「なー、トキヤ、頼むからっ!」
 耳もとで声を張り上げる同室者に、トキヤは眉を寄せて顔をしかめた。
 そのまま無視を決め込むつもりで、机に向かったまま作詞の課題に向かってシャーペンを動かす。それでもしつこくトキヤの顔を覗き込もうとしてくるので、やれやれと溜息を吐きながら、椅子をずらして隣に立つ音也と向き合ってやった。
 音也は顔の前で両手を合わせ、お願いっ、と絞り出すような声で言う。
「……自分が何を言ってるか、分かっているんですか?」
 思った以上に険しい声が出る。それでも音也は怯むことなく、うん、と首を縦に振った。これは思った以上に骨が折れるかもしれませんね――心の中でぼやきながら、トキヤは音也を鋭く見つめた。
「だいたい、私が付き合う義理などありません。あなた自身のことは、あなた自身で解決するべきでしょう」
 それでもなお、音也は食い下がる。
「それはそうだけど、でも、こういうのって初めてで、俺もよくわかんないんだって! だから一週間、フリだけでもすれば、ちょっとは理解できるようになるんじゃないかって……」
「たかだか一週間で、何が変わるとも思えませんね。だいたい、付き合わされる私の気持ちは無視ですか? 男同士なんて、絶対に嫌です」
 そもそも、と、トキヤは白い天井を仰いで溜息を吐いた。何故そんな課題が出されることになったのか。Sクラスの同じ授業で出された課題は、至極真っ当なものであったというのに。あの担任の趣味か、それとも――と、トキヤはAクラスの担任である月宮林檎と、学園長のシャイニング早乙女の顔を交互に思い浮かべた。
 その答えは、案外あっさりと出る。
「リンちゃんが言ってたんだ。最近はこういうのの需要も高まってるからって。呼ばれることもないとは言い切れないから、ある程度練習しておいた方が、心構えもできていいって……」
 確かに業界にいれば聞かない話ではないから、林檎の言葉はもっともらしく聞こえるけれど――それにしても、と、トキヤの口からもう何度目かの溜息が洩れる。もっと練習すべき重要な課題が、他にもあるような気がするのに。
「頼むって、トキヤ! 一週間だけでいいから。恋人ごっこのつもりでさ、なっ?」
 再び、音也がぱん、と勢いよく顔の前で手を合わせる。その様がまるで柏手を打っているように見えて、私は神でも仏でもないのですが、とトキヤは心の中で呆れたように独りごちた。


 それはほんの数分前のことだった。一冊の台本を持ったまま、音也が難しい顔をして部屋に帰ってきた。作詞の課題と向き合いながらそれを横目で見ていると、突然音也が思いがけないことを言い出したのである。
「俺と一週間、恋人になってくれない!?」
 最初は訳が分からなかった。落ち着いて話を聞いてみると、どうやら演劇の課題で、ゲイの男が主人公の台本を渡されたらしい。主人公には男の恋人がいて、恋人に対する愛情と世間体との間で悩み苦しむ、というストーリーだそうなのだが、音也はその主役をやってみるよう、担任の林檎に言われたそうなのだ。
 だが一人で台本をいくら読み込んでも、どうにも主人公の心情がよく理解できない。音也は悩みに悩んだ末、あんな突拍子もない提案をしたということなのだそうだが――一体何がどうなってそういう思考に至るのか、トキヤにはまるで理解できなかった。役作りをしたいからといって他人を巻き込んでまで、しかも男と恋人ごっこをするなんて、狂っている。
「あなたは勉強になっていいかもしれませんが、付き合わされる私の身にもなってください。だいたいそんなことをして、他の人達に関係を誤解されたらどうするつもりですか」
「別に、人前でいちゃいちゃしてくれなんて言ってないって! 俺だってそんなことしたくないし……ただ、恋人同士ってこういうものなんだって、分かればそれでいいだけだから! ね、トキヤ、一生のお願い!」
 音也のような人間の言う“一生のお願い”が、一生モノであったためしなどない。トキヤは呆れたように溜息を吐いて、音也を見つめた。
 音也は必死だ。きっとありったけの想像力をつかっても、台本に出てくる男の心情は理解できなかったのだろう。トキヤでさえ、仮にこの主人公に抜擢されたら、きっと最初は大いに戸惑うことであろうことが容易に想像できた。それでもトキヤなら、一人でなんとか役を掴んで舞台に臨むだろうが、音也はまだ幼いし経験もないから、自分でこの戸惑いを解決する方法が身についていないのだ。
 トキヤは少しばかり、そんな彼を哀れに思った。演技の経験が皆無な生徒たちに、こんな台本をやらせるのは酷だ。そんな同情の気持ちも湧いてきた。
 トキヤの口が自然と開く。そこから飛び出した言葉は、トキヤ自身にとっても意外なものだった。
「……いいでしょう。一週間だけですよ」
 言った後で、思わずしまったと思ったがもう遅い。音也ががばりと顔を上げて、トキヤの両手を強く握った。暑苦しいほどの満面の笑みを、ぐいとトキヤに近づけて。
「や、やったー! ありがとうトキヤ! えーっと、こういう時、恋人なら、ぎゅって抱き付くものなのかな?」
 そう言いながら腕を伸ばしてくるので、トキヤはさすがに身を引いた。
「ちょっと待ちなさい。今からやるんですか?」
「うん。だって、もう俺達恋人でしょ?」
「恋人ではありません。あくまでも仮のものです」
「えー、でもトキヤ、いいって言ってくれたじゃん。それにどうせ、この部屋には俺達しかいないし」
 口を尖らせる音也に、トキヤは肩を落として溜息を吐く。この関係が仮のものだと分かりきっているにしても、もう少し戸惑いや躊躇いがあっても良いものなんじゃないだろうか。それとも、音也は既にこれがごっこ遊びであると完全に割り切れているのか。もしそうなのだとしたら、私はあなたに凄まじい才能を感じずにはいられません――トキヤは心の中で皮肉げに呟いた。
「じゃあ、今日から一週間。お試しってことで、よろしくな! トキヤ」
「……ええ」
 トキヤとしても、一度やると言ったからには手を抜くことはできない。自分としても良い刺激になるだろうから、とひたすら言い聞かせつつ、とことん音也と向き合う覚悟を決めて、そっと拳を握り締めた。


 こうして、二人の奇妙な関係が始まったのである。


お題見てたら書きたくなりました。完結までお付き合いよろしくお願いします!(2011.9.17)