ある日の昼休み。
 レンは那月と、いつものように森の中へとやって来ていた。那月が可愛らしいバスケットを持ってスキップしながら駆けていくのを微笑ましく見つめながら、レンは後ろからゆったりした足取りでついていく。窮屈な授業時間から解放された昼休みは、レンにとっての最上の癒しの時間になっていた。
 森の広場に出て、二人は大きな切り株に腰掛ける。
「はい、レンくん。どうぞ」
「ありがとう、シノミー」
 差し出されたバスケットの中身を物色し、レンはまず小さなハンバーグに手を付けた。茶色の平べったい肉の塊の間に、赤や緑、黄色といった色とりどりの野菜のような、そうでないような不思議な物体が混じっている。それでもレンは躊躇いなくそれに口付け、直後うん、と満足げな表情を浮かべた。
「うまいね! やっぱりシノミー、君の作る料理は最高だ」
「ふふっ、良かった! レンくんに褒めてもらえるのが、一番嬉しいです」
 そう言って、那月は微笑んだまま空を見上げる。今日はあいにく、朝から灰色の雲に覆われていた。
 レンは那月の横顔を見ながら、それを心底残念に思う。今までは特に天気に対するこだわりなどなかった。晴れていれば気持ち良いし、雨が降るのも濡れるのは鬱陶しいが嫌いではない――その程度だったが、今は那月の美しい瞳の中の翡翠を輝かせてくれない曇り空を、とても恨めしく思った。
 いつものように那月の周りに、たくさんの小動物が寄ってくる。人差し指の先に小鳥を乗せ、膝をリスやウサギたちに解放して、那月は耳をくすぐるような穏やかな声で話をし始めた。時折彼らの鳴き声に反応してくすりと笑ったり、悲しそうに溜息をついたり、素直なままに動く那月の表情は、隣で見ていて全く飽きることがなかった。
 動物たちと会話しながら、最初は微笑んでいた那月の表情が、やがて悲しみの色へと染まっていく。憂いの含んだ睫毛を揺らして、那月は膝に乗ったリスの頭をそっと撫でた。
「シノミー、どうしたのかな?」
 レンが尋ねると、那月は悲しそうな表情のまま顔を上げた。
「今日はあまり天気が良くないから、みんなも元気がないみたいです。それに、もうすぐ雨が降るかも、って……」
 レンは空を見上げた。確かに今にも泣き出しそう、といえばしっくりくる気がする。動物の勘は鋭いというが、その勘は天気にも発揮されるものなのだろうか。
「そうかい、それは困ったな」
 同調して、レンも悲しげに溜息をつく。雨はさほど嫌いではなかったが、那月が悲しそうな顔をしているのを見るのは嫌だった。やはり元凶はお前か、と、レンは曇り空を睨み付ける。ちっぽけな人間が地上で吠えたところでどうにかなるものではないとはいえ、今ばかりは、雨なんか降るなよ、と叫びたい衝動に駆られた。


 ――だが、やはりそんな思いが空に届くことはなく。
 那月がいち早く気付いて、空を見上げる。小鳥や小動物達が、慌てたように那月から離れていくのが分かった。ぽつ、ぽつと鼻の頭に落ちてくる水の粒。その勢いは存外早く激しくなり、レンは思わず那月の腕を掴んで立ち上がらせていた。
「シノミー、こっちだ!」
「は、はい!」
 那月がバスケットを掴んだのを確認してから、レンは周囲にある中でもひときわ大きく葉を広げている木の下に潜り込む。降り注ぐ雨粒を完全に防ぐことはできないが、これで少しはましになった。
 自分の髪にまとわりついた粒を払ってから、那月の髪に滴る水滴も丁寧に払ってやる。
「あ……レンくん、ありがとうございます」
「いいさこれくらい。じっとしてて」
 はい、と大人しく頷く那月に、いい子だ、とレンは微笑む。那月の無造作に跳ねる髪が、すっかり水分を含んで、しなりと垂れ下がっていた。
「シノミーの綺麗な髪が台無しだ」
 そう言いながら、レンは那月の髪に顔を埋める。フルーツのような甘い匂いがして、レンは息をめいっぱい吸い込んだ。レンは那月の髪が好きだった。レンは那月の全身をこよなく愛していたけれど、翡翠の瞳と、黄金色の髪にかける愛情は特別だった。
 レンが顔を離した後で、那月はレンと向き合うように身体を翻す。そして那月よりも濡れた服を見て、あっ、と声を洩らした。
「レンくん、こんなに濡れて……寒くないんですか?」
「ああ、大丈夫さ。このくらいなら。シノミーこそ、あまり濡れてなくて良かったよ」
「でも……」
 なおも心配そうな表情をしている。那月の視線は、レンのある一点に集中していた。それに気付いたレンが、シャツの間から覗く胸板を人差し指でとん、と突く。
「オレのここが、そんなに気になるかな?」
「はい。いつも」
 意外な答えに、レンは思わず目を丸くする。その言葉の響きに性的な意味が一切含まれていないと分かるのは、少々残念ではあったけれど。
 窮屈で嫌いだからという理由で、レンはいつも胸元を開けているのだ。同室の真斗や同じSクラスのトキヤなどは、だらしがないといつも眉を顰めるが、これで不便に思ったことはない。ここがアイドル養成校という特別な学校だからか、レンの着崩しを咎める教師もいなかった。
 那月は言葉を続けた。
「レンくんは、いつも胸元を開けていますよね。寒くないのかなって、ずっと気になっていたんです。特に今は季節の変わり目で、朝晩なんかはとても冷えますし……」
 そんなことか、とレンは笑った。実のところ、レンは常にこういう服で過ごしているから、寒さにはもうすっかり慣れてしまったのだけれど。
「ああ寒いよ、と言ったら……どうする?」
「それは大変です! もっと上まで、ボタンとネクタイ、締めなくちゃ」
「そうじゃなくて。もう一つ選択肢があるだろう?」
「もう一つ……ですか?」
 レンの言葉に、那月はきょとんとする。そう、とレンは微笑んで、那月の背に手を回し、自分の側に引き寄せた。
「シノミー、君に暖めてもらうっていう選択肢が……さ」
「僕が……」
 那月は息を一つ落とした後、レンの剥き出しの胸板に顔を埋めた。片耳をぴたりとくっつけて、その心音を確認するように。そして手を添えて、空気に触れる面積を少しでも減らそうとするかのように。その仕草が愛おしくて、レンは那月を更にきつく抱き寄せた。
「レンくんの胸は、温かいですね」
 那月のしみじみとした声が、吐息と共にレンの胸を下りていく。
「そうかい? でもね、本当はとても寒いんだ」
 嘘であって、嘘ではなかった。その意味に、他人の心情に聡い那月はすぐ気付いてくれたらしい。
「僕が……僕に出来るなら、レンくんの胸を温めてあげたい。それで、レンくんは満たされますか?」
「もちろん。オレの心を満たしてくれるのはシノミー、君だけだ」
 那月が再び、胸元に頬を寄せてくる。熱い吐息で暖めて、耳を付けて鼓動を確かめて、指で肌をさする。たったそれだけのことなのに、レンは自分が昂ぶっていることに気付いた。那月の仕草は一つ一つが美しかった。拙い動きすらも芸術に見えるような、不思議な感覚。それはもしかしたら、レンの分厚いフィルターのかかった目を通しているせいなのかもしれないけれど――
 レンは頭上を見上げた。一面を覆い尽くす葉に、多くの雨粒が跳ね返ってまばらな音を立てている。時折葉の間をすり抜けて落ちてくる雨粒を受け止めながら、愛おしげに那月の背をさすり、レンは瞳を閉じた。達してしまいそうな感覚だった。那月の温もりがすぐそばにある。たったそれだけのことが、どんなに幸せなことか。
 ちゅ、という小さな音がして、胸元に唇の吸い付く感覚があった。視線を下げると、那月が愛おしげにレンに口付けを落としていた。唾液で濡れているその唇が、まるでグロスを塗ったかのように艶めかしく輝いていた。
 シノミー、と呼びかける。怪訝そうに上向いた顔を逃すまいと、レンは素早くその唇を奪った。ゆっくりと味わうように、何度も何度も唇を動かす。離れた後で、那月の眼鏡越しに戸惑いが揺れているのを、レンは優しく見下ろした。
「オレがさっき思ったこと、教えてあげようか」
 こくりと頷く那月に、レンは唇を少し広げる。
「自分の胸にすら、嫉妬してしまった。那月の唇はオレだけのものなのにって」
 おかしいだろう。そう言って笑うレンの唇が、突然何かによって塞がれてしまった。
 今度はレンが目を見開く番だった。木の幹に身体を押しつけられる。那月の優しい唇が、今だけは荒ぶる野獣のように、レンの唇を貪った。こんなことは初めてで、レンの心は戸惑いでいっぱいになった。くちゅり、と小さな水音を立てて、那月の顔が離れる。その翡翠の瞳には、今まで見たことのない感情が宿っていた。
「どうすれば、レンくんの孤独を取り払えるのかって、僕はそればかり考えてしまう」
 嫉妬するのは寂しいからでしょう。那月はレンの濡れた唇を人差し指でなぞった。
「口付けをすればいいですか。それともレンくんの胸元を温めればいいんですか。傍にいて、抱き締めて、それでも――レンくんは、足りませんか?」
 那月は今にも泣き出しそうな顔をしていた。雨の音が鮮明になって、レンの鼓膜を打った。レンは那月を思い切り抱き締めた。
「君にそんな顔をさせたかったんじゃないのに。ごめんね」
 いいえ。那月はそう言ったが、その声に含まれる憂いは取り払われていなかった。
「いつまで経っても足りないって感じるのは、オレがシノミーを愛しすぎているからだよ。シノミーを四六時中自分のものにしても、それでもまだ、足りない。オレはね、シノミー。君に孤独を埋めて欲しいんじゃないんだ。ただ、傍にいて、オレを愛して欲しいんだ」
 那月は顔を上げた。瞳が潤んでいる。
「本当に……?」
「そうだよ。それに、寂しいことは悪いことじゃない。寂しい分だけ、思いは募る。シノミーを好きな気持ちが、もっともっと膨れ上がっていくってことなんだから」
 那月は睫毛を伏せた。言葉を噛み締めるように、伏せた睫毛の下で瞳を動かすのが見えた。
「レンくんは、それだけで満たされるんですね」
「そうだよ」
「……じゃあ僕は、もっともっと、わがままかもしれません」
「どうして」
 罪悪感に満ちた声が痛々しくて、レンは優しく囁くように言いながら、そっと那月の前髪を払ってやる。那月の翡翠が、翳りを見せていた。
「僕は、永遠を願ってしまうから。レンくんが僕を愛してくれて、それが永久に続けばいいって思ってしまうから」
 僕は恐ろしい。那月の声が震える。
「レンくんの思いが、僕以外のどこかへ向かってしまうことが。人の思いはうつろうもの。留まることのないもの。それは十分分かっているはずなのに、それでも僕は……僕は」
 レンはありったけの力で那月を抱き締めた。回した腕できつく束縛して、爪が食い込むまで那月の腕を握り締める。
 今なら誓える。そんな気がした。今まで誓いなど立てたことはなかった。レンにとって、人との出会い、触れ合いは刹那的なものだった。その場を埋め合わせてくれさえすれば、それで良かった。けれど那月は違う。那月は自分と同じ孤独を抱えた人間。そんな彼を慈しみ守りたいと思ったあの日から、レンは変わった。那月となら、永久に。それを誓える気がした。
「シノミーこそ、どうしたらオレの気持ちを分かってくれるかな」
 え、という小さな戸惑いの声が洩れる。
「オレは君となら、永遠を誓ってもいい。こんなに愛おしいのに、どうして手放せる? こんなにも守ってあげたいのに、君がオレの傍を離れることなんて、想像したくないよ」
 確かに人の気持ちは留まらない。レンは言葉を続ける。
「けれど、イコールそれが、心が離れていくことばかりとは限らない。もっともっと思いが強くなることだってある。シノミーはオレがそうなることを、信じてくれないかな」
 顎を少しばかり持ち上げて、瞳を向き合わせた。揺れていた那月の瞳が、やがて明るい光を取り戻していくのが分かった。唇に微笑みが灯る。
「信じたい。僕は……レンくんを、信じたいです」
「是非、そうしてくれ」
 唇を擦り合わせて、永久を誓う。愛おしげに頬をなぞって、耳元に愛を囁く。
 いつしか雨は上がって、雲の間から一条の光が下りてくる。レンはその光の中に、確かな希望を見た。


FREECELLのQ&Aを読んで。思った以上にこの組み合わせが好きだって気付きました。17歳味音痴愛おしい(2011.10.5)