カタリ。
 図書館の心地よい静寂を破ったのは、真斗の真向かいの椅子が引かれた音だった。
 何気なく視線を上げて、真斗は一瞬目を丸くする。が、すぐに視線をノートに落とし、何事もなかったかのようにテスト勉強に集中するべく再びシャーペンを動かし始めた。
 向かいに立つ人物は引いた椅子に腰を下ろし、足を組んで斜め向きに座った。行儀が悪い、と一瞬顔をしかめるが、特に注意する義理もないと思い直し、真斗は無視することにした。
「……やれやれ」
 目の前に座っている男の口から、溜息が洩れる。やれやれ、はこっちの台詞だと、真斗は眉間に皺を寄せた。
 肩まで掛かっている山吹色の髪が微かに揺れて、ほのかな香水の香りが漂う。真斗はこの匂いが苦手だった。男のくせに香水なんて、という妙な反発心が生まれて、真斗は心の中でこっそり、目の前の男を睨み付ける。
 それでもなんとか心をなだめ、気にしないように努めて、真斗はシャーペンを動かした。だが、驚くほどに集中できない。幼い頃からピアノを弾いている真斗にとってはもうとっくに見慣れたはずの音楽記号たちが、ノートの上で不思議な舞を踊っているようにすら見えた。この感覚は一体何なのか――苛立ちを感じた、その時だった。
「退屈だねぇ」
 突然、目の前の男から溜息混じりの独り言が発せられた。
 一瞬ぴくりと眉を動かしたものの、真斗が何も言わずにいると、男はついにぐいと身体を乗り出してきた。その勢いに圧されて、思わず顔を上げてしまう。
 思いがけず視線が合って、胸の鼓動が高鳴った。更に悔しいことに、目の前の男――レンは、明らかにしてやったり、な表情を浮かべていた。
「退屈、だろ?」
 今度は、はっきりと自分に向けて同意を求めていた。真斗は身体を引いて、唇の端を歪めて笑うレンを睨み付ける。
「……神宮寺、今の時間は補習があるんじゃなかったのか」
「補習? ああ、そういえばそんなのもあったかな」
 成績に関わる重要なことなのに、軽々しく流してしまえるこの男に苛立ちを感じて仕方がない。
 レンは音楽の才能はあるのだが、サボり癖があまりにも酷く、とうとう先日補習を受けるように担任の日向から言い渡されていたのである。それを知っていたから一応注意を促してやったのだが、どうやら馬の耳に念仏だったようだ。真斗が眉間の皺を増やすと、レンは何故か嬉しそうに唇の端を吊り上げた。
「おや、もしかして心配してくれてるのかな? 聖川」
「馬鹿馬鹿しい。貴様がどうなろうと、俺の知ったことではない」
「そうかい? まあ、どうせオレは籠に放り込まれた哀れな鳥、その籠から出て自由になれるなら、オレは特にこの場所に執着しないけどな」
 早乙女学園に来たのは自分の意思ではない、だからどうなっても構わない――そう言いたかったのだろうが、それが余計に真斗の気に障った。
「冗談は大概にしろ。それがお前の本心か」
「そうだ、と言ったら?」
「俺は嘘が嫌いだ」
 唇を真一文字に結び、レンを鋭い視線で睨め付ける。レンはおお怖い、とおどけたように言って肩をすくめた。真斗は急にばからしくなってきて、軽く鼻を鳴らし、再びノートに散らばる音楽記号と向き合い始めた。
 すると一分も経たないうちに、ノートの端に指が伸びてきて、こつこつ、と二回叩かれる。
「こんな勉強、退屈だろう? お前も」
「お前と一緒にするな。少なくとも俺は、大変有意義だと感じている」
「真面目だねぇ。こんな記号、頭に入れたって何にもならないっていうのに。結局は他人の心を揺り動かすような歌が歌えること、それが全てだろ?」
「より完璧を目指すなら、こうした勉強も重要だ。基礎なくしてそれ以上の発展は有り得ない」
「ハッ! 基礎ねえ。そんなもの、才能でどうとでもなる」
 真斗は悔しさに思わず唇を噛んだ。認めたくはないが、レンにその才能があることは事実だ。レンの歌には、魂を揺さぶる何かがある。真斗が本能で、それを認めざるを得なくなるほどに。
 その差を埋めるために、真斗は努力を重ねてきたのだ。この勉強も、その努力の一つに過ぎない。お前に追いつき追い越すために――真斗は決意を新たにした。俺はこつこつと、一歩一歩でも、確実に積み上げていかねばならないのだ、と。
「悪いがお前の相手をしている暇はない。俺は、俺にとって有意義なことを行うのみ」
 たとえお前にとって意味がなくとも――心の中でそう付け加えて、真斗は教科書を開いた。
 ノートに軽く五線譜を引いて、教科書の楽譜を書き写していると、痺れを切らしたようなレンの溜息が聞こえてきた。直後、再び手が伸びてくる。反射的に振り払おうとして、しかしその手は一瞬遅く――
「離せ、何をするっ」
 レンの手は、真斗の手首を捕らえていた。レンの唇に深い笑みが刻まれる。もがくように手を動かすが、レンの握力は存外強いものだった。
「さっきから退屈なんだ、って言ってるじゃないか」
「だから何――」
「構えよ、オレに」
「な……」
 意外な言葉が飛び出してきて、真斗は目を大きく見開いた。レンは相変わらず口角を上げたままだが、その瞳は真っ直ぐに自分を見つめている。逃れ得ない何かを感じて、真斗は思わず俯きがちに目を逸らした。
「……お前に構っている暇などない、と言っている」
「いいじゃないか、少しくらい。どうせこんな記号、お前ならとっくに頭に入ってるんだろう?」
「それでも復習は必要だ。覚えたと思っていても、万が一のことがある」
「逃げるなよ、聖川」
「誰が――!」
 思わず顔を上げた時、図書館の入り口が勢いよく開く音がして、向こうから鋭い声が飛んできた。
「神宮寺レン! 補習までサボって何してる!」
「やれやれ。リューヤさん、か」
 レンが溜息を吐く。助かった、と真斗は胸を撫で下ろした。
「日向先生が呼んでいるぞ。早く行け」
「匿ってくれよ、聖川」
「断る」
 やれやれ、とレンは肩をすくめた。自業自得だ。レンを睨み付けて早く行くように促すと、レンは溜息をついて、はいはい、と腰を上げた。
「そんじゃ、ちょっくらリューヤさんのご機嫌取りに行ってきますかね」
「補習はお前のためのものなんだぞ。わざわざしてくださる先生に、感謝しながら受けて来い」
 へいへい、と適当な返事をした後で、レンが去り際に真斗の方を振り返る。
「さっきはいい退屈しのぎになったよ。お前をからかうのは面白いな」
「ふ……ふざけるな。先生にこってり絞られてくるがいい」
「ハハ。じゃあ、な」
 軽く手を振って、レンが悠々とした足取りで去っていく。
 結局、自分はレンの思うつぼだったのだろうか――一瞬鬱になったが、真斗は慌ててその考えを捨て去った。
 気持ちを改めてノートに目を落とすも、そこではまだ、音楽記号達が狂ったように舞を踊り続けていて、真斗は絶望する羽目になるのだった。


夏インテで配布していたペーパーより。手に取ってくださった方ありがとうございました!(2011.8.24)