なんと生産性のないことを、と言われたら否定ができない。父ならきっと、こういうことは好まないだろう――真斗は溜息を吐いて、先程シャワーを浴びたばかりの髪をバスタオルで拭いた。
 身体中に、レンの香水の匂いが移っている。すう、と深呼吸をしてその匂いを嗅ぐ度、真斗は安堵を覚えることに気付く。最初は、何度も身体を擦って洗い流そうとしたくらい、嫌な匂いだった。けれどいつしか、それに愛おしさすら覚えるようになってしまった。
 この心変わりはどうしたことだろう、と自問して、すぐに答えは出る。心変わりなんて、初めからしていなかった――真斗の目は、昔からレンの方を向いていた。ただ、それだけのこと。
 身体を拭いて戻ってきた真斗を、レンはダブルベッドの上で受け入れた。
 最初こそ律儀に着ていた浴衣も、もう畳の上に放り出したままになっている。何事もきっちりしなければ気が済まなかった自分がこんな怠惰な人間になってしまったのは、間違いなく目の前の男のせいだ。しかしそれを恨めしく思う気持ちすら失せていて、真斗は良くも悪くも変わってしまった自分を、まるで他人を見るかのような目で見つめている自分に気付くのだった。
「今日は月が綺麗だ。ほら」
 真斗の後頭部に腕を差し入れ、レンは窓から見える月を指差す。
「ああ、本当だ。まるでお前の髪の色のような」
 そう言うと、レンは嬉しそうに唇の端を歪めた。
「へえ。なかなか洒落たこと言ってくれるじゃないか」
「俺は、思ったことを言ったまでだ」
 気恥ずかしさを覚えて目を逸らす。瞳に鮮やかな黄色の満月が映った。ここまで色と形がくっきりと現れた月も珍しい。闇色の空によく映えて、その光が部屋の中にまで明るく差し込んでいる。
 自分たちの関係を知っているのはあの月だけだ。真斗はレンの腕にそっと頬を寄せる。レンがそれに気付いて、真斗の身体を引き寄せた。いつもなら一言くらいからかいの言葉を入れてくるレンなのに、今日は何も言わなかった。
「なあ、お前……卒業したら、どうするんだ」
「どうする、とは」
「音楽の道に進んでも、いずれは家に戻って跡を継がなきゃいけないんだろ?」
 それは、あまり考えたくないことだった。真斗は目を伏せる。そうだ。自分が選んだ道がタイムリミット付きのものであることは、最初から真斗も覚悟してここに来た。常に自分の為すべきことを父親に決められてきた真斗にとって、アイドルになる道は一種の“足掻き”だった。それが長い人生におけるたった一瞬のことであっても、自分の思うままに生きた時間が欲しい。それが真斗の何より強い願いだった。
「いずれは……そう、いずれは」
「……だよな」
 レンが羨ましい、と素直に思う。彼は家を継ぐ必要がない。望むのなら、自分の思うまま、好きなように生きられる。
 レンは深く息を吐いて、ぼんやりと月を見上げた。
「オレたちが何の気兼ねもなくこうしていられるのも、一年の間だけ、ってことか」
 そうだ。家のことや自分の立場を一切気にすることなく、何の後ろめたさもなく一緒にいられる期間は今だけ。ここを出れば、世間の目がある。夜な夜な密会している御曹司二人を見て、健全だと思う人間は誰もいないだろう。性的な関係まで思考が至らなかったとしても、少なくとも両財閥の現当主たちは快く思うまい。
「妙な因果だ。お前とここで出会って同室にならなければ、こんな関係にもならなかったろうに」
「そりゃ、こっちの台詞でもあるな。全く……あのボスに盛大に恨み言をぶつけてやりたい気分だよ」
 部屋割りを決めたのが誰だか知らないが――レンはそう付け加えて、口をつぐんだ。他の教師が決めたという可能性も否定できないが、生徒一人一人の事情に妙に詳しいあの学園長が決めたと思う方がしっくりくる、と、真斗は思った。他の部屋割りに関しても、絶妙なバランスで決められていると思わざるを得ない。
「で、ここを出たらお前は跡を継いで、親の決めた相手と結婚して、子どもを作って、幸せな家庭を築いて――ってとこか」
「そうだろうな。少なくとも、父が描いているのは」
 自分とレンとの関係に全く生産性がないというのは、つまりそういうことなのだ。跡取りとなるからには、その次の世代を産み育てることが必須となる。世間的に見ても、伴侶のない人間は低く見られてしまうことが多い。“財閥の跡取りである”真斗にとって、このレンとの関係は、何のメリットもないことになる。
 だが――メリットデメリットで、自分と他人の関係までを決められたくはなかった。いたいからここにいる。したいからそうする。そんな当たり前のことができないこの身体が恨めしい。部屋割りを決めた学園長よりも、自分の生き方の全てを決める父親よりも、自分を夢中にさせてしまったレンよりも、自分たちの関係を決して良い目で見ない世間よりも、何よりもそれが恨めしい。
「お前の伴侶になるってヤツなんだ、きっと生真面目で頑固で、頭も堅いんだろうな」
「……それは、遠回しに俺がそうだと言っているのか?」
「オレはそんなこと、一言も言ってないぜ?」
 白々しく笑ってみせるレンの腕を、思い切りつねってやる。痛っ、と素の反応をするレンを見て、真斗は溜飲が下がる思いがした。
「ま、お前は自分で家事全般できるしな。嫁なんかいなくったって、一人でも生きていけるだろ」
「……女性は家事をするだけの使用人などではないぞ、失礼だろう」
「そんなこと分かってるさ」
 レンが再び、腕できつく真斗を引き寄せる。レンの胸板に一瞬顔を押しつけて、そこから漂う香水の匂いに、真斗はひどく安堵した。
「お前がオレの嫁になればいいのに」
 思いがけない発言に、真斗の心臓が跳ね上がった。思わず顔を上げる。窺えたレンの表情は、真剣そのものだった。いつものように軽口を叩いているだけとは、どうしても思えなかった。
「神宮寺」
「オレはお前なんかと違って、そういうことは全て使用人に任せてきたからな。お前が身の回りの世話全部やってくれるなら、ちょうどいいだろ?」
 レンの表情は、もういつもの表情に戻っていた。真斗は溜息をついて、上目遣いに睨む。
「悪いが俺は、お前とこれ以上同じ部屋に住むのは御免だ。おまけにお前の身の回りの世話まで? 断固として拒否する」
「おいおい、そこまで言うことかい? 冷たいねえ」
「当然だろう。脱いだものは片付けないし、俺が真剣に課題に取り組んでいる時もやたらと話し掛けてくるし、邪魔なことこの上ない。誰がいつもお前の脱ぎ捨てたものを洗濯機に入れて、干してやってると思ってる」
「感謝してるんだぜ? これでもさ」
「そうは見えんがな」
 いいじゃないか。そう言ってレンは、真斗の額に口付けを落とす。そんなことでは騙されまいと思っていても、やはり嬉しいと思う気持ちはどこかにある。それがこの男に惚れた証なのだと悟ると、どうしようもない脱力感に襲われた。
 こんな気持ちを今まで知ることはなかった。どれだけ厭わしいと思っていても惹かれてしまうことがあるのだということを、初めて知った。普段許せないことがあっても、ついついそれを受け入れてしまっているくらいだから相当だ、と真斗は思う。
 いつの間にか後頭部に差し入れられていたレンの腕が抜け、視界に天井が映る。直後、視界を占めたのはレンの顔だった。唇を重ねられ、舌を差し入れられて、真斗はそれに抗うことなく、レンの背に手を回した。汗が皮膚に滲む。熱い肌が触れ合って、火傷しそうになる。
「お前の遺伝子が欲しい」
 ――そんなこと、最初から無理だと分かっていようものを。
 それでも、口にすることなどできるはずもなかった。何故ならそれは、真斗の胸の奥に秘められた、真実の願いでもあったから――
 互いにままならぬ身体を抱えて、今日も二人は、深い罪の海へと沈んでいく。


二人がこうして世間の目を気にせず触れあえる時間がこの1年間しかないと思うと切ない(2011.8.5)