真斗はレンのサックスの音色が好きだった。
 早乙女学園で久しぶりに再会した時、彼がサックスをやるようになったと聞いて驚いた。それも彼自身によれば三ヶ月でものにしたというのだ。レンの音楽の才能は真斗自身も認めるところだったが、まさかそこまでとは思いもしなかった。
 レンは真斗と違って努力を嫌う。サックスを吹く時間も場所も彼自身の気まぐれで決まっていたし、そこに一生懸命練習して技術を磨こうとする心意気は、一切感じられなかった。せっかく才能があるのに勿体ない。練習をしなければせっかくの能力も落ちていくばかりだ。真斗は一度、苦言を呈したことがある。しかしレンは笑って、そんなの才能でどうとでもなる、と言い放った。
 真斗はそう言い切れるレンが、密かに羨ましかった。自分には元々、高い才能があったわけではない。凡人には越えられぬ壁を、努力で乗り越えてきたのだ。その苦労なく、音楽という分野において高い能力を発揮するレンが、自分にはとても眩しい存在にすら思えた。
 レンのサックスの音色が聞こえてくる度、真斗はどこにいても必ず立ち止まって耳を傾けた。屋上、あるいは中庭、池の近く――音色の聞こえる方へ歩いていき、レンの姿を認めると、隠れてこっそりその音色を聴くことにしていた。自分がこうしてレンのサックスを聴いていることを、レンには知られたくなかったのだ。唇の端に笑みを滲ませながら、『オレのことが気になるのか?』なんて訊かれた日には、とてもじゃないが平静ではいられないだろう。自分とレンの間には様々な確執があって、それは一朝一夕で取り去れるようなものではなかった。


 ある日、授業が終わった休み時間、学園の廊下を歩いていると、どこからともなくサックスの音色が聞こえてきた。真斗はいつもの癖で、立ち止まって静かに耳を傾けた。その時、何故だか分からないが、真斗は不思議な違和感を感じた。この音色は屋上からだろうか。違和感の正体は分からぬまま、真斗は階段を目指して歩き始め、屋上へと向かうことにした。
 屋上の柱に隠れ、レンの姿をそっと窺った。レンはいつものように黒いマウスピースを咥え、指を細かに動かして、サックスを吹いていた。
 聴いていると徐々に、先程感じた違和感の正体が分かるような気がした。音色がいつもと違うのだ。素人であれば全く分からないであろうほどの微妙な違いではあったが、いつもレンの音色を聴いている真斗には、それが分かった。
 どこか憂いを含むような、悲しげで、それでいて穏やかで優しげでもある音色――いつものレンならば、繊細な音色の中にも弾けるような元気さや勢いがあるのだが、今日はそれが全くない。終始穏やかで、若干弱々しいとすら感じるような音色だった。
 調子が悪かった――確かに、そう簡単に片付けることも出来るだろう。だが、真斗の頭に真っ先に浮かんだフレーズは、それとは全く違うものだった。
 ――恋をすれば、音色が変わる――
「……まさか」
 真斗は一笑に付した。あのレンが、ただ女性に恋をしたというだけで音色が変わるほど繊細な人間だとは思えない。自分と違って、レンは女性の扱いに慣れている。真斗には全く分からない感覚だが、彼なら恋をすることなんて、息をするのと同じくらい日常茶飯事なのではないだろうか。それだけで音色が変わるなら、今までもころころと音色が変わっていてもおかしくない。だが音色が変わったのは、真斗が聴くようになって今日が初めてなのだ。
 有り得ない、とは思う。だがもし、本当にそうだとしたら――
 疑念が晴れぬまま、真斗は演奏が終わる前に、そっと屋上を去った。


 夕方、寮の部屋にレンが帰ってきた時、彼の様子はいつもと変わらないように見えた。
 サックスケースを部屋の隅に置いて、ダブルベッドに身体を横たわらせる。ベッドサイドに置かれたダーツを手に取ると、まずは一投、鋭い音がして、的にダーツが刺さって揺れた。しかし中心からは、大きく外れていた。
「チッ。今日はついてないな」
 舌打ちをするレンに、一瞬言葉が出かかって、慌てて呑み込む。だが気配を悟られたらしく、レンの視線が真斗に向かって真っ直ぐに向けられた。
「何だ? 何か言いたいことでもあるのか、聖川」
「……いや、別に」
 視線を一度逸らした後で、やはり、と思い直し、レンの方に向き直る。
「神宮寺。お前は……調子が悪いのか、今日は」
「は? 調子が悪い? オレがか?」
 レンは驚いたように尋ね返し、直後鼻で笑った。
「あいにくお前に心配されるようなことはないつもりだが、何を根拠にそんなことを」
「いや……その」
 言おうかどうか迷ったが、このまま終わらせておくのもすっきりしなくて気持ちが悪い、と感じた真斗は、素直に思ったことを口にした。
「お前の音色が、いつもと違う気がした」
「音色? ああ……サックスのか」
 真斗が頷くと、レンは唇の端に意味ありげな笑みを浮かべた。
「ほう? いつもと、とは……まさかお前、いつもオレの演奏聴いてたのか」
「だから何だ」
「そんなにオレのことが気になるかい?」
 案の定だ。真斗は表情を険しくして、首を横に振る。
「お前が所構わず吹いているから、勝手に聞こえてくるまでのことだ」
「へえ。まあ、そういうことにしといてやるよ。で、今日はオレの音色が違っていたって?」
 未だにやにやと笑うレンを忌々しく思いつつも、真斗は頷く。するとレンは、ふうん、と考え込むような仕草をした。
「今日は特別調子悪いってわけじゃないんだが……お前にはそう聞こえたのか」
「ああ。だが、調子が悪いというのではないなら……」
 まさか。真斗の思考があのフレーズに行き当たる。だがさすがに、ここで直接的に口に出すのは憚られた。続く言葉を言えずに沈黙していると、レンが鼻の下を擦りながら、冗談めかした口調でそれを破る。
「さてはオレ、恋でもしちまったかな?」
 真斗は思わずびくりと肩を震わせた。まさか自分の考えていることを、レンに先に口にされるとは思いもしなかった。自分から尋ねる手間は省けたが、それはそれで、動揺している自分に気付く。
「ほ……本当、なのか?」
 信じられないといった表情で尋ねると、レンが怪訝そうな顔をした。
「ん? 何でそんなに驚いた顔してるんだ。まさかお前、俺がそうだって考えてたのか?」
 一呼吸置いた後、レンは弾けたように笑い出す。
「なんだお前、そんな迷信みたいなこと信じる奴だったんだな」
「別に、信じているわけではない。ただ、そういう話をどこかで聞いたことがあった、というだけで……」
「まあ、別にいいけどな。とりあえず、そういう類の理由じゃない。お前の気のせいだろ、気のせい」
 レンはそう言ってベッドを下り、窓際に向かった。夕日を浴びる彼の背を見つめながら、そうだろうか、と真斗は顎に手を当てて俯く。音楽的才能はレンに劣っているとしても、ここまで音楽の勉強をしてきて、耳はある程度肥えているつもりだ。あれは聞き間違いではなかった、と、真斗は昼間のレンの演奏を頭の中で反芻しながら、改めて思う。あの繊細でどこか弱々しい音色は、全くレンらしくないもので――
 そういうことを含めて再び問いただそうと思ったのに、出てきたのは素っ気ない言葉だった。
「どうせお前のことだから、本気ではないのだろう」
 レンの肩がぴくり、と震えた。振り返った彼の表情は、もう笑っていなかった。
「どういう意味だ?」
「だから、お前はいつも息をするように恋をしているから……それが本気かそうでないか、自分でも判断がつかなくなっているのではないか」
「はあ? 息をするようにってお前、そりゃどういう思い込みだ」
「だってそうだろう、お前はいつも、多くの女性達を側に置いているではないか」
 レンは一瞬戸惑うように首を傾げた後、弾けたように笑い出した。
「お前、それだけで俺が恋してるように見えるのか?」
「違うのか」
「とんだ節穴だな、お前の目は。あんなのはただのお遊びさ。経験のないヤツはこれだから」
「貴様、それではあまりにも女性達に失礼だろう。一体何を考えている」
 倫理に反した――と、真斗が感じた――レンの言動に苛立ちを顕わにすると、レンはすっと表情を引き締めた。その目の奥は、もう笑っていなかった。
「さっきの言葉は訂正するよ。お前は間違ってない」
「じゃあ、」
 言いかけた時、レンの顔が眼前に迫っていることに気付いた。真斗は驚いて身を引こうとしたが、既に遅かった。
「――本気でなければ、どんなに良かったか」
 そう聞こえたのが、最後。
 真斗は一瞬、何が起こったか分からなかった。気付けば自分の唇に、同じような感触のものが押し当てられていることに気付いて、更にそれがレンのものだと分かったときには――
「っ……!」
 一瞬の出来事だった。離れたレンの唇には、微かに唾液が光っていた。レンは顔を逸らし、ダーツの置かれたベッドサイドに視線を落とした。
「何でお前がここにいるんだ」
「……な、何で、とは……どういう意味だ」
「そのままの意味だ。何でお前はここに来たんだ。何で俺はお前にまた会っちまったんだ」
 苦悶ともとれるレンの声が喉から洩れて落ちていく。レンは顔を歪め、自身の喉を右手できつく掴んだ。
「お前に会わなきゃ、こんな気持ち、蘇ることもなかったのに」
 レンはそう言い捨てて、部屋を去っていった。ばたん、と大きな音を立てて、部屋の扉が閉じられる。
 残された真斗は、あまりにも突然の出来事に唖然とするばかりだった。思考が追いつかない。
 オーバーヒートするくらい思考回路を働かせて、レンの行動理由だけでも考えようとする。レンが突然真斗の唇に自分のそれを重ねたのは何故か。レンの言葉の意味は。何故突然出て行ってしまったのか――
「……まさか」
 先刻とは全く違う声のトーンで、真斗はそう呟いた。唇に微かに残ったレンの唾液を、指先で拭う。部屋の明かりに照らされて煌めく指が、確かにその行為があったことを告げていた。
「神宮寺……」
 レンの音色が蘇り、頭の中で流れ出す。真斗は思わず自分を抱き締めるかのように、腕を交差させ、きつく自身の肩を掴んでいた。


レン様のサックスが大好きな真斗様を書きたかっただけ(2011.8.4)