翌朝。
 目を覚ましたトキヤは、真っ先に携帯で時間を確認する。ちょうど六時だ。寝ぼけ眼を擦りつつ、身体を起こした。
 向こうのベッドで寝ている音也の姿を見て、ずきんと胸が痛むのを感じた。新しい朝は、どうやら来てはくれなかったらしい。絶望に陥りながらも、支度をするべく、起きて洗面台に向かう。
 冷たい水で顔を洗うとだいぶすっきりしたが、心に残ったもやもやは消えてはくれなかった。部屋のカーテンを開け放ち、日の光を取り入れる。今日は天気予報が告げていた通り、雲一つない青空が広がっていた。
 最初は土砂降りで、灰色の厚い雲が立ちこめていても、いつかはあの空のように、憂鬱な雲が全て取り払われる日が来るのだろうか。
 そんなことを考えつつ、トキヤは着替えて朝食の準備に取りかかった。今日はパンの日だ。菜の花のような黄色のスクランブルエッグにサラダとウインナーを添え、別の小さな器にヨーグルトのブルーベリーソースがけを用意する。良い匂いが漂っているというのに、音也はまだ起きてくる気配がない。テーブルの準備を完璧にしてから、トキヤは音也のベッドの前に立つ。その場にしゃがみ、布団を抱き締めたままの音也の肩をゆっくりと揺らす。
「音也、音也。もう朝ですよ。起きなさい」
「……うぅん……」
 音也が目を擦り、ゆっくりと瞼を開ける。
「トキヤ……?」
「朝食ができましたよ。早く食べないと冷めてしまいます」
「うん……」
 音也は寝ぼけ眼を擦りながら、ゆっくりと身体を起こした。その時、手をついた場所がベッドの際ギリギリの場所だったせいで、手がずるりと滑り、音也はバランスを崩した。
「うわっ!」
「ちょっ……!」
 音也の身体がトキヤの方へ放り出される。トキヤはそれを受け止めきることができず、二人は床に重なるように倒れた。
「ってて……トキヤ、ごめ……あ」
 身体を起こした音也が、その体勢に気付いて言葉を失う。トキヤも仰向けで音也の顔を見上げ、思わず頬を赤らめた。これではまるで音也に襲われているようだ。自分のプライドを守るためにも、すぐさまその身体を払うべきだったのだろうが、トキヤは金縛りにあったかのように、その場から動けなかった。
 音也の頬もほんのり紅く染まっている。ルビーのように赤い瞳がトキヤの瞳を捉え、あっという間に釘付けにしてしまう。
「トキヤ……」
 やがて、音也の表情が引き締められた。
「なんで、逃げないの?」
 トキヤは言葉に詰まった。何と答えればいいのかわからなかった。そうしているうちに、音也の顔が近づいてきていることに気付く。まずい。そう思ったのに、身体は未だ動かずに――
 柔らかな感触が、トキヤの頑なな心をあっという間にほぐしてしまった。トキヤは目を閉じていた。ただ唇の一点に神経を集中させ、音也の感触をよくよく味わうかのように。音也は唇を食むように動かして、トキヤの唇を何度も吸い上げた。その間の時間が、まるで十分にも、一時間にも感じられた。
 音也の顔がようやく離れ、トキヤもゆっくりと目を開ける。音也が親指をトキヤの濡れた唇に添えて、責めるように言った。
「そういうところが、酷いよ」
「……何が、ですか」
 己の掠れる声なんて、もう何の抑止力にもならない。
「なんで、逃げなかったの。なんで俺を振り払わなかったんだよ」
 唇を結んで、無言を貫くしかなかった。それでも、きっと音也なら気付いている。トキヤの心の奥で封印しかけていた、真実の心に。
「俺……忘れようと思ったのに。トキヤを好きな心、忘れようって努力したのに、でも」
 音也の絞り出すような声が、胸に響く。
「こんなことされちゃ、俺、忘れられないよ……」
 音也の苦しそうな表情を見た途端、トキヤの中で何かが弾ける音がした。もう、我慢の限界だった。
 トキヤは一瞬目を細めた。そうして、一気に身体を起こす。驚いた音也が後ずさるのを捉えて、唇を押しつける。歯がかち合って、鈍い音がした。
 直後、音也の目が見開かれたのが分かった。
「んっ……」
 けれども、それも一瞬。音也はすぐさま角度を変えて、トキヤの唇を侵食した。何度も何度も、味わうように。トキヤもそれに応える。自分の心の赴くままに、今だけはアイドルという枷を外されて、ただの一ノ瀬トキヤとして、自由な翼を手に入れた鳥になれた。
 長いキスが終わって、二人はその場で向き合う。トキヤは目を伏せたまま、ぽつぽつと話し出した。
「酷いのは……あなたも同じです」
「俺、も?」
「そうです。だいたい、あなたが恋人ごっこしよう、なんて言うから」
「それは……」
 申し訳なさそうに目を伏せる音也に、トキヤは言葉を続ける。
「そのせいで、私はあなたに特別な感情を抱くようになってしまった。けれど――それは決して、私にとって悪いことばかりではなかった」
「えっ……」
 音也が意外だとでもいうように、目を瞠る。
「正直、それまでの私は、あなたと同じ部屋で生活するのを苦痛に感じていたこともありました。あまりに価値観の合わないあなたと共同生活をするのは、精神的に辛いものがあった。けれど、この一週間で、そんなあなたと共に過ごすのを、楽しいと思えるようになってしまった」
 切々と、心情を吐露する。
「あなたと遊園地に行った時、あなたが腰を抜かして歩けなくなって……その姿を、私は純粋に愛おしいと思った。その時、私の心は確実に変化を遂げていた。そしてあなたに対する感情をはっきりと自覚したのは、一昨日、あなたのクラスに行ったときです」
 音也がはっと息を呑んだ。トキヤは顔を歪ませながら、絞り出すように言う。
「私は嫉妬していました。聖川さんと四ノ宮さんに」
「マサと那月に? なんで……」
「二人は私の知らない音也を知っている。学園内で過ごす音也を、そんな音也の色んな表情を知っている。それが羨ましくて妬ましくてならなかった。私ももっと、あなたのことをよく知りたい。そう思うようになったら、止められなくなって……あなたへの感情が今までとは違う特別なものであると、はっきり悟りました」
 でも、と悔しげな声を出す。
「学園長に忠告された。この感情は禁じなければならないものだと。だから、封印することにしたのに……それなのに、昨日、あなたは」
 音也にはっきりと好きだ、と告げられた時の衝撃を、未だにこの身に蘇らせることができる。天にも昇りそうなくらい嬉しいことのはずなのに、トキヤの心は歪な音を立てて軋んだままだった。呼吸が出来ず、酸素のない世界で喘ぎ続けなければならなかった。最初は嫌々繋いだはずの音也との鎖が外されていくのを、ただ見ていることしかできないもどかしさで、トキヤの心は悲鳴を上げた。
「応えたかった。私だって! 私だって、あなたが……音也が」
 その時、突然身体の引き寄せられる感覚があった。と思った瞬間、再び音也が唇を押しつけてきた。驚いたまま、それを受け止める。一瞬で離れた後、音也が微かに頬を赤らめて、ぽつり、と呟くように言った。
「……トキヤにそこまで言われたら、我慢できなかった。ごめん。続き……聞かせて」
「……っ、あなたという人は……」
 こんなことをされたら、言いたかった言葉も言えなくなるではないか。芯に灯る、身を打ち震わせるような熱に耐えながら、トキヤはなんとか言葉を絞り出す。
「好き、なんです……もうそれ以外、何も考えられなくなるくらいに」
「考えなくていいよ。トキヤ、今日から俺のことだけ考えて。俺のことだけ、見ていて」
 音也の両手に頬を包まれて、トキヤは否が応でも音也と向き合わざるを得なくなる。紅玉の瞳はまるでブラックホールのようで、トキヤの全てがそこに吸い込まれてしまいそうだった。その瞳を見つめながら、吸い込まれてもいい、と考えている自分に驚く。いつから自分は、こんなに音也のことを愛してしまうようになったのだろう。
「恋愛禁止令なんて、関係ないよ。俺達は自分の気持ちに嘘はつけなかった。これからは自分の気持ちに従って生きる。トキヤだって、そうだろ?」
「だからあなたは真っ直ぐすぎると言ったのです。隠そうという発想すらないのですか?」
 苦言を呈した後で、でも、とトキヤはふっと笑う。
「そうやって正直に生きるのも、悪くはない、なんて――誰のせいでしょうね? 私がこんな思考をするようになったのは」
「なんだよ、俺のせいかよっ」
 音也は一度不満そうに唇を尖らせた後、頬を緩ませて笑った。つられて笑いながら、トキヤは一瞬だけ、HAYATOのことを考えた。
 これからも自分は、正体を隠して二つの顔を持ったまま生きていくのだろう。けれども音也といる時だけは、一ノ瀬トキヤとして生きている時間だけは、自分自身に正直なままでありたい。そう、心から願った。


素敵なお題に出会い「これを音トキで書きたい!」と思ったことがきっかけで書き始めた連載、完結できました。
書いている間ものすごく楽しかったです。音トキ大好き! 最後までお付き合いありがとうございました!(2011.9.26)