始まっても帰ってこなくて、さっき、真斗くんが探しに行ったんですが……」
「え……!?」
 トキヤは驚いてその場に固まった。那月が心底心配そうな表情をしながら、眼鏡の位置を直す。
「音也くんが戻ってくるかもしれないから、僕はここで待っているんです。あ、そういえば……」
 何事か思いついたらしい那月が、トキヤを覗き込むようにして顔を近づけてきた。
「トキヤくんは、音也くんと同じ部屋で生活しているんですよね。心当たりはありませんか? 音也くんが行きそうなところに」
「音也が……行きそうな、ところ……」
 那月の期待に満ちた瞳に気圧されて、トキヤは顎に手を当てる。頭をフル回転させ、思考を素早く巡らせる。音也の行きそうなところ。カフェテリア、レコーディングルーム、中庭――校内の様々な場所を思い浮かべてみるも、そのどれも正しい答えではないような気がした。
 そこでようやく、トキヤは気付く。自分は音也のことを何も知らない、と――
 寮にいない間の音也、つまり日中校内にいる音也が、誰と、どんなふうに過ごしているのか知らない。そこでどんな表情を見せて、どんなことを話すのかも知らない。当然ながら、音也の行きそうな場所にも、全く心当たりがない。寮で同室だというだけで、一週間仮の恋人ごっこをしてくれるよう言われただけで、自分が一番音也の近しい場所にいるような錯覚をしていた。だがそれは所詮錯覚に過ぎなかったと、いやというほど思い知らされる。
「音也は……」
 トキヤはなおも考える仕草をしながらも、絶望に近い気持ちを味わっていた。逆に、自分は一体音也の何を知っているというのか。音也が自分のことを自ら話すことはあっても、トキヤから興味を持って何か知ろうとしたことは一度もなかった。音也にこんな感情を抱くまでは、一十木音也という人間にまるで興味がなかったのだから当然だ。
 トキヤが思わず唇を噛み締めた時、那月が突然あっ、と声を出した。
「音也くん! 真斗くん!」
 トキヤは遅れて振り返る。そこには真斗と、申し訳なさそうな表情で頭を掻いている音也が立っていた。音也はトキヤの姿を見るなり、ごめん、と謝りながら駆け寄ってくる。
「さっき、マサからトキヤが探してたって聞いて。ほんとにごめん。何の用だったの?」
「教科書を返してもらおうと思っていたのですが……一体どこに行っていたんです?」
 無意識に咎めるような口調になる。ごめん、と音也が再び謝った後、後ろに立っていた真斗が、その問いに代わりに答えた。
「屋上だ。一十木は考え事をする時、よくあそこに行くと言っていたからな。今日は朝から様子がおかしかったから、気になってはいたのだ」
「ちゃんと気付いてあげてたなんて、真斗くんすごいですねぇ」
「ほんと、マサには敵わないよ。ははは」
 那月が感激したように両手の平を合わせ、音也が苦笑し、真斗が全く、と呆れたように言いながらも口元をほころばせる。
 トキヤは急に激しい疎外感を感じた。ここに自分がいてはいけなかったのだ。そんな思いに囚われる。
 トキヤの知らない音也を、彼らはたくさん知っている。共有している。トキヤの心に、どす黒い感情が湧き出してくるのを感じた。嫉妬、なんて――まさか自分が抱くことになろうとは思わなかった感情に、半分戸惑いを感じ、もう半分は忌々しさを感じた。
 自分はいつもおはやっほーニュースの収録があるため、朝早く起きて収録を終えた後そのまま教室に向かうから、朝音也がどんな様子だったかなど、トキヤには知る由もないのだ。それなのに、彼らは知っていた――音也の行動パターンさえも、理解していた。それがたまらなく悔しくて、悲しかった。
 トキヤは音也と真斗の横をすり抜け、歩き出していた。これ以上どす黒い感情が胸を支配し、口から吐き出されてしまわないうちに。
「ちょっと、トキヤ! 教科書は!?」
 音也の声が追ってくる。だが、トキヤは振り返らなかった。一瞬目を閉じて、唇を噛み締めた。こんな気持ちになったのは初めてだった。生徒たちの間を抜けて、人のあまりいない校舎裏に向かった。


 人気のないところまで来て、トキヤは壁にもたれかかって溜息をついた。胸にはまだあのどす黒い感情が残っている。それはまるで小さな黒い羽虫のように群がって、トキヤの心を喰らい尽くしていった。強い胸の痛みを感じ、トキヤは心臓の辺りで拳を握り締めた。
 嫉妬を覚える理由なんて、きっと一つしかない。トキヤは確信していた。自分は、音也を――
「Mr.イチノーセ! そこにいましたかー!」
 その時、頭上から高らかな声が降ってきた。トキヤが驚いて顔を上げると、教室棟の屋上から落ちてくるシャイニング早乙女の姿が目に入る。落下地点から離れようとトキヤが素早く移動すると、早乙女は物凄い音を立てて地上に着地し、その衝撃で地面に身体がめり込んだ。普通の人間ならまず間違いなく骨折しているだろうが、ズボンの埃を払い唇の端を吊り上げて笑みを浮かべているところを見れば、どうやら何ともないらしい。相変わらず得体の知れない人ですね、とトキヤは独りごちながら、早乙女と対峙する。
「私に何か用ですか、学園長」
「Mr.イチノーセ、アナタは今恋を! していますね?」
「なっ……」
 トキヤは驚きすぎて言葉を失った。まだ自分ですらはっきり自覚した直後だというのに、何故この男はそんなことまであっさり見抜いてしまうのか。本当に得体の知れない男である。
「隠してもムダムダムダ! このシャイニング早乙女には何でもお見通しなのデース!」
 この男の前で、隠し事をしても無駄というのは事実だ。トキヤは観念して、早乙女に先を促した。
「それで、わざわざ私を脅しに来られた、と?」
「脅しとは人聞きの悪い言葉デース。ワタシは可愛い可愛い生徒のために、忠告をしに来てやったのデース!」
「忠告……?」
 トキヤが疑問符を浮かべると、途端に早乙女がずい、と顔を思い切り近づけてきた。不意打ちをくらって、トキヤは身体を反射的に引いたまま固まる。
「恋愛禁止令の意味……賢いお前なら、もちろん理解しているな?」
 いつもの調子とは全く違う早乙女の低い声に、ぞくん、とトキヤの背が震えた。恋愛禁止令。それは早乙女学園の生徒たちを、他のどんな校則よりも強く縛り上げている校則。その意味は現役アイドルであるトキヤが、一番よく理解していた。
「……分かって、います」
「その相手の性別など関係ない、ということも?」
「勿論、です」
 表向きには男女交際禁止を謳っているが、だからといって同性同士なら交際しても構わないというわけでは決してない。そもそもアイドルに恋愛は御法度なのだ。人々に夢を与えるアイドルに、特定のパートナーがいると知られたら、たちまち人気は下降していく。スキャンダルが発覚したアイドルの末路を、トキヤは十分すぎるほどに理解していた。早乙女はそれで良し、とばかりに頷いて、とどめの一撃を放つ。
「アイドルはみんなのもの、誰か一人のものにもなってはならない。そのことをよく考えるのデース、Mr.イチノーセ」
 口調は既に普段のものへと戻っていた。刹那、とうっ、と声を上げて、早乙女は学園長室へと一気に跳躍した。その脅威の身体能力に驚く間もなく、嵐のように過ぎ去っていった早乙女の言葉に縛られて、トキヤはしばらくその場から動けないでいた。
 恋愛禁止令を忘れていたわけではなかった。だが、音也が相手ならば――相手が同性なら、と考えていた自分の甘さをいやというほど思い知らされる。その真の意味を考えるなら、早乙女の忠告はもっともだ。正論すぎて言葉も出ない。
「……私は……」
 トキヤは声を絞り出し、俯いた。音也のことを考えて、再び胸の奥が痛む。だがその理由は、既に嫉妬などではなくなっていた。音也を独占することも、されることもできない絶望感。それがこんなにも自分を落ち込ませるものであるとは思いもしなかった。恋愛禁止令など、自分には一切無関係だと思っていたというのに――
 二つの絶望の狭間で、トキヤは喘ぎ苦しむ羽目になった。


トキヤさんの絶望。Aクラス仲良しなのは本当に可愛いけどトキヤさんにとってはつらい(2011.9.24)