授業が終わった放課後、空は灰色の厚い雲に覆われ、雨が降り出していた。
 さほど酷くはないが、かといって傘なしに出て行くのは憚られる程度の雨。トキヤは教室棟の廊下を歩きながら、小さく溜息をついた。
 これから寮に帰って、支度をしてすぐにでも出なければならない。HAYATOとしての仕事が待っている。遅刻することは絶対に許されないのだ。とはいえ――軒下に立って、トキヤは空を恨めしげに見上げた。せめてもう少し小降りになってくれればいいものを。そんなトキヤの小さな願いは、果たして届きそうにはなかった。
 仕方ない、と、濡れることを覚悟で外に一歩踏み出した、その時だった。
「トキヤー!」
 トキヤは足を止めて、声のした方を振り向いた。廊下の向こうから音也が走ってくるのが見える。音也はトキヤの目の前で立ち止まって、ぜいぜいと肩を上下させた。
「一体何事ですか、大声を出して」
 いつもの調子で言うと、音也が心外だと言わんばかりに口を尖らせた。
「ええっ、何言ってんの、俺達昨日から恋人同士じゃん! 恋人の名前呼んで何がわ――」
 トキヤはたまらず音也の口を手で塞いでいた。何事かと振り返った周囲の生徒たちの視線をなるべく気にしないようにしながら、トキヤは鋭く音也を睨み付ける。
「音也。そのことについては、周囲に言いふらさない約束だったでしょう」
「あ、ごめん。そうだった」
「うっかりにもほどがあります」
 トキヤは呆れ顔で溜息をついて、手を離した。音也は酸素を求めるように空気中で軽く喘いだ後、それでさ、と話を変えた。
「一緒に帰ろうと思って。間に合って良かった」
「一緒に?」
 トキヤは一瞬目を丸くした後、いつもの表情に戻る。
「何故、私があなたと一緒に」
「だって俺達、」
「その先は言わなくても分かります」
 トキヤが慌てて遮った。
 音也は手に持った傘を開き、一歩外に進み出て、トキヤを笑顔で振り返る。
「トキヤ、傘持ってないんでしょ。入りなよ、ここ」
 トキヤは返す言葉を失って奥歯を噛み締めた。傘がないのは事実だった。先日持っていた傘が折れてしまい、新しいものを買わなければと思っていた矢先のことだった。ほら、と音也が、腕を伸ばして傘を差し出してくる。その黒の大きな傘は、男が二人入っても十分なくらいのスペースがあった。
 普段なら、では、と言ってすんなり音也の傘に入ることも躊躇わなかったかもしれない。だが今は違う。自分と音也は、仮とはいえ恋人で、相合い傘なんていうと、つまりはそういうことを想起させるもので、確かに他人から見れば男女のそれよりはどうということはないのかもしれないが、あの狭い空間にいれば、嫌でも音也を意識してしまいそうで――
「ほら、トキヤ!」
 躊躇うトキヤの手を、痺れを切らした音也がぐいと掴んで引っ張った。不意打ちに対応しきれず、トキヤの身体が傘の中へとすっぽり収まる。どころか、勢いづいた身体はその場に留まらずに、音也の腕の中へと放り出される格好となった。
「っ……!」
 自分の身体をしっかりと受け止めてくれた音也の腕を押しのけて、トキヤは顔を逸らした。心臓が早鐘を打っている。こんなことで動揺している自分を、どうしようもなく忌々しく思った。
「じゃ、行こっか」
 音也が何事もなかったかのように歩き出す。トキヤも一歩遅れて、それに続いた。
 傘に水滴の当たる音が、まるでまばらに叩かれたピアノの鍵盤のように響いている。時折音也が水たまりの前で足を高く蹴り上げて水を散らすので、トキヤは思わず眉を顰めた。
「音也、子どもみたいなことをするのはやめなさい」
「え? あ、ごめんごめん。なんか楽しくってさ」
 雨なんて憂鬱なだけだというのに――トキヤは深く溜息を吐いた。
「本当に呑気な人ですね、あなたは……」
 ある種の才能なのではないか、と思う。実際、彼のこういう天真爛漫さは才能の一つなのだろう。素のままに、自分の意のままに振る舞っているのに、誰からも好かれる人柄の良さ。いつも元気で明るくて、自然と人の輪の中心にいるような男だった。
 トキヤはそんな音也を見ているのが辛かった。自分にはないものを、彼はたくさん持っている。トキヤが全身の力を使ってようやく演じることができている性格や人当たりの良さを、音也は生まれ持って身に付けているのだ。羨ましい、と思うことだけはどうしても認めたくなかったが、実際、自分はきっと羨ましかったのだろうと思う。
 音也はいつの間にか鼻歌を歌っていた。授業で出された課題曲らしい。ここ数日ずっと音也はよくその鼻歌を歌っているので、クラスの違うトキヤでさえ自然と覚えてしまった。
 聞きながら、声がフラット気味になっていますよ、と言いかけて、トキヤは口をつぐんだ。トキヤは鼻歌でさえ、細かいところまで気にしてしまう質なのだが、音也はきっとそんなことは全く考えていないだろうから、きっと野暮なことだろう。
 そうして隣の音也の様子をこっそり窺っていると、突然音也がこちらを見たせいで、視線が合ってしまった。トキヤが目を逸らす前に、音也がトキヤの腕を掴んで引き寄せようとする。
「トキヤ、もっと中に入りなよ。濡れるからさ」
 トキヤは音也の腕を振り払っていた。顔に血液が集まってくるのを感じた。
「別に……構いません。平気、ですから」
 その後急に、音也との距離を強く意識した。こうして相合い傘をしていた間、音也との距離は数センチも離れていなかった。何故こんなことで、こんなにも動揺しなければならないのか。自分への苛立ちは、音也への苛立ちにも変わる。そもそもあなたがいけないんです。心の中で呟く。あなたが恋人ごっこをしよう、などと言い出すから――
 傘の中に入れるぎりぎりの範囲で、トキヤは音也と距離を置いた。他人から見れば、きっと不自然な距離だったことだろう。相合い傘をするほどの仲なのに、この距離感は少々不可解だと。
 けれどもこうすることで、トキヤの心はようやく落ち着いてきた。深呼吸を一つ。雨の匂いが、一緒に身体の中へ吸い込まれていくのを感じた。
 それなのに、音也ときたら、まるで空気が読めないらしい。
「トキヤ、手、繋がない?」
 思わず耳を疑った。トキヤは目を丸くして、無邪気に笑う音也を見つめた。
「……どういうことですか」
「恋人同士なら、手とか繋いだ方がいいのかなって」
 一旦落ち着いたはずのトキヤの心臓が、再び暴れ出そうとする。伸ばしかけられた音也の手に逆らうように、トキヤは音也の側にある手をすっと引っ込めた。
「嫌です。誰かに見られたらどうするんですか」
 顔を背ける。音也はそっか、と少々残念そうに呟いた。
 鼓動は速くなったまま、少しも収まる気配がない。トキヤは深く溜息をついて、音也を盗み見た。音也は動揺しないのだろうか。意識しているのが自分だけだ、と思ったら、何だかとても悔しい思いにとらわれた。
「……恋人、ってさ」
 不意に音也が呟き出すものだから、トキヤは驚いて鋭く息を呑んでしまう。
「何をするものなのかな……」
 寂しげに呟かれた言葉。
 せっかく相合い傘をしているというのに微妙な距離感を保たれ、手を繋ごうとすれば拒否されてしまう。音也の疑問はもっともなものだとは思ったが、かといってトキヤが態度を崩すこともない。
「そんなもの」
 トキヤが息を吐きながら言うと、音也の視線がこちらに向く気配がした。
「私の方が聞きたいですよ」
 お互い、男相手は当然のことながら男女交際の経験もない。トキヤは幼い頃から子役として劇団に入っていたせいで、今まで同じ世代の子どもと友達としてすらまともに付き合ったことがなかった。音也も、聞いてもいない自分のことをいつもぺらぺらと喋ってくれるせいで、それらしき経験がないことを知っている。そんな二人が、昨日からいきなり恋人になれと言われたって、はじめから無理な話だったのだ――
「私より、レンの方が適任でしょう」
 トキヤの唐突な言葉に、音也がえっ、と戸惑いの声を洩らす。
「あなたの恋人役です。何も私でなくとも……レンなら、私より経験豊富でしょうから」
 いつも女性を周りにはべらせて、楽しげに談笑している彼なら。
 一度は音也と向き合う覚悟を決めたトキヤだが、ここに来てやはり安易な選択は良くなかったのではないか、という思いが頭をもたげてきた。このままでは音也のためにも、トキヤのためにもならない気がする。ここはやはり、自分より経験の豊富な者が相手役になるべきではないか――
 だが、後に音也が取ったのは意外な行動だった。突然トキヤの無防備な手を掴むと、ぐいと自分の側に引き寄せたのである。あまりに急な行動だったので、トキヤは一瞬反応が遅れた。
「ちょっ、と」
 手を振り払って小言の一つでも言おうと思ったのに、音也はそれを許さないとでもいうように強くトキヤの手を握り締めたまま、先程よりも早足で歩いて行く。
「俺はもう決めたんだ。今更トキヤから変えるなんてこと、しないよ」
 心臓が一段と高く跳ねた。繋がる指から伝わる熱さを嫌でも自覚する。何故。どうして。聞きたかった言葉は、全てその熱に蒸発させられてしまった。
 冷たい雨が降り続く。それなのに、トキヤの身体の芯は火傷しそうなくらいに熱かった。寮に帰るまで、二人の指はずっと繋がれたままだった。


まだちょっとぎこちない二人です(2011.9.18)