音也ハッピーバースデー!音也相手ではいい兄貴してる蘭ちゃんが大好きです(2013.4.11)
狭いスタジオの中で、蘭丸の指がベースの上を自在に走る。まるで、大切なものを愛おしげに撫でるように、蘭丸の指が次々と新しい音を作り出していく。
「すごい……」
音也は思わず感嘆の溜息を洩らしていた。
蘭丸のベースを聴いたのはこれが初めてではないが、荒々しくも一音一音に心の込められた彼のベースの音にこうやって聞き惚れてしまうのはいつものことだった。だから音也は彼にベースを教わる時、自分の持っているアコースティックギターとセッションする時、やたらと彼に見本を見せてとせがむのだ。
「こないだもやったじゃねぇか、一回で覚えられねえのかよ」
「そうじゃないけど、でも、蘭丸先輩の音、もっかい聴きたいんだ! ねっ」
ぱん、と顔の前で手を合わせて頼むと、蘭丸はチッと舌打ちをして、しょうがねえな、と言いながら、指を弦に引っかける。口では嫌そうにしているけれど、蘭丸が音也のお願いを聞いてくれなかったことは、実は一度もない。そのことを嶺二に話した時、嶺二は目が飛び出るのではないかと思うくらい驚いて、「あのランランが!? すごいよおとやん! どんな魔法使ったの? おにーさんにも教えてよ!」と、しばらく尊敬の眼差しで見られた。
それに、ベースを弾いている時の蘭丸は、最高に生き生きしているのだ。あ、ベースが喜んでる。蘭丸の演奏を聴くとき、音也はいつもそう思った。それを蘭丸に言うとバカなこと言ってんじゃねえと返されるのだけれど、その後でほんの少しだけ彼の頬が緩むことを、音也は知っていた。
いつの間にか演奏が終わり、音也はわあ、と言いながら大きく拍手をした。
そこでいつもなら、「ほらよ、もういいだろ」とかなんとか言って、蘭丸はソロ演奏を止めてしまう、はずだったのだが――
「……おい、音也。なんかリクエスト、あっか」
弦に指を掛けたままの蘭丸にそう言われて、音也は一瞬固まった。自分の耳で聞いたはずの言葉が信じられなかったのだ。呆然とした自分の表情を怪訝そうに見つめ、蘭丸が眉間に皺を寄せた。
「あんだよ。何もねえならもうやめっぞ」
「う、ううん! あるある! リクエスト! えっとね、えーっと……」
咄嗟のことで、考えがまとまらない。蘭丸に弾いて欲しい曲があれもこれもと浮かぶばかりで、頭の中がごちゃごちゃして、一向に一つに決められないでいた。蘭丸のデビュー曲もいいし、最近出した曲も好きだし、せっかくリクエストを受け付けてくれているのだから、最近一緒に練習した音也の持ち曲を弾いてもらうのもいいかもしれない。
悩んで悩んで、音也は一つの答えを口にする。
「じゃあ、じゃあね、こないだ聴かせてくれたあの曲! 蘭丸先輩がインディーズの頃作曲したっていう、アレがいい!」
蘭丸が驚いたように目を丸くし、再び眉間の皺を深くする。
「よりにもよってアレかよ……おまえ、あれ気に入ったのか? まさか」
「うん! いかにもロック! て感じでさ、蘭丸先輩っぽくて、カッコイイし!」
「ハァ……聴かせんじゃなかったか、おまえに」
蘭丸が困ったように溜息を吐いて、髪を掻き上げた。
前回一緒にベースの練習をした時、今の事務所にいるヤツらには誰も聴かせたことがねえけど、と言って、蘭丸がインディーズ時代作曲したという曲を披露してくれたことがあったのだ。荒削りだが、不思議と人の心を惹き付ける、良い音楽だった。あの時は今日だけだぞ、と言っていたが、リクエストできるなら、もう一度聴いてみたい。
蘭丸がベースの弦に指を引っかけたかと思うと、上から下へと一直線に、ジャン、と鳴らした。
「わあったよ。じゃあ、特別な」
「やったー! えへへ」
「ワンコみたいに嬉しがってんじゃねーよ、ったく」
そう言いながらも蘭丸の唇の端には笑みが浮かんでいた。
ゴホン、と一つ咳払いをして、蘭丸の指がベースの上を踊り始めた。上へ、下へ、左右へ自在に動く彼の指は、まさに踊っていると形容するにふさわしかった。そうして、蘭丸の喉が開く。ベースと同じ心地よい低音ボイスが、音也の心を震わせる。
「はぁ……」
音也はすっかり気分が良くなって、目を閉じていた。自然と、腕を左右に広げていた。全身で蘭丸の音楽を感じ、浸っていたかった。
やがて蘭丸の演奏が終わると、音也はゆっくりと目を開けた。蘭丸が音也の反応を待っている。音也は先程よりも意識して大きな拍手をしながら、目をきらきらと輝かせた。
「やっぱりすごいよ蘭丸先輩! さっきの曲、すっげー気持ち良かった!」
「あれがか? おまえ、変わりもんだな。あんな昔の曲、おまえ以外にはぜってー聴かせたくねーのによ」
「えーっ、もったいないよ。俺だけなんて。でも……独り占めしてるみたいで、なんか嬉しいや」
そう言って小さく笑うと、何言ってんだ、気持ち悪ぃ、と言いながらも、蘭丸は嬉しそうに表情を綻ばせていた。
ふと、蘭丸がスタジオの時計に視線を移し、つられて音也もそちらに目を向けた。11時55分。もうすぐ業界でいう“てっぺん”を越えそうな時間だ。二人のスケジュールがなかなか合わず、遅い時間にここに来たから仕方がないとはいえ、音也は少し焦る。
「蘭丸先輩、確か明日朝からロケの仕事が入ってるって……」
「あ? まあ構わねーよ。おれがもう帰りてえって思ったら、さっさと帰ってる」
「そっか。良かった。……でもそれって、帰りたくないって思ってくれてる、ってこと?」
「あーもう、いちいち変な風に解釈すんじゃねーよ!」
蘭丸が鬱陶しげにぐしゃぐしゃと髪を掻く仕草すらも、音也の心を躍らせる。だって蘭丸先輩、いつだって、口と気持ちがあべこべなんだもん。思わずそう言いたくなって、音也は言葉を喉元でぐっと呑み込んだ。言ったらきっと蘭丸が激怒することは目に見えているから、言わない。
「ったく……おっと、もうこんな時間か」
蘭丸が不意にベースの弦に、再び指を引っかけた。音也は怪訝そうにその様子を見つめる。またリクエストしていいの? そう尋ねようとしたら、蘭丸が先に音也の方を向いて、言葉を発した。
「……こういうのはガラじゃねぇんだけどよ。音也、おまえに」
「え? 俺に……?」
なに、と尋ねようとしたら、ベースの演奏が始まってしまったから、尋ねる機会を逸してしまった。
だが、尋ねる必要もないくらい、その演奏からは蘭丸の意志が明確に伝わってきた。このメロディを知らない者などいるはずがない。そういえばと、音也は今更のように思い出す。今日は4月10日、ということは、日付が変われば――
「ハッピーバースディトゥユー、ハッピーバースディトゥユー」
「蘭丸先輩……」
「ハッピーバースディ、ディア、音也」
そこで言葉を切った蘭丸が思い切り間を取って、そして最後のフレーズへ。音也の唇が震えた。今日は信じられないことだらけだ。いや、もう日付が変わってしまったようだから昨日のことになるのか、でも、そんなことはどうでもいい。
「ハッピーバースディトゥユー……」
一音一音が、そして蘭丸の声が、心にじわりと染み渡る。あまりにも嬉しくて、そして意外すぎて、歌いきった蘭丸に、拍手をすることすら忘れていた。
「――とや、音也! おい、何ボーッとしてんだ。まさか自分で忘れてたわけじゃねーよな?」
蘭丸に強く肩を叩かれて、音也はようやく我に返る。
「えっ! あ、う、うん。忘れてないけど、けど……」
「けど、なんだよ」
蘭丸が顔を覗き込んでくる。蘭丸と話す前までは少し怖い、と思っていたカラーコンタクトの瞳が、今日は妙に優しく見えた。
「なんか、信じられないっていうか、意外というか……蘭丸先輩が、こんなこと、してくれるなんて、思わなくて」
ぽつぽつと話すうちに何故か声が上擦ってしまって、音也は慌てて鼻を啜った。ったく、と忌々しそうに、蘭丸は髪をわしゃわしゃと掻く。
「だからガラじゃねえんだよ、こういうことは……」
「あっ、で、でも、すごく嬉しかったんだよ! ほんとに! 俺、0時になった瞬間に祝われたのって、初めてで……」
「そうなのか? 最近は0時になった瞬間に祝うっての、流行ってんだと思ってたけどな。まあ……おまえが喜んでくれたんなら、やったかいがあったか」
蘭丸はようやく笑顔を見せてくれて、それが余計に、音也の涙腺をきゅうっと刺激した。けれど、泣いているところなんて見せたくなくて、音也はごしごしと目を擦った。
蘭丸はベースを肩から外し、しゃがんでケースにしまいながら言った。
「あとな、おまえに……おれの昔使ってたベース、やるよ」
「え? ほ……ほんと、に?」
今日は信じられないことだらけだ。リクエストを受け付けてくれて、0時ぴったりにハッピーバースデーを歌ってくれて、おまけに蘭丸のベースをもらえるだなんて。
「長いことちゃんと弾いてやれてねえけど、手入れはしてたから、そう音は狂ってねえはずだ。おまえ、筋はいいからな。あれで練習しろよ。今度うちの家に来た時、持って帰れ」
「うわぁ……蘭丸先輩、ありがとう!! 俺、絶対大事にするっ!」
「当たり前だ。壊したら承知しねーからな」
ベースをケースにしまい終わった蘭丸が、それを肩に掛けてよっと、と立ち上がる。
「おい音也、牛丼食いに行くぞ」
「え? 牛丼?」
「何曲も弾いてたら腹が減った。テメェのせいだからな、ったく」
そう言いながら、その言葉に、音也を責めるような響きはない。音也も慌てて、今日持ってきた自分のギターをケースにしまい始めた。
「おい音也、置いてくぞ!」
「あっ、待ってよ蘭丸先輩!」
「おれの気が変わらねぇうちじゃねーと、奢ってやんねーからな!」
また、蘭丸の口から意外な言葉。
今日はどうやら、音也にとっても蘭丸にとっても、スペシャルな日みたいだ。
しまい終わったギターを肩に掛け、蘭丸の背に向かって走り出しながら、音也は顔を上げて、はぁ、と幸せそうに溜息を吐いた。
音也ハッピーバースデー!音也相手ではいい兄貴してる蘭ちゃんが大好きです(2013.4.11)