「……あ」
 引っ越しのため、学園寮の部屋の整理をしていた翔は、ラックに並べられていたCDにふと目を留めた。
 そのジャケットに印刷されているのは、23歳の頃の日向龍也の姿だった。黒いシャツをボタンを留めずに羽織り、ワイルドで色気あるポーズを取っている。アイドル・日向龍也の出した、最後のシングルCDだった。
 日向のファンである翔は、彼の出したCDは全て買い集め、音楽プレーヤーに入れて何度も何度も聴いていた。そのため敢えてCDを引っ張り出して聴くことはあまりなかったのだが、ふと、今聴いてみようかという気になった。ダンスの練習で使っていたCDデッキを持ってきてコードの先をコンセントに差し込み、CDを入れて再生ボタンを押す。
 誰にも媚びることのない力強い歌声が、部屋に響き渡った。翔は日向の声に、じっと耳を傾けていた。まだ若手の頃の日向。歌っていた頃の日向。もちろん先生は今でも格好いいけど、と心の中で前置きして、翔は思う。この頃の日向は、夜空に煌めく一番星のように最高に輝いていたと。
 テレビの中の日向龍也を憧れの視線で見つめていたあの頃を思い出し、翔は不意に胸が熱くなった。同時に日向との初めての出会いも、芋づる式に思い出されていく。翔を不良から助け、背中を向けて去っていく日向は、世界で一番格好いいと思った。自分もああなりたい、そう思って、翔はこの学園にやって来たのだ。
 その憧れの気持ちは、今では少し形を変えてしまったけれど、それでも日向を慕い続ける気持ちに変わりはない。翔は唇を噛み締めながら、なおもスピーカーから流れ続けてくる日向の歌声に、じっと耳を傾けていた。
 CDケースから歌詞カードを取り出して、歌詞を口ずさむ。ふと、この歌の作曲者の欄に目がいった。春輝、という名前には見覚えがあった。かつて、学生時代から日向のパートナーを務めていた作曲家。今は亡きその人を偲ぶ意味で、先日のソングステーションで久しぶりに歌を披露した日向の姿を思い出し、翔の胸は思わず熱くなった。


 卒業オーディションに合格し、晴れてシャイニング事務所の準所属となった翔は、これから事務所の寮に住むことになる。先日学園寮から引き上げてきた荷物を運び込み、引っ越しが終わる頃には、すっかり夜になってしまっていた。
 空腹を感じ、何か食べ物を買いに行こうと、部屋の外に出る。鍵をかけ終えたところで、後ろから声を掛けられた。
「来栖! 引っ越し、終わったのか?」
「あ……日向先生!」
 そこには、白縁眼鏡をかけた日向が立っていた。いつもと違う姿に、翔は思わずどきりとする。普段より知的そうに見える、なんて言ったら、きっと日向は怒るだろうが――普段のワイルドな雰囲気とのギャップに、心を奪われていた。
 ぼうっと見つめていたら、日向が苦笑して翔の頭をぽんぽんと軽く叩く。
「どうしたんだ? 俺の顔、じろじろ見たりして」
「あっ、いやっその! 先生が眼鏡かけてるとこ、初めて見たから」
「ああ、コレか。事務仕事が増えてから、ちょっと目が悪くなっちまってな」
 日向はははっと笑って、眼鏡の縁を指で挟んで軽く下ろしてから、もう一度掛け直した。
 レンズから覗く色素の薄い瞳に、思わず目を奪われる。けれどすぐに我に返って、翔は日向に尋ねた。
「先生、そういやなんでここに? 先生の部屋もこの寮にあるのか?」
「ああ、ここの二つ上の階にな。ついでに仮の事務所も俺の部屋の隣に置いててな、最近はずっとここで仕事してるんだが……良かったら、来るか?」
「えっ、いいの? 行く行く!」
 翔は即答していた。翔は日向の教師としての姿しか知らないから、日向が普段どんなふうに仕事をしているのか、大いに興味があった。日向は口角を上げてにやりと笑み、ついてこい、と視線で合図した。


 階段を上る靴の音が二人分、マンション内に響き渡る。最近日向はエレベーターを使わず、階段で上がることを心がけているらしい。事務仕事してると身体がなまるからな、と日向は軽く振り向いて笑った。
「ほら、ここだ。ちょっくら散らかってるが……まあ、上がれ」
「お邪魔しまーす」
 部屋の間取りは自分の部屋と全く同じものだった。玄関から入って廊下を進むとその先にリビングがある。リビングの中には日向の事務机と、あちこちに書類がたくさん置かれていた。触れないように注意しながら、翔は日向に言われるまま置いてあるソファに腰掛ける。
「そういやチビ、お前晩飯食べたか?」
「いや、まだ。さっき買いに行こうと思ってて」
「そうか。んじゃ、なんか作るか」
「えっ、先生料理作れんの!?」
「馬鹿にすんなよ、これでも一人暮らしが長いんだ」
 日向は唇の端を上げて笑うと、スーツの上着を脱いで椅子の背にかけ、腕まくりした。翔はじわじわと興奮が込み上げてきて、ソファから身を乗り出してキッチンに向かう日向の背を見つめた。
「先生、俺、なんか手伝えることあるかな。食器とか出しておいた方がいい?」
「あぁ、そうしてもらえると助かる」
 翔はよっと、と言いながらソファを飛び越え、キッチンに向かった。
 しばらくして、油の良い匂いが漂ってきた。フライパンに玉子を割り入れ、ご飯を入れて、どうやらチャーハンを作るつもりのようだ。翔は思わず深呼吸していた。胸一杯に良い香りが広がって、翔の腹がぐぅ、と音を立てた。
「はは、チビ、そんなに腹減ったか?」
「うん、俺もうペコペコだぜ!」
 日向はそうか、と豪快に笑った。
「ま、それも元気の証拠だな。よーしできた、盛りつけすっぞ」
「はーい!」
 あらかじめ翔が出しておいた器に、日向がチャーハンを盛りつけていく。チャーハンを盛って終わりではなく、そのまま日向が綺麗に形を整えていくのを見ながら、翔は意外だと思った。そういえば。翔はスプーンを二人分出してテーブルの上に置きながら、ふと思い出す。先生って、ああ見えてわりと几帳面なとこ、あるんだよな。
「よしチビ、思う存分食べろ」
「はーい! いっただっきまーす!」
 元気よく言いながら手を合わせ、翔は早速スプーンを持ってチャーハンを掬い上げた。
 日向のチャーハンはおいしかった。程よい塩加減、そして玉子と適度に絡んだぱらぱらのご飯。うめぇ、と何度も言いながら平らげると、日向は嬉しそうに笑ってくれた。
 食後の食器洗いは翔が担当することになり、日向はその間仕事に戻った。皿を洗い終えて翔がリビングに戻ると、日向の姿はなかった。パソコンは立ち上げたままだ。トイレにでも行ったのかな、と思いつつ、翔は辺りを見回した。
 机のあちこちにはいくつも書類が置かれていて、一目見ただけでも日向の仕事が大変そうだということが分かった。触らないようにしながら、机の後ろに置かれたファイル棚やラックを眺める。
 そこで翔はふと、部屋の端にCDラックが置かれているのを見つけた。おそらくは日向のコレクションだと思われるCDがいくつもあり、翔は触れないようにしながら、一つ一つのタイトルを見ていった。月宮林檎をはじめとしたシャイニング事務所に所属するアイドルの歌もあれば、少し古いアーティストのCDも置かれている。
 その中に混じって一つだけ、先日翔が聴いていた日向の曲の入ったCDが置かれているのを見つけた。その曲を頭の中で再生しながら、翔はふと寂しい気分になった。
「先生、歌えばいいのに」
 禁句とされているはずの言葉が、するりと口から零れ落ちる。その時カチャリという音がして、リビングの扉が開いた。翔が顔を上げると日向が戻ってきていて、翔がラックの近くにいるのを見て、日向は軽く笑った。
「なんか気になるCDあったか? 別に聴いてもいいぞ」
「あ……えっと」
 翔は一瞬躊躇ったが、日向が最後に出したシングルCDを手に取り、日向に見せた。
「じゃあこれ、聴いても……いい?」
 その途端、日向の顔色が変わった。大きく目を見開いたかと思うと、早足で迫ってきて、翔の手から素早くCDを取り上げてしまう。あっ、と小さな声を上げると、目前には日向の顔が迫っていた。目の奥が笑っていない。
「これだけはやめてくれ」
 日向は一段と低い声でそう言った後、CDをラックに戻した。翔はあまりの迫力にしばらく動けずにいたが、意を決して、椅子に座った日向の前に立った。
「先生は……もう、絶対に歌わないのか?」
 書類に目を通しかけていた日向が顔を上げる。その鋭い視線に萎縮しそうになったが、なんとか足を踏ん張って堪えた。日向が口を開く前に、翔はもう一度言葉を発する。
「知ってるよ。先生が……パートナーの作曲家を亡くして、それ以来歌わないって決めてること。でも……先生は、まだ歌えるのに。俺、先生の歌が好きなのに」
 授業で手本として聴かせてもらった日向の歌声を思い出す。あの力強い声は健在、どころか、当時よりも洗練されたものとなっていた。だからこそ勿体ない、と思った。声は年齢と共に劣化していく。当の日向にそう教わったから、尚更のこと。
 日向は椅子の背に身体を預け、深く溜息をついて、足を組んだ。
「……俺はもう、歌わないって決めてんだよ」
 返ってきたのは、予想通りの言葉だった。けれどその言葉の響きに滲んだ苦しげな響きに、翔は気付いた。まるで歌わない、と自分で決めたのではなくて、歌わないという選択肢を選ばざるを得なくなったというような――
 日向の表情がじわじわと厳しさを増していく。同時にその表情に苦渋と憂いの色が滲むを見て、翔は踏み込んではならない領域に踏み込んでしまったと感じた。
「……すみません」
 翔はぐっと拳を握り、小さく謝った。すると日向はふっと表情を緩め、俯きかけた翔の顔を座ったまま見上げた。
「来栖、そんな顔すんな。お前が俺に憧れを抱いてくれてるってのは知ってる。だから俺に歌ってもらいたいって思ってんだろ? だがそれはできねぇんだ、すまねぇな」
「いや、俺の方こそ……勝手なこと言ってすみませんでした」
 いいんだ、と日向は軽く笑って翔の腕を横から軽く叩いた。
「そんな顔すんなよ。ああそうだ、せっかく来たんだし、ちょっと手伝ってもらうか。あそこに散乱してる書類、順番に並べて揃えておいてくれねぇか?」
「あ、はい! やります!」
 翔は顔を上げて、日向の指差した先にある書類の前へと飛んでいった。全て集めて整理しながら、翔はパソコンに向かっている日向の横顔を盗み見た。その表情に、先程見えた苦しげな色は微塵も感じられなくなっていた。
 けれどあれは見間違いではなかった、と翔は思う。初めは単純なファン心理だったが、今は――こんなことを思うのはおこがましいのかもしれないが――日向の近くにいて、日向の苦しみを取り除きたい、その上で自分の歌と再び向き合うようになって欲しいと、翔は強く願うようになっていた。


 日向の仕事を少し手伝った後、もう帰った方がいいと促されて、翔は日向の事務所を出た。
 出た頃には、もう九時を過ぎていた。明日は早速、雑誌の撮影の仕事が入っていると聞いている。早く寝なきゃな、と階段を下りて自分の部屋のフロアに来たところで、翔は忘れ物をしたことに気が付いた。メールを確認しようとポケットから出した携帯を、そのまま日向の事務机の上に置いてきてしまったのだ。翔は慌てて階段を上り、日向の事務所に戻った。
 呼び鈴を鳴らしたが、返事が無い。いるはずなのにな、と思いつつ、翔は念のためノックをして、扉を開けた。
「失礼しまーす……」
 仕事の邪魔になるかもしれないと、そっと足音を忍ばせて歩く。リビングに続く扉が微かに開いていた。中に入ろうと、一歩踏み込んだその時だった。
「せんせ――」
 翔はその場から動けなくなった。
 日向がこちらに背を向けたまま、先程翔がいたCDラックの前に立っていた。――微かに肩を震わせながら。
「……春輝……」
 すすり泣く声が聞こえてきて、翔は幻聴ではないかと耳を疑った。だがそれは、紛れもなく日向龍也の嗚咽だった。春輝、という名前に、翔は聞き覚えがあった。日向のかつてのパートナーだった作曲家の名前。
「……歌えねえんだよ、俺は……」
 絞り出すような声に、翔は心臓を鷲掴みにされたような気分になる。やはり日向は“歌わない”のではなく“歌えない”のだと、確信する。
「お前の歌じゃねえと……なあ、春輝、なんで……なんで、いなくなっちまったんだ、お前は」
 日向の肩が、いっそう大きく震えた。翔はリビングから見えないよう廊下の壁に背をもたせかけ、心臓辺りの服を掴んでいた。
 日向にとって春輝という人物がどれほど大切な人物だったのか、今はっきりと分かった気がした。当然だが、作曲家はこの世に一人しかいないわけではない。パートナーがいなくなったからといって、もう一生歌えなくなるわけではない。まだ歌いたいと望むなら、新しく作曲家を見つければいいだけの話だ。だが日向がそうしなかったのは、日向にとって春輝という人物が唯一無二の人物だったからだ。彼の曲でないと歌えない、そう日向に思わせるだけのものが、春輝にはあったということなのだ。
 翔は思わず、先程浮かんだ自分の願いを思い出してあまりのおこがましさに震えた。自分が日向の苦しみを癒すなど、思い上がったことを考えていたのが恐ろしい。自分が春輝の代わりになれるわけがないのだ。自分は生徒で日向は教師。その一線を越えることすらもまだできていないのに、あわよくば日向にとって最も大切なところにいた人物に成り代わろうだなどと、傲慢にも程がある。
 胸が痛くてたまらなかった。自分の思い上がりも、日向から伝わる苦しさも、全てが胸の痛みに変わった。あまりの痛みに涙が浮かび上がりそうになって、翔は慌てて堪えた。息ができない。あまりの息苦しさに耐えかねて、翔は思わずその場から立ち去っていた。
「先生……」
 憧れが少し違う感情に変わったのはいつだっただろう。いつの間にか、というのが正しいように思う。積極的に自分の勉強を見てもらい、課題にアドバイスをもらうたび、翔の心は嬉しさで震えていた。その震えが鼓動の揺らぎを伴うようになった時、翔はうっすらと自覚していたように思う。自分は日向龍也が好きなのだと。けれどそれは所詮叶わぬ思いだ。ある程度持っていたはずの諦めが、完全なる絶望に変わった。自分はあの場所に、どう頑張ったって届きやしないのだ。
 部屋に帰って、翔はベッドに飛び込み、枕に顔を埋めて声を押し殺して泣いた。苦しくて悲しくて、そして痛くてたまらなかった。


「春輝……」
 自分のCDのジャケットを見つめていると、彼の笑顔が浮かんでくる。学生時代から、自分の傍でいつも屈託なく笑っていてくれた彼。最初アイドルになるなんてまるで興味のなかった自分に、根気よくついてきてくれた彼。自分を一番輝かせてくれる曲を、たくさん書いてくれた彼。
 数え切れないほどの思い出が、走馬燈のように駆け巡る。その全てがどうしようもなく懐かしくて、思い出すだけで胸が痛む。あの日に戻れるのならば、絶対に春輝を行かせたりしないのに。そんなことを思って、何度後悔したか知れない。
「……でも、な、春輝」
 日向の目に、微かに明るい色が宿る。日向の心は、春輝を失った頃から徐々に変化していた。そこに春輝がいたはずの、ぽっかりと空いた胸の奥を埋めてくれるかもしれない存在。
 今度は帽子を被った、人なつこそうに笑う少年の顔が脳裏に浮かんだ。生徒と教師という関係でありながら、彼の存在は日向にとって救いとなっていた。自分を純粋に憧れ慕ってくれる彼の瞳が眩しい、と思ったときには、既に後戻りできなくなっていたように思う。翔は、自分の気持ちを微塵も知らない。立場上自重せねばならないというのもあるし、何より日向は未だ、大切な人のためのその場所を埋めてしまうのが怖くもあった。自分に関わった大切な人は、いつも自分の前からいなくなってしまうから。
 怖い。けれど、今日翔に言われて、少しだけ前向きな気持ちになったのも事実だった。翔が自分にそう望んでくれるのならば。何より翔がいてくれるのならば、怖さも乗り越えられるかもしれない、と。
「俺の歌が好き、か……」
 いつかの春輝の声と今日の翔の声が脳内で重なり、日向は目を閉じた。
 その頬に、一筋の涙が伝った。


お互い惹かれてるのに、変に精神が大人だから色んなものが邪魔して一緒になれない二人。切ない(2011.11.2)