「すまないが、マティーニを」
「かしこまりました」
 暖かなオレンジ色の照明が灯る、落ち着いたジャズバーのカウンター席。聖川真斗はスーツ姿で腰を掛け、木のテーブルを何の気なしに見つめていた。
 数日前、素敵なバーがあるんですよと、取引先の社長に教えてもらった店。以来真斗はすっかりこの場所を気に入って、たびたびこうしてここに訪れているのだった。店内で流れる変則的なジャズのリズムが心地よく身体に流れ込み、一日の疲労を取り去ってくれる。時折楽器を持ち込んで生演奏ライブをしてくれる時もあり、それがまた楽しみでもあった。こうして音楽を聴きながら酒を飲んで良い気分になりつつ、様々な考え事をする時間が、真斗にとって至福の時だった。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
 バーテンから差し出されたグラスを手に取り、軽く傾けて一口。視線を落として、軽く瞼を閉じる。今日は何故だか、数年前のことが脳裏に蘇ってきた。
 ちょうど十年前、真斗は早乙女学園という、アイドルを養成するための専門学校に通っていた。父の反対を押し切って入学し、一年間努力した末に、真斗はアイドルデビューを決めた。同窓の仲間たちと同じ寮に住み、様々な経験を積み重ねながら、誰もが憧れる明るいステージの上で歌っていたあの時の自分は、人生で最も輝いていたように思う。だがそれも、僅かな時間だけ。成人した真斗は実家の家業を継ぐため、引退を決めた。
 後悔はなかった。そもそもアイドルになれたことが、真斗にとっては奇跡のようなものだったのだ。長い人生のうち僅かでも、自分の意思で決めた道を自分として生きる時間があったらそれでいい。真斗は芸能界を去り、今は正式な当主となるべく、父の下で仕事を学んでいる最中だった。
 あれからもう十年も経つのか、と真斗は感慨深く思う。ここまであっという間だった。様々なことを経験したが、そのどれもが真斗にとって大きな糧となるものだった。アイドル時代のことに思いを馳せ、真斗は軽く微笑みながらマティーニを口にした。今日は良い気分のまま帰れそうだ――


 そう思った、その時だった。
 店内の奥の方で音がして、ピアノの置かれている場所がほんの少しだけ明るくなった。気分の高揚した真斗が、そちらに目を向ける。生演奏が始まる合図だ。今日は本当に運が良い、と唇をほころばせる。店内の客が皆そちらを向き、演奏者が出てくるのを待った。
 マスターがカウンターから出てマイクを手に取り、客の方を向く。
「皆様、お待ちかねの生演奏ライブの時間です」
 客の間から小さな拍手の音が響く。
「今日は私の知り合いのサックス奏者が来てくれましたので、彼に演奏してもらおうと思います。レン、どうぞ!」
 マスターが舞台袖の方に腕を伸ばし誘うような仕草をすると、それに応えるようにして、一人の男が壇上に現れた。客から一層の大きな拍手が巻き起こる。期待に胸を膨らませながら拍手をしていた真斗は、しかし壇上に出てきた男の姿を見て、心臓が止まる思いがした。
 長い山吹色の髪を後ろで一つにまとめ、黒いサングラスを掛けて、くいと唇の端を上げた彼は、真斗の良く知るある人物に酷似していた。歓声に応えるようにして唇に手を当てて投げキッスを飛ばす姿を見ていても、とても別人だとは思えない。真斗は息を止めて、彼の一挙一動に見入っていた。
 もしかしたら。その思いは、彼がサックスを構えた時、確信に変わった。マウスピースを咥える仕草。添えられた指の角度。サングラスの闇の中で、睫毛を伏せる彼の表情が見えるようだった。
「神宮寺……」
 後ろのドラムがリズムを取った後、レンのサックスがバーに響き渡った。第一音のインパクトは凄まじく、それだけで一気に客達の心を奪い去った。それは真斗も同じだった。自分が良く知るあの時と同じ、否それ以上の演奏をもって、レンはこの場にいる者全員をあっという間に自分の世界へと引き込んでいった。
 現役アイドルとして活動しているはずの彼が、何故サングラスなど掛けてまでこんな場所にいるのか。何故ここでサックスを吹いているのか――一瞬浮かんだ疑問が全て吹き飛ばされてしまうくらい、真斗はレンの演奏に夢中になっていた。力強いサックスの音色が、黄金色の旋律となって心に直接響く。その曲は、真斗もよく知る曲だった。レンが卒業オーディションで歌ったあの曲。確かタイトルは――
「悪魔のKissは……炎より、激しく……」
 レンが演奏に合わせて身体を揺する度、束ねられた髪が踊るように跳ねる。まるでそのタイトル通り、燃えさかる激しい炎を見つめているような感覚に陥った。その炎にあてられたかのように、真斗の頬が、胸が、そして全身がじんわりとした熱を帯びていく。震える指先がグラスに触れて、残っていたマティーニが波立った。
 やがてレンの指が止まり、彼の顔がサックスと共に上向いた瞬間、誰もが割れんばかりの拍手を送っていた。真斗も胸から込み上げるものを感じながら、幾度も幾度も手を叩いて拍手を送り続けた。
「ありがとうございました!」
 マスターからマイクを受け取り、レンがそう言うと、一層大きな拍手が彼を包んだ。声を聞いて、間違いない、と真斗は確信を強める。聞き間違えなどあろうはずもない、神宮寺レンその人だ。
 レンは演奏に夢中だったし、客側の照明は暗いしで、きっとレンは真斗の存在には気付いていないだろう。真斗の腰が僅かに浮いて、しかし椅子におさまる、その動作を幾度か繰り返す。彼の前に出て名乗ろうか。しかしここで名乗ったところで何になるだろうと思うと躊躇した。先程までアイドル時代の頃を思い返していたせいもあり、甘くも苦い思いが胸中を巡る。テーブルの上で拳を握り締めた。伏せた睫毛の下で迷うように瞳を動かしているうちに、レンはスタッフルームに引っ込んでしまい、生演奏ライブはあっという間に終わってしまった。
 夢を見ているような気分だった。酒も飲まずぼんやりとしている真斗を見て、戻ってきたマスターが話し掛けてくれる。
「良い演奏だったでしょう。レンのサックスは、私も以前から大好きなんですよ」
 真斗が顔を上げると、マスターは唇をほころばせて、先程の演奏を思い返すかのように、愛しげに目を細めていた。そういえば、マスターはレンと知り合いだと言っていた――
「神宮寺は……レンは、以前からここにいるのですか?」
「いいえ、今日が初めてです。軽くお願いしてみたら、快く引き受けてくれましてね。そういえばお客さん、先程彼を神宮寺、と……レンと知り合いなのですか?」
 真斗はゆっくりと頷いた。マスターはそうですか、と嬉しそうに頬を緩めた。
「アイドルをしていると、なかなかサックスを吹く機会もないようでね。だから今日はとても楽しそうなレンの姿を久々に見られて、嬉しかったですよ」
「そう、ですか……」
 確かに、あのステージにいたレンは実に生き生きしていた。テレビの中にいる時よりも、一層強い輝きを放っていた。あんなレンは久しぶりに見たように思う。それを見た時の胸躍る感覚と、真斗の中に眠っていた彼に対する複雑な思いが、胸中で同居した。
「マスター。彼はまた、ここに来るでしょうか」
「ええ。時間があれば演奏しに来たいと言っていましたから、きっと」
「次、彼が来ることになったら教えていただけませんか。お願いします」
 真斗は胸ポケットに入っている万年筆で、傍にあった紙ナプキンに自分の携帯のメールアドレスを書いて、マスターに手渡した。マスターは驚いたように目を瞬きさせていたが、すぐに表情を緩めた。
「余程彼の演奏を気に入ってくださったんですね。レンも喜びますよ」
 次があれば必ず。マスターとの約束を取り付けて、真斗はその日帰宅した。


 それから数日後。意外にも早く、その機会はやってきた。見慣れぬメールアドレスからメールが来たので開くと、それがマスターからで、明日レンが来られるそうです、と書かれていたのだ。
「明日……」
 時間を空けることは出来そうだった。はやる気持ちを抑えながら、真斗は仕事に集中しようとしたが、頭の中には常に、先日のジャズバーでの出来事が巡っていた。あの黄金色の旋律を、今でも鮮明に蘇らせることができる。悪魔のKissは炎より激しく――卒業オーディションで初めて聴いた時の胸の高鳴りすらも、この身に蘇るようだった。
 当日は早めに仕事を切り上げて、ジャズバーへと向かった。店内に客はまだまばらだったが、マスターは温かく迎えてくれた。顔も覚えていてくれたようで、カウンターに座ると、あの時の、と微笑んでくれた。
「何をお飲みになりますか?」
「以前と同じ、マティーニを」
「かしこまりました」
 マスターがカクテルを作る間、真斗は目を伏せてぼんやりと木のテーブルの上を見つめていた。その質感を味わうように、テーブルの上で撫でるように手を動かす。と、カタリとグラスが置かれ、真斗は再び顔を上げた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。……その、マスター」
「はい? 何でしょう」
 真斗は躊躇いがちに微かに睫毛を伏せた後、思い切って言った。
「あのピアノ……今日、弾かせていただくことはできませんか?」
 マスターが目を瞠った。真斗は緊張した面持ちで、反応を待つ。
「ピアノを? お客様、ピアノをお弾きになるのですか?」
「はい、少し。今日もレンは、あの曲を演奏するのでしょう?」
「ええ、その予定ですが……」
「私、あの曲を知っているんです。昔弾いたことがあって……きっと、合わせられると思います」
 懇願するような目になっていた。マスターはしばし逡巡するように視線を動かした後、こくりと頷いた。
「わかりました。レンに聞いてみましょう」
「ありがとうございます」
 真斗はそのまま頭を下げた。マスターが温かな声で笑う。
「構いませんよ。私も、是非お客様の演奏も聞いてみたい。生演奏ライブの時は一応それなりの腕の奏者を呼んでいますが、私としてはお客様の飛び入りも大歓迎なのでね。やはり音楽というのは、ただ上手いというだけではなく、演奏する者も聴く者も一体となって楽しめるものであるというのが理想ですから」
「ええ。それは、本当にそう思います」
 早乙女学園で学んだこと。それはアイドルになるための心得どうこうというよりも、音楽は誰もが一体となって楽しめるものでなければならない、ということだった。それを真斗達は、何よりも大切に考えながら曲を作り、歌った。だからこそデビューもできたし、心躍るような楽しい経験がたくさんできたのだと思う。辛いことも多々あったが、あの頃の経験は、真斗にとって何よりの宝物だった。
 その宝物たちの中でひときわ大きな光を放つ元恋人――レンの存在が、再び真斗の中で思い出ではなく現実のものとして蘇る。その瞬間を想像して、今から真斗の胸ははち切れんばかりだった。様々な思いが入り乱れ、心を熱くする。
 グラスを軽く傾けてマティーニを味わいながら、意識は既にあのピアノへと、そしてレンへと向いていた。


「先日、来ていただいたお客様はご存知かもしれませんが、今日も知り合いのサックス奏者が来てくれています。レン、どうぞ!」
 マスターの紹介で客の歓声を浴びながら、レンが袖から姿を現す。サングラスをかけた姿で立つレンは、拍手をくれる客達に爽やかな笑みを振りまいていた。そして、とマスターが言葉を続けると、あっという間に場が静まり、レンが期待を込めた目で傍らのマスターを見つめる。カウンター席に座ってその時を今か今かと待っていた真斗は、思わず軽く腰を浮かせた。
「とあるお客様から、彼のサックスに合わせてピアノを是非弾かせて欲しいという申し出がありましたので、せっかくですのでお呼びしたいと思います。聖川様、どうぞ!」
 聖川、という名前を聞いた途端、レンの表情が揺らぐのが分かった。真斗は席を立ち、客席を縫うようにして歩き、ピアノの傍らに立った。
 レンが呆気にとられた表情で、こちらを見つめている。それを感じながら、動揺を隠しつつ、真斗は笑みを振りまいた。アイドル時代に客席に向かって見せていたあの表情――あの頃に比べるとすっかり表情筋は固くなっていたが、それでも客達は楽しげに、期待を込めた拍手を送ってくれた。
 真斗はレンと言葉を交わさぬまま、ピアノの椅子を引いて座る。指を鍵盤に乗せると、あの頃の感覚がそのまま蘇ってくるようだった。家で軽く手慣らしはしてきたが、それでもじわじわと緊張感が襲ってくる。きっとうまくやれるはずだ。そう心で言い聞かせる。あの頃を思い出せば、きっと。
 ドラムの音がリズムを取った。それに合わせて、レンが第一音を思い切り響かせる。
 暗がりの中にいる客達が、一気に彼の演奏に魅せられたのが分かった。それに合わせて、真斗も鍵盤を叩いた。テンポの早い曲だが、指は覚えてくれていた。その指の赴くままに、真斗もピアノの音を響かせる。僅かに、サックスを吹いていたレンがこちらを見たのに気付いた。もしかしたら驚いているのかもしれない。あれからもう十年も経つのに、こんなにも二人の演奏が馴染むとは思わなかったから。
 演奏しながら、彼の色気ある歌声が聞こえてくるような錯覚にすら陥った。そう、あの卒業オーディションの時も、レンはスポットライトを浴びながら情熱的な歌声を響かせ、その場にいた者全員を魅了していた。彼の才能が天性のものであると、真斗は認めざるを得なかった。真斗はどちらかというと、努力であの場所まで這い上がった人間だった。けれどレンは違う。生まれ持った才能を、より効果的に魅せるための方法を磨き上げ、そうしてあのステージに立っていた。それを羨ましく思いながら、一方でどうしようもなく惹かれていることに、真斗は気付いていた。
 鍵盤を激しく叩く真斗の手が跳ね上がり、レンも指を止めて、サックスと共に顔を上向けた瞬間、店内は割れんばかりの拍手に包まれた。この感覚は久しぶりだった。誰かの前に出て歌声なり演奏なりを披露し、賞賛を浴びるこの感覚――真斗は今、その魅力に虜になっていたことに気付いた。こんなに気持ちが良いと思ったのは、久しぶりのことだった。
「素晴らしい演奏でした。レン、そして聖川様にも、今一度大きな拍手を!」
 微笑みを浮かべて、真斗とレンはその拍手に応えるように手を振った。


「マスター。俺はオールド・パルを」
「かしこまりました」
 数分後、二人はバーのカウンター席で相対していた。レンがテーブルに肘をついて、こちらに身体を向け、にやりと笑む。
「まさかお前がここに来ていたとはね。マスターがお前の名前を呼んだ時は驚いたよ」
「それは俺も同じだ。たまたま来たこの店で、お前のサックスが再び聴けるとは思いもしなかった」
 しばし、二人の視線が交わり合う。それに応じて、胸中でも様々な思いが駆け巡った。レンと相対したことで改めて蜂蜜のように甘くとろけ出した感情を、真斗はぎりぎりのところで呑み込んでいた。
「レン。どうぞ」
「ああ、ありがとう」
 マスターからグラスを受け取り、くいと飲む。まるで彼の髪と同じような、鮮やかなオレンジ色のカクテルだった。マスターがにこにこと微笑みながら、口を開く。
「まさに今、この場にぴったりなカクテルですね」
 グラスをテーブルに置いたレンが、そうだろうと言わんばかりにマスターに向かってウインクをした。真斗は意味が呑み込めず少々戸惑ったが、すぐにレンがこちらを向いて、言葉を発した。
「久しぶりだな。お前が引退してからだから……もう、五年は経つのか」
「ああ、そうだな」
 引退した時のことを、真斗はゆっくりと思い出す。引退ライブで一緒に盛り上がり、泣いてくれたファンたち。大切な旧友たち。そして、別れを切り出した時のレンの、あの怒りと寂しさの混じった表情――
「……俺を、恨んでいるか」
 それは、あの時からずっと引っかかっていたことだった。女々しい考えだとは思いながらも、聞かずにはいられない。
 レンは一瞬目を瞠った後、弾けたように笑った。
「まさか! オレがいつまでも引きずるような、女々しい男に見えるのかい?」
「いや……すまない。少し、気になっていただけで」
「お前らしくもないね。オレももう子どもじゃないんだ。いつまでも根に持ったりしないさ」
 そう言って、レンはグラスを軽く回す。
「懐かしいね。お前がまだオレたちと同じ舞台に立っていた時……あの時は、最高に幸せだったな」
「……今は?」
「今も、もちろん幸せだ。最初はアイドルになるなんて、乗り気じゃなかったんだがな。スポットライトを浴びて、皆に注目されるあの感覚は、一度知ったら止められないね」
 真斗はその通りだと、テーブルの上で拳を握り締めた。それは自分も同じだ。先程、いやと言うほど思い知ったから。
「お前は? ややこしい仕事ばかりで退屈なんじゃないのか」
「いや、ようやく仕事も覚えてきて、少しずつやりがいを感じ始めているところだ。これを幸福というのなら、きっと、そうなのだろう」
「そうか。良かったな」
 レンは微笑んだまま、グラスの中のオレンジ色の液体に視線を落とす。真斗も同じように透明の液体に視線を落とし、しばし二人の間に沈黙がおりた。
 充実した日々だ、というのは、二人とも同じなのだろうと思う。けれど――どこか心に穴の空いた感覚が、どうしてもぬぐい去れない。今まではその空いた穴に目を向けないようにしてきたが、レンと会ったことで、真斗はその穴から目を逸らせなくなってしまった。
 今、自分の隣にレンがいないということ。その、喪失感から。
「……レン」
 沈黙を破ると、レンがん、と顔を軽く上げた。
「お前は……また、ここに来るのか」
 レンはさあ、と軽く肩をすくめた。
「どうだろうね。来られるなら、来たいと思っているんだが」
「そう、か」
 明確な答えを、知らず知らずのうちに期待してしまっていた。真斗は目を伏せる。彼の本職はアイドルであり、ここで演奏していることは言ってみれば趣味の戯れに過ぎない。それでも、あの素晴らしい演奏を聴かせてくれたレンなら、きっとまたここに来てくれると、無意識のうちに期待してしまっていた。
「お前は?」
 そう聞かれて、真斗は思わず答えに詰まる。
「俺は……俺は、……俺も、来られそうなら、来たいと……」
 言葉を濁してしまった。レンが来ることを期待している、というのを悟られたくない心が、真斗を邪魔したのだ。本当なら、いつでも来られる、と言いたかったのに。
「そうか。お前も忙しいだろうしな。じゃあ、また会える日があるかもしれないな」
 レンはグラスに残ったカクテルを飲み干すと、ごちそうさま、と言ってカウンターに置き、立ち上がった。
「もう、行くのか」
 思わず名残惜しげな声を出すと、レンがああ、と笑う。
「あまり長居して、未練を残したくはないんでね。じゃあ、またな、真斗」
「ああ……、レン」
 久しぶりに下の名で呼び合う感覚に、心が震える。レンがサックスケースを担いで、そのままバーを出ていく音がした。
 真斗は残ったカクテルに視線を落とした。僅かに揺らぐ水面が、今の自分の心の動きを表しているように思えた。
 じわじわと蘇ってくる彼への思いに、真斗は熱くなる心を制御できないでいた。先程、レンは未練、という言葉を口にした。それで、ようやく気付かせられる。自分はレンに未練を抱き続けてきたのだと。それが彼に再会したことで、明瞭な形となって蘇ってしまったのだと――
 グラスを半ば自棄のように掴んで、残っていたマティーニを飲み干した。くらり、と視界が揺れる。今日は一杯しか飲んでいないのに――真斗は胸の苦しさに悶え、息を吐いた。レンの存在がいつまでも、真斗の心の芯に残り続けていた。


10年後の捏造満載話。二人がジャズバーでセッションしてたらかっこいいなあ! という妄想を形にしました。
ちなみにオールド・パルというカクテルは古くからの仲間を意味するそうです(2011.9.27)