「――ってわけで、トキヤも一緒に来るよね?」
「誰が行くなんて言ったんですか。行くわけないでしょう」
 頭痛がする。トキヤはこめかみに指を当てて、やれやれと首を振った。音也が突拍子もないことを言い出すのはいつものことだが、今度ばかりは理解ができない。
「ええっ、いいじゃん! マサにレン、那月に翔、みんなも来るんだよ?」
「皆が来るからといって、私が行かなければならない理由にはならないでしょう」
「レン、トキヤが来るの、楽しみにしてたけどなあ……」
「大方、あの人は私がそこへ行くこと自体を笑いたいだけでしょう。何を言っても無駄です」
 なおも残念そうな声を出す音也をばっさりと切り捨てて、トキヤは自分の机に向き直った。
 まだ作詞の課題が少し残っている。机の上に転がっていたシャーペンを持ち直し、歌詞の書いた紙に目を落としたとき、なおも自分を見つめる視線に気が付いた。ゆっくりと後ろを振り向く。音也が迷子の子犬のような、切なさすら感じさせる目でトキヤを見つめていた。
「ねえ、絶対ダメ?」
「ダメです」
「絶対に、ぜーったいにダメ?」
「何を言っても無駄だと言ったでしょう」
「お願いだって、この通り! 後生だから!」
「後生なんて言葉、どこで覚えたんですか。あなたらしくもない」
「こないだ、トキヤが貸してくれた本に書いてあったんだ。ほら、あの歴史小説」
「ああ、あれですか」
 きちんと読んでいたのか。トキヤは思わず目を瞠る。
 音也の作詞の課題などを見てやる度に、彼の日本語があまりになっていないことに気付いたトキヤは、先日わざと小難しい歴史小説を渡し、これで表現の勉強をしなさい、と言い渡していたのだ。
 大方読んでいる最中に居眠りでもして挫折するのではないかと踏んでいたが、読んでいたばかりか、そこで書かれていた表現を身に付けるまでに至っていたとは思わなかった。ただ、現代で使うにしては少々古めかしいし、音也の雰囲気には全く合わない言葉だから、実際に応用することは難しいだろうけれど。
「ね、お願いだからさ! トキヤが来ないとつまんないんだって!」
 その時、何があっても動かぬと決めていたはずの心が、僅かに揺らいだ。音也が顔の前で両手を合わせ、必死に頼み込んでいる。その姿に心を打たれたわけではない。同情もしない。だがそこには、トキヤの冷え切った心を揺り動かす何かがあった。
 その一因はもしかしたら――あっさりと認めるのは、少し悔しくもあるけれど――先程見せた音也のひたむきさだったのかもしれない。歌にしろ作詞にしろ、技術面ではまだまだ他の者に劣る音也だが、歌にかける情熱や人一倍楽しもうとする姿勢、目標に向かってひたむきに努力しようとする姿勢に関しては、トキヤは密かに認めてもいた。
「……分かりました」
 トキヤがそう言った途端、音也ははっと顔を上げた。みるみるうちに、驚きの表情が満面の笑顔へと変わっていく。
「えっ、トキヤ、いいの!?」
「今日だけですよ。次からは誘われても行きませんから、そのつもりで」
「やったー!! じゃあ、早速着替えの準備しないと! ほら、トキヤも!」
「少し落ち着きなさい。自分の分は自分でしますから、あなたはあなたの支度をしなさい」
「了解! へへっ、やったね!」
 ガッツポーズする音也を見て、トキヤはそっと溜息を吐く。
 たったこれだけのことで、こんなにもはしゃげるものなのか。私には一体何がそんなに楽しいのか、まるで理解できませんが――そう心の中で呟いて、トキヤは椅子から立ち上がった。
 行くと言ったからには、準備する他ない。着替えの入ったモノクロチェストを開けた後で、鼻歌を歌いながら楽しそうに着替えを選んでいる音也を振り返る。気楽でいいですねなんて皮肉げな言葉を心の中で呟きながら、トキヤはこっそりと、僅かに頬を緩めた。


「イッキ、ちゃんとイッチーを説得できてるかな? 少し心配だね」
 もはや定位置となっているダブルベッドに腰掛けたまま、レンが独り言のように呟く。真斗はタンスを開けかけていた手を止め、少し考えてから、その言葉に答えた。
「きっと大丈夫だろう。一ノ瀬はあれで、一十木の言葉には弱いからな」
「確かに。あのイッチーが、今日だけですよ、なんて言いながら承諾する様子が目に浮かぶようだ」
 レンはおかしそうに笑って、ベッドサイドに置かれていたダーツを手に取り、的に向かって投げる。ダーツの刺さる鋭い音を聞いて、真斗は動かし始めていた手を再び止め、振り返ってレンを睨んだ。
「神宮寺、用意はできたのか? まさか入浴の用意まで、俺にやらせる気ではないだろうな?」
「そのまさかだ、と言ったら?」
「ふざけるな。俺にはそんなことをする義理はない」
 静かな怒りを込めて放たれた言葉に対し、レンは弾けたように笑った。
「おいおい、まさか本気にするとはな。聖川財閥のぼっちゃまは、相変わらず頭の堅いことで」
「あいにく、お前の塵ほども面白くもない冗談を笑って受け流せるほど、寛容ではないのでな」
 む、とレンがぴくりと眉を動かす。真斗はタンスを閉めて、着替えを持って立ち上がった。部屋の時計を確認し、続いてレンに視線を向ける。
「そろそろ約束の時間だ。早くしないと置いて行くぞ、神宮寺」
「はいはい、っと」
 ようやく、レンが腰を上げる。やれやれ、と溜息を吐きながら、真斗はレンの支度ができるまで、ここで見守っておくことにした。


「翔ちゃん! 今日の翔ちゃんのパジャマなんだけど、これなんかどうかな? 可愛いでしょ?」
 じゃーん、という効果音でも付きそうな勢いで目の前に出されたパジャマを見て、翔は思わずうげっ、と声を洩らしてしまった。表情筋が引きつっているのが自分でも分かる。
 それもそのはず、目の前に出されたそれは、白いフリルの付いたピンクのパジャマだったのだ。生地のあちこちには、大小様々なハートが飛び交っている。
 確かに可愛らしい、と言えなくもないが、それは女性が着ているからこそ出る感想。男の自分が着て似合うとはどうしても思えなかったし、認めたくもなかった。
「だーかーら、俺の分は俺が自分で選ぶっつの! 那月は余計なことすんな!!」
 那月の手から強引にパジャマを剥ぎ取り、床に投げ捨てる。途端に那月はあっ、と微かに表情を曇らせた。少しやりすぎたか、と思ったが、そこでご機嫌取りをしたところで良いことなど何もない。それこそ強引な解釈をされて、そのパジャマを持って行かせられる羽目になりかねない。
 翔は深く溜息をついて、着替えの入ったチェストを開けた。いつも着ている前あきの紫のパジャマを取り出し、下着とタオルを持って那月の方を振り返った。那月はというと先程の出来事を引きずる様子は全くなく、自分は自分で、今日着るパジャマを選んでいるようだった。
「似合うと思ったんだけどなぁ。翔ちゃんは小さいから、キュートな柄のパジャマがたっくさん着られるのに……もったいない……」
「ぜんっぜんもったいなくねえ!! だいたいあんなもの、男が着たらおかしいに決まってるだろ!」
「え? 全然おかしくないよ? だって可愛いものは誰が着たって可愛いんですから!」
「俺、お前の感覚についていけねえしついていきたくもねえ……」
 翔は脱力して項垂れた。
 那月がこうなのはいつものことだが、一向に慣れる気配がない。それどころか、那月の行動はどんどんエスカレートしているようにすら感じられる。そのせいで、いくら耐性を付けても追っつかないのだ。自然と溜息を吐く回数も増えている。俺、そのうち寿命が縮まりすぎて死んじゃうんじゃねーか。そんなことを、わりと本気で考えてしまうほどに。
 ふと時計を見ると、約束の時間が五分前に迫っていた。やっべ、と翔は那月を急かす。
「おい那月、もうすぐ時間だぞ! 早くしろって!」
「あ、はーい。遅れちゃまずいですもんね〜」
 そう言いながら、那月は作業の手を一向に早めようとしない。焦れったくなって、翔はその場で思わず足を踏みならした。いっそ眼鏡を取って砂月にすれば、少しは作業効率も上がるだろうか。一瞬そんな考えが過ぎって、翔は慌てて首を横に振る。そんなことをしてしまえば作業効率どころの話ではなくなる。自分の命が危ない。
 どっちにしろ、自分はこいつに思いっきり寿命縮められてる気がする――翔は憂鬱な気分を抱えて、溜息を吐いた。

* * *

「あ、マサとレンだ。おーい!」
 どうやら先客がいたらしい。レンと共に階段を下りながら、真斗は大浴場の入り口に立っている音也に向かって小さく手を振り返した。その隣にはトキヤがいつもの無表情のまま立っていて、真斗は心の中で微かに笑う。さすがだな一十木、と呟きながら。
 レンもトキヤの姿を認めたらしく、おやおや、と頬を緩めた。
「来たんだな、イッチー。イッキに相当熱烈に口説かれたようだね」
「勘違いしないでください。あまりに食い下がられるのが煩わしいから来たまでです」
「へえ、そんなに? 全く、イッキの情熱には参るね」
 レンが意味ありげに笑みながら、二人に視線を送る。トキヤが呆れたように溜息を吐く隣で、音也はその視線の意味に気付かずに、無邪気に笑った。
「やっぱさ、みんないた方が楽しいじゃん。トキヤもいなきゃつまんないよ、ね?」
「ああ、その通りだな。ところで、四ノ宮と来栖はまだなのか?」
 そう言いながら真斗が後ろを振り返ると、ちょうど二階から那月と翔が顔を出したところだった。那月がおーい、と言いながら階下に向かって大きく手を振り、音也がそれに応える。
「那月! 翔!」
 翔は軽く手を振った後、階段の手すりに腰掛け、あっという間に階下まで滑り降りてきた。那月はそれを微笑ましげに見つめながら、ゆっくりと階段を一段一段下りてくる。
 これでようやく、六人が揃った。着替えとタオルなどを持ったそれぞれが改めて向き合う。皆の顔を見回した後、音也が心底嬉しそうに言った。
「よーし、これで全員揃ったね! 一度みんなで行ってみたかったから嬉しいよ、大浴場」
「そういえば、音也に言われるまで存在忘れてたんだよなー。部屋に浴室完備してるし。思い出してみりゃ、入学前に寮を案内された時に先生が言ってたっけ」
 翔の言葉に同意した二、三人が、うんうん、と頷く。早乙女学園は学内の設備だけではなく、無論寮の設備も超の字が付くほど豪華で、各部屋にトイレ、洗面台、浴室、台所が完備している。それ故に部屋の中でほとんどのことが事足りてしまうので、便利と言えば便利なのだが、せっかく同じ建物の中で過ごしてるんだしさ、と言って今回のことを提案したのが、音也だった。
 みんなで大浴場なんて、修学旅行みたいでわくわくするじゃない――音也がそう言って同じAクラスの二人に話したところ、思った以上に良い反応だったため、同室のSクラスの三人も誘うことにしたのだ。
「さっきちょっと見てきたんだけど、大浴場の中、誰もいないみたいだったよ」
「へえ、それは都合が良いね」
「ならば少しは静かに過ごせるのではないか? 一ノ瀬」
「……このメンバーの時点で、静かに過ごせる気など微塵もしませんが」
「じゃあ、みんな揃ったんですし、早く入りましょうよ! 僕音也くんの話を聞いてから、楽しみで夜も眠れなかったんですよぉ」
「お前、話聞いたの今日だったろ……」
「翔ちゃん、さっきのは喩えですよ、喩え」
「お、お前の言ってることは本気かそうでないかわかんねーんだよ!!」
「ま、まあそれはいいとして、じゃあ早速入ろっか!」
 めいめいに好きなことを話す皆を音也が促し、六人は大浴場の中へと吸い込まれるようにして入っていった。


 脱衣所はだだっ広く、学園にいる男子が全員来ても問題ないのではないかと思うくらいずらりとかごとロッカーが並んでいた。六人は適当な場所に持ってきた着替えを置き、早速服を脱ぎ始めた。
 いち早く脱ぎ終わった翔に、レンは意味ありげな視線を送る。翔がその視線の先にあるものにようやく気付き、慌てたようにタオルで隠し、レンを睨み付けた。
「おいレン! な、何じろじろ見てるんだよ!」
「いや、別に? ただ、おチビちゃんはそこもおチビちゃんなのかな、と思ってね」
「そうそう! 翔ちゃんの、ちっちゃくて可愛いですよねぇ」
 さらっと割って入ってきた那月に、翔は全力で抗議する。
「那月! お前まで余計なこと言うな!!」
「おやおや、おチビちゃんの顔が真っ赤だ。からかいがいがあるねえ」
 にやにやと笑うレンを、トキヤはたしなめた。
「その辺にしておきなさい、レン。翔が可哀想でしょう」
「そうだぞ、神宮寺。最年長のくせに大人げない」
 真斗が加勢に入る。翔ははぁ、と深い溜息をついて、項垂れた。
「なんか、庇われたらますます惨めになってきた……」
「翔、あんまり気にするなって。大きさで何かが決まるわけじゃないし……」
「うっ、音也にまで……俺、泣いてもいいか?」
 腕で目を塞ぎ、泣く仕草をする翔。皆がその様子をにやにやと見つめたり、同情の視線を送ったりする中、六人全員服を脱ぎ終わったので、早速中に入ることにした。
「うわー、広いなぁ!」
 音也の声が、大浴場にわあんと響き渡った。入って右側のスペースにはシャワーがいくつも並んでおり、正面には大きな浴槽がいくつもあった。普通の浴槽もあればジャグジーバスもあり、中には乳白色をした湯の風呂や、薔薇の花が無数に浮いている風呂もある。六人はしばらく、その内装に見とれていた。
「さすが、ボスはやることが違うね。規格外だ」
「それにしてもここまでとは。我が家の風呂も、さすがにここまでは広くないぞ」
 しみじみと感嘆の溜息を洩らす御曹司。
「僕、あの薔薇のお風呂に入ってみたいです!」
「すげえな……せっかくだから全部試してみたいけど、のぼせそう」
 無邪気にはしゃぐ那月と、冷静に言いながらも目が輝いている翔。
「トキヤ、どれから入る?」
「私は身体を流してからです。洗ってからでないと、湯が汚れますから」
「あ、そっか。じゃ、俺もそうしよっと」
 そんな会話を交わしながら、先にシャワーのところへ向かう音也とトキヤ。
 トキヤの言葉を皆聞いていたようで、もっともだと頷き、全員でシャワーのところに向かった。洒落たデザインの白いバスチェアと洗面器、それにシャンプーやボディソープなども全て完備されていた。
 トキヤが持参したシャンプーを使うのを見て、隣に座っていた真斗が思わず目を瞠る。
「それ、もしかして神宮寺と同じシャンプーではないか?」
 トキヤが思わずえっ、という驚きの声を発した。それを聞きつけたレンがトキヤの使っているシャンプーを手に取って、
「ああ、本当だ。まさかオレとイッチーが同じものを使っていたとはね」
 と、しみじみ言った。
「すごいなあ、よく分かったね。マサもこういうの、詳しいの? 俺はあんまりこだわらないから、違いが分かんなくってさ」
 横から音也が真斗の顔を覗き込んでくる。真斗はいいや、と首を横に振った。
「俺もさほどこだわらないので、詳しくはないが……一ノ瀬が使ったときに香ってきた匂いで、気付いた」
「このシャンプーはさほど強い香りはしないはずなのですが、……すごいですね」
「俺、Sクラスだし二人とよく一緒にいるけど、全然気付かなかったぜ?」
 トキヤと翔に言われて、真斗は何故か急に顔を赤らめた。慌てたように顔を背け、身体をこすっていたタオルを手に取る。
「別に……その、たまたま、だ」
「分かっても不思議じゃないですよねぇ。真斗くんはレンくんとずっと一緒にいるんですし」
 那月が微笑みながら言うと、真斗が慌てたように反論する。
「ず、ずっとではない! 四ノ宮、誤解を招くような発言は――」
「まあ確かに、ずっとといえばずっとかな? 部屋で過ごしている間は、顔を突き合わせているわけだしね」
「神宮寺、お前まで……!」
 真斗に睨み付けられても、レンは余裕を崩さない。やがて真斗はやや悔しげに視線を逸らし、身体を洗うのに集中し始めた。
 成り行きを見守っていたそれぞれも、それまで自分がしていた動作に戻っていく。
「翔ちゃん、せっかくだから背中洗いっこしよう!」
「い・や・だ! つか、自分で洗えるっつーの!」
「音也、流すのは少し待ちなさい。背中が全く洗えていませんよ」
「えっ、ホント? 手が届きにくくって……」
「……仕方ないですね。しばらくじっとしていなさい」
 このだだっ広い大浴場に六人しかいないにもかかわらず、めいめいの声はそれなりに大きく響いている。つくづく自分たち以外に誰もいなくて良かったと、真斗は頭を洗うレンの後ろ姿を盗み見ながら、そっと溜息を吐くのだった。


 頭や身体を洗ってさっぱりした後、六人はいよいよ浴槽へと足を向けた。
「よーし俺、いっちばーん!」
「あ! 俺も行く!」
 音也と翔がはしゃぎながら、普通の透明な湯の浴槽に飛び込む。やれやれ、と呆れたように肩をすくめて、トキヤは一人で乳白色の風呂へと向かった。
「オレはジャグジーかな。なかなか気持ちが良さそうだ」
 レンは唇の端をくいと上げて、激しく湯が噴き出しているジャグジーバスへと向かった。真斗は少しきょろきょろした後、音也や翔と同じ風呂に入る。
「僕はもちろん、薔薇のお風呂! ああ、可愛いだけじゃなくて、素敵な香りがしますね……!」
 那月も感動したような口調で、ざばざばと薔薇の園へと足を踏み入れた。
 しばらくは静かに入っていたものの、無論、大人しいまま終わるわけがなかった。やがてにやり、と笑みを浮かべた翔が、隣にいた音也に水を掛けたのである。音也は不意打ちをくらって、驚いたように叫んだ。
「うわっ! 何すんだよー、翔!」
「へへっ、悔しかったらやり返してみな!」
 翔の挑発に乗って、音也はその場で立ち上がり、翔に向かって水を思い切り掛ける。その勢いで、近くにいた真斗の顔にも水しぶきがかかった。う、と呻きつつ、水滴を拭うと、申し訳なさそうな顔をした音也が目の前にいた。
「うわ、マサ、ごめん! 大丈夫だった?」
「いや、平気だが……」
「そうだ、せっかくだから聖川も参戦しろよ! ほら、音也に仕返ししてやれって!」
「なんだ? 楽しそうなことをしているね」
 いつの間にか、ジャグジーバスから出たレンが浴槽にざばざばと音を立てながら侵入してきた。音也が嬉しそうに反応する。
「レンまで! よーし、こうなったら本気でやらなきゃな!」
「望むところだぜ!」
「お前も本気でやれよ、聖川。男なら、売られた喧嘩は買わなきゃな?」
「……ふん。お前に言われるまでもない」
 真斗はぴくりと眉を動かして、その場に立ち上がった。単純だねえ、というレンの言葉を無視して、前に立っている翔のいる方向を睨み付ける。
 やがて、音也が手を水面に叩き付け、激しい水しぶきを起こしたところで、勝負の火蓋は切られた。翔が思い切り水を掬い上げる。レンは努めてスマートな動きをしながらも、確実に相手を狙って水しぶきを飛ばす。真斗は要領が分からないながらも、果敢に水を掬い上げて飛ばし、健闘していた。
 そして少し離れた場所から、そんな様子に気付く様子もないまま薔薇風呂を楽しんでいる那月と、眉間に皺を寄せて眺めているトキヤがいた。
「全く。この年になって……もう少し落ち着いて入ることはできないのですか。風呂は遊ぶ場所ではないのに」
 ――しかしながら、束の間の平穏は破られる。
 呟くトキヤのところへ、ついに水しぶきが飛んできたのである。それも、レンの放ったピンポイントの水しぶきが直接飛んできたのだから、その被害は相当なものだった。
「うっ!」
 思わず叫んで、頭を庇う体勢を取っていた。ようやく顔を上げた時に、レンが気障な笑みを浮かべながら、ウインクをするのが目に入った。
「すまないね、イッチー。オレのしぶきが偶然、そっちに飛んで行ったみたいだ」
 その笑みは、あるいは――レンがわざとトキヤに仕掛けたものなのかもしれないと思わせるものでもあった。トキヤはそれを見過ごせず、表情に静かな怒りを湛えて立ち上がる。音也や翔、真斗もただならぬ雰囲気を感じたらしく、動きを止めて二人の様子を見守っていた。
「それで挑発しているつもりですか? レン」
「さあ? さっきのは偶然、だからね」
 あくまでもとぼけようとするレンを、トキヤは鋭く睨み付ける。
「――本来、このような挑発に乗ったりはしないのですが」
 僅かに前傾姿勢になると、トキヤは手のひらを上にして、水を掬うような体勢を取った。
「そちらがその気なら、本気で行かせてもらいます」
 刹那。
 トキヤの手が素早く上がるのと同時に、大量の水しぶきが、浴槽と浴槽の境界を越えて舞い上がった。大きな音を立てて、水面を叩きながら落ちていく。トキヤの側にいたレンや真斗を、巻き添えにして。
「へえ、なかなかやるじゃないか、イッチー」
「一ノ瀬……その気なら、俺も本気で行かせてもらうぞ」
「元より覚悟の上!」
 トキヤは一旦乳白色の風呂から上がると、隣の浴槽に乱入した。ぽかんとしながら成り行きを見つめていた音也と翔も、面白がって再開する。
「いっけええ!!」
「もっとスマートに動くべきだよ、イッキ。ほら、こんなふうに!」
「っ! 神宮寺貴様、ただではおかんぞ!」
「聖川さん……残念です、あなたはこちら側の人間だと思っていましたが!」
「うわーっ! トキヤ、お前のやり方だとこっちにまでしぶきが飛んでくるんだよ! くそっ、これでもくらえ!」
 余裕の笑みを浮かべる者、敵となり得る者達全てに鋭い視線を送る者、あくまでも楽しむ姿勢を崩さない者――五人の姿勢はそれぞれだったが、皆真剣だった。
 そう――あまりにも夢中になりすぎて、隣の薔薇風呂に入っている者の存在すら、忘れてしまうほどに。
「おりゃああああっ!」
 翔が渾身の力で、水しぶきを放つ。
 雨のように降り注ぐ水しぶきは、その場のみでは収まらなかった。薔薇風呂をマイペースに楽しんでいた那月の眼鏡を弾いてしまうほど、その勢いは激しかったのだ。
 背を向けたまま、那月はその場に立ち上がった。ざばん、という水音を聞いて、皆が那月の方に視線を向ける。最もその近くにいた翔が、那月のただならぬ雰囲気に気が付いた。
「ちょっ、那月お前、まさか――」
「お前たち……いい加減にしろ!!」
 鋭い眼光を宿らせて振り向いた那月は、もう普段の那月ではなかった。黒縁の眼鏡が薔薇の上に浮いている。翔はそれだけで、全てを悟った。
「ま、まずい、みんな、逃げろ!!」
「逃がさん!!」
 那月――否、砂月が、驚くべき身体能力で跳躍し、隣の浴槽に乱入する。
「な、何あれ!? 那月……!?」
「わからん、だがいつもの四ノ宮ではないような――!」
「これはおチビちゃんの言う通り、大人しく逃げた方が懸命、かな」
「呑気なことを言っている場合では――!」
 ただならぬ雰囲気を悟った四人が、たちまち浴室に散る。事情を知る翔だけが、砂月を那月に戻そうと、浴槽の中でひたすら奮闘していた。


「楽しかったですねぇ! 薔薇風呂、最高でしたよー」
 脱衣所で着替え終わった那月が笑顔で言うのを聞きながら、五人は表情を引きつらせていた。
 まさかふざけた遊びで、あんなことになるとは思いもしなかったのだ。あやうく大浴場の壁を壊し、管理人から睨まれてしまうところだった。管理人を怒らせたらデビューできない、という噂は、以前から生徒達の間でまことしやかに囁かれていた。那月の豹変を見てしまった後では、ただの噂レベルの話だと流せるほどの余裕など、五人にはなかったのである。
「あれぇ? 皆さん、どうかしたんですか? 表情が硬いですよ?」
「いや……なんでも、ない……」
「つーか、お前のせいだろ……」
「え、え?」
 きょとんとする那月を尻目に、まあまあ、と音也がその場をまとめようとした。
「でもさ、楽しかったよね! みんなでお風呂入るなんて、ほんと修学旅行以来でさ」
「確かに。男と風呂に入る趣味はないが、悪くない経験だった。また来てもいいね」
 レンが腕を組んだまま、頬を緩めた。
「そうだな。俺もあまり大人数で風呂に入ることがなかったので、楽しかった」
「俺もだな! 楽しかったよ。まあ、最後は大変だったけど……」
 翔が溜息をついて、那月をちらりと一瞥する。
「トキヤは? どうだった?」
 音也が顔を覗き込みながら尋ねると、トキヤは少し困ったように眉根を寄せた。皆がトキヤに注目する。トキヤは言葉を選ぶように、小さく唇を動かした後、声を出した。
「まあ確かに、種々のアクシデントはありましたが」
 アクシデント、を強調しつつ、トキヤは言葉を続ける。
「入り心地自体は悪くないものでした。気が向けば、また来ることもあるかもしれません」
「よーし! じゃあまた今度も一緒に入りに来ようよ! ね!」
 音也が言うと、トキヤを除く四人がうんうん、と頷く。決まり、と音也が拳を上げた。
 反応せず着替えを続けていたトキヤは、なおも手を動かしつつ、誰にも気付かれぬようにと注意を払いながら、こっそりと頬を緩めた。


早乙女学園の寮に大浴場がある(ドラマCD情報)と聞いてから一度書いてみたかったネタ。みんな大好きなので全員書けて大満足です!(2011.8.19)