番組の収録で遅くなり、寮に帰ってきたのは午前一時を回ったところだった。鍵を開けようとして、既に開いていることに気が付く。戸締まりはきちんとするよう言っているのに――眉間に皺を寄せて扉を開けたトキヤは、部屋の電気がまだ付いていたことと、机に向かってうんうんと唸っている音也の姿を認めて驚いた。
 音也はすぐにこちらに気付き、ぱあっと笑顔をひらめかせる。
「あ、トキヤ、おかえり! 遅かったね」
「音也……一体何をしているのです? いつもならとっくに寝ている時間なのに」
 バッグを机の上に置いて尋ねると、音也がえっと、と顎に人差し指を当てて天井を仰いだ後、躊躇いがちに上目遣いでこちらを見つめた。
「トキヤってさ……明日の放課後、暇?」
「暇か、と問われれば、暇ではないと言わざるを得ませんね」
 そっか、と残念そうに肩を落とす音也に、トキヤは付け加える。
「どうしても、と言うのなら、予定を空けることはできますが」
 明日の放課後は珍しく仕事が入っていない、いわゆるオフの日だった。とはいえオフの日でもトキヤが遊びほうけるということはない。空き時間は課題を終わらせるか、歌の練習をするのが常だった。明日もパートナーである作曲家志望の生徒と話し合って、一応レコーディングルームの予約を入れてある。
 音也は少し俯いて躊躇う様子を見せていたが、やがて顔を上げて、思い切ったように言った。
「あのさっ! 明日……俺と出掛けない? デ、デート、ってことだけど!」
 言い慣れない単語だからか、つまずきがちに言う。それはトキヤにとっても、あまり自分に向けて発せられたことのない、耳慣れない単語だった。
「……それも、恋人ごっこの一環ですか?」
 僅かに揺れる心の内を悟られぬよう、なるべく冷静に尋ねる。音也はうん、と頷きかけて、何故か躊躇う様子を見せた。
「ごっこ、っていうか……俺がただ、トキヤと二人で遊びに行きたいだけって言ったら、怒る?」
 返ってきたのは、意外な言葉だった。
 この申し出を受けるべきかどうか、トキヤは悩んだ。今までの自分なら、『そんなことには付き合えません』、と即座に拒否していただろう。だが、今自分と音也は恋人同士という設定なのだ。実際がそうでないからといって、なんでもかんでも音也の誘いを拒否していたら、この関係でいる意味がまるでなくなる。それに――心に浮かんだもう一つの理由から目を背けながら、トキヤは顎に手を当てて考える仕草をした。
「ダ、ダメ……かな?」
 音也の不安げな瞳と目が合った途端、トキヤは白旗を揚げてしまった。彼のこんな顔は見たくない、と心から思う。それは今までのように、そんな顔の音也が鬱陶しいと思うだけではなく。
「……分かりました。明日の放課後は空けておきます」
「えっ、ホント!? いいの?」
「そのかわり、私を誘ったからには、全力で楽しませてくださいね」
「もちろん!」
 トキヤが不敵な笑みを浮かべると、音也は思い切り力強く頷いた。明日という日が――とはいえ日付上は今日になるが――楽しみになった。緩む頬を引き締めようとしつつ、トキヤは音也をベッドに行くよう促す。
「さあ、もう二時になりますから、早く寝た方がいいでしょう。明日起きられなくなっても知りませんよ」
「そうだね、うん。良かったぁ、トキヤがいいって言ってくれて……」
 しみじみと喜びを噛み締めるように言いながら、音也が微笑みを浮かべる。トキヤの胸の鼓動も少しずつ速くなっていくことを自覚しつつ、ベッドに入る音也を見届ける。布団を被った音也が、顔を少しだけ覗かせた。
「トキヤは? まだ寝ないの?」
「私はまだちょっと……着替えも済んでませんし」
「そっか。トキヤも無理、すんなよ。明日も朝早いんだろ?」
「ええ、まあ……でも心配は無用です」
 自分にとってはいつも通りのスケジュールだ。朝早く起きて、おはやっほーニュースの収録に向かう。それが終わったらすぐさま学園に戻ってきて、授業を受ける。睡眠時間が少ないのは辛いところだが、もう既に何ヶ月かこの生活を続けているから、すっかり慣れてしまった。
 だから今更取り立てて心配することもされることもないけれど、今は音也の言葉が胸に沁みた。音也が心配してくれるのが素直に嬉しい、と感じたのは初めてだったかもしれなかった。


 音也が誘ったのは、早乙女学園の敷地内にある遊園地、早乙女キングダムだった。さすがシャイニング早乙女の作った遊園地というべきか、何もかもが規格外のアトラクションが揃っている。シャイニング早乙女のセカンドハウスでもあるビックリハウス、よくあるお化け屋敷ではなくリアルな恐怖体験談を集めた恐怖の館など――トキヤも音也もここに来るのは初めてで、二人は揃って物珍しそうに園内を見回した。
 音也がバッグから小さなメモ用紙を取り出し、真剣に見つめ始めたので、トキヤはそれを横から覗き込んだ。
「何を見ているんです?」
「今日、考えてたんだよね。どういう順番で回るか、っていうの。トキヤはどこか行きたいところ、ある?」
「さあ、ここのアトラクションにはあまり詳しくないですから、特には……おや?」
 音也の手書きの文字をまじまじと読んでいたトキヤが、怪訝そうな声を出す。
「観覧車は絶対ダメ、とは、一体どういうことですか?」
 紙の隅に太い字で書いてあるのを見つけて指摘すると、途端に音也がびくりと身体を震わせた。いつもと明らかに様子がおかしい。
「いや、あっ、別に、えっと……ト、トキヤ、観覧車、行きたい?」
「いえ、私は別に……ただ、観覧車はデートの定番だと思っていたのですが、行かないのですか?」
 トキヤの純粋な問いに、何故か音也がふるふると肩を震わせる。まるで雨に濡れて怯えている子犬のような仕草だった。ただ疑問に思ったことを尋ねただけなのに、何故か彼をいじめてしまったような気分になって、トキヤは慌てて言葉を付け加えた。
「別に、あなたが行きたくなければそれでいいんですよ。行きたくない場所に行っても、つまらないだけでしょう」
「いや、うん……そう、だね……ごめん、じゃあ観覧車はナシってことで……」
 音也は歯切れ悪く言った。不審に思う気持ちは残ったが、これ以上追及するのは野暮というものだろう。
 トキヤが入園時にもらったパンフレットと音也のメモを交互に見ていると、ふとある文字が目に留まった。
「シャイニング早乙女の試練……?」
 パンフレットの方にデカデカと、大きな文字で書かれた言葉。その下には、『5つのアトラクションに乗って、シャイニング早乙女の試練を受けよう!』などと書いてある。
「あ、それ。俺もちょっと面白そうだなって思ってたんだよね」
 音也がトキヤの呟きに反応する。表情は、すっかり普段の音也に戻っていた。
 正直あのシャイニング早乙女の試練と聞くと、嫌な予感がしないでもないのだが、他にこれといって行ってみたいアトラクションがあるわけでもない。
「挑戦してみますか?」
「おうっ! トキヤがいいなら、行こうぜ!」
 音也が元気よく拳を空に突き上げる。それを見て微かに笑いながら、そうですね、とトキヤは頷いた。


 初めはメリーゴーランドだった。その次はコーヒーカップ。あのシャイニング早乙女の試練と聞いて、不安半分期待半分だったのだが、二人は裏切られたような思いで二つのアトラクションに乗っていた。
 そのメリーゴーランドやコーヒーカップも、何か特別な仕様があるかもしれないとびくびくしていたのに、普通の遊園地と同じもので、何の代わり映えもしない。音也と二人で乗るのが、少々恥ずかしいと思った程度のものだ。
「なんか、拍子抜けだね」
「ええ。これで終わるはずはない、と思うのですが」
 顎に手を当てて思案しながら、トキヤが相槌を打つ。音也があくびをしながら伸びをして、パンフレットに視線を落とす。次は、と言いかけて、突然音也の足が止まった。一瞬遅れてそれに気付き、トキヤが音也を振り返る。
「どうかしましたか? 次のアトラクションは――」
「あ……えっと……俺、やっぱ無――いやいや! トキヤ、行こう! 早く!」
「え? ち、ちょっと!」
 音也がトキヤの手をぐいと握り、早足で歩き出す。一歩遅れて転びそうになりつつ、トキヤもそれに続いた。石畳の上を歩きながら、トキヤ自身もパンフレットを読む。
「シャイニングタワー……」
 名前とパンフレットの簡単な絵から察するに、どうやら垂直落下系のアトラクションのようだった。ふと、握った音也の手が微かに震えていることに気付く。先程の観覧車の反応といい、今回の落下系アトラクションへの反応といい、音也は何か怖いものがあるのだろうか。
 ――共通するものといえば……高さ、ですか……
 普段から天真爛漫に振る舞って、怖いものなど何もないといった態度を見せている音也が、もし高所恐怖症だったとしたら。
 トキヤはこらえきれず、くつくつと笑い出した。それに気付いた音也が立ち止まって振り返る。その時にはもうトキヤは普段の表情に戻っていたが、音也がしつこく顔を覗き込んできた。
「トキヤ、今笑わなかった?」
「いえ、別に」
「……ならいいけど……」
 音也が再びトキヤの手を引いて歩き出す。これは楽しみですね、と心の中でこっそりと笑いながら、二人はシャイニングタワーへと向かった。


 西の空へと落ちていく夕日を背にしながら、トキヤは音也を背負って歩いていた。自分が大の男一人を背負うこの格好はいささか、どころかかなり奇妙なものであったが、トキヤの心には不思議と不満はなかった。
 トキヤの首に、音也の腕がぐっ、と強く絡みつく。
「……トキヤ、ごめん……」
 首に掛かる熱い息がくすぐったい。トキヤは微かに笑いながら、いいえ、と首を振った。
「まあ、仕方がないでしょう。やはり高所恐怖症だったんですね、音也」
「うん……あーあ、トキヤの前でこんな姿、見せるつもりじゃなかったのに……」
 溜息が洩れる。きっと今の音也は今までで一番落ち込んでいるかもしれないと思ったら、何故か喉元から愛おしさが込み上げた。
 シャイニングタワーに震えながら乗り込んだ音也。何回かの上下運動が終わり地上に戻ると、トキヤは隣に座っていた音也が少しも動かないことに気付いた。ベルトが外れ拘束を失った途端、音也はへなへなとその場に崩れ落ちた。腰が抜けて立てないのだという。仕方がないと、トキヤがおぶって寮まで帰ることにしたというわけだ。
 あまり他人に自分の弱点を知られたくはないものだ。それはトキヤとて同じことだから、今の音也の心情は痛いほど理解できた。けれども、そんな音也の姿を軽蔑したり見下したりするのではなく、愛おしいと思うようになったのは、自分自身の心情も変わってきているからなのかもしれない、と心の中で思う。
 音也を背負って歩きながら、トキヤは言った。
「少しくらい、弱点を見せた方が可愛げがありますよ。以前雑誌に載っていましたが、女性はそんな男性の姿に胸を打たれるのだとか。まあ、私たちはどちらにせよ、恋愛禁止ですが」
 なんだよそれ、と音也が怒ったような声を出すのが、たまらなく愛おしかった。そういえば、と今更のように思い出す。あまり気にしたことはなかったが、音也はトキヤより一つ年下なのだった。そう思うと、余計に愛おしさが込み上げてくる。
「そういうのは、別にいいんだけどさ……」
 不満そうな声が洩れる。
「トキヤは、どうなのさ」
「どうって、何がです?」
「……俺のこと、格好悪いって思った?」
 やはり心配事はそこなのだろう。微笑ましく思いながら、首を横に振る。
「いいえ」
「じゃあ……」
 一旦言葉を切って、呟くように尋ねる。
「きゅんとした?」
 トキヤの心臓が高く跳ねる。その声が既に反則だ、と思った。音也の足を抱えている腕に力がこもる。揺れる心を悟られぬように平静を装いながら、トキヤは言った。
「さあ。教えません」
「えっ、何だよそれ! 俺達恋人同士じゃん!」
「恋人同士でも、別に教える義務はないはずですよ」
 言った後で、恋人、という言葉が、既に自分の中で馴染んでしまっていることに驚いた。周囲に人目がないのもあるが、音也の恋人という言葉を遮らなかった自分にも。
 仮の恋人生活が始まってまだ四日目なのに、この変わり様はどうしたことだろう。始まるまでは、これはあくまで仮のもので、自分が音也に情を移すことなど考えもしなかったというのに。
「ずるいよ。俺ばっかり……」
 音也の呟きが、鼓膜に吸い込まれてトキヤの一部になる。
 それはわかりませんよ、とトキヤは心の中で呟いた。そうは言いながらもまだ、自分の心さえもきちんと整理はついていなかったのだけれど。


この二人が一番ラブラブしてる話かも。高所恐怖症の音也の可愛さときたら!(2011.9.23)