「5番線、発車いたします。ドアにご注意ください――」
 ほんの少し足を伸ばしかけて、そっと引っ込める。やがてドアが閉まり、ゆっくりと走り出していく電車を、トキヤは静かに見送った。
 改札を出て、空を見上げる。今は夕方六時を回ったところだ。びゅう、と突風が吹いて舞い上がりそうになった紺色のマフラーを慌てて押さえながら、白いコートのポケットを探った。携帯のバイブレーションが先程から止まない。画面に表示された名前を見て、トキヤは小さく溜息を吐き、再びそれをポケットにしまった。止まらないバイブレーションをなるべく気にしないようにして、雑踏の中を歩き出す。
 行き先など考えていなかった。当てもなく街を彷徨うのは久しぶりのことだった。強い風が吹く度、人々はコートを押さえ肩をすくめる。帰宅途中のサラリーマン、数人でやかましく騒ぎながら歩いて行く学生、髪を撫でつけながら早足で歩いて行く女性。その中に紛れてそのまま一夜を過ごしたいと、トキヤは切実に願った。
 音也と同じ部屋にいることを息苦しく思うようになったのは、いつからだったろう。早乙女学園時代から同室で、その頃から彼との共同生活はあまり心休まるものではなかったが、少なくとも息苦しい、と感じたことはなかった。それなのに、今は音也と同じ空間にいることがどうしようもなく苦痛だった。原因は改めて考えなくとも、薄々見当はついている。
「俺、トキヤのこと、好きなんだ。真剣だよ」
 迫られて手を握られたあの時のことを、トキヤは今でも鮮明に思い出すことができる。いつになく真剣な表情の音也。いつもなら鼻で笑って追い返すのに、何故かその時は身体が硬直して動けなかった。心臓の音が、うるさいくらいに耳に響いた。
 あの時自分は、何故音也を受け入れてしまったのだろう――悔恨の言葉を、トキヤは口の中で呟く。一時の気の迷い。勢いに圧されて。言い訳はいくらでも思いついたが、そのどれもが理由としてふさわしくないように思えた。というよりも、そんな理由で片付けたくはなかった。一時の気の迷いなどで心を許してしまっただなんて、思いたくなかった。


 しばらく歩道を歩いていると、ふとある人物が目に留まった。帽子屋の前で商品を物色している少年に、見覚えがあった。焦げ茶のハットを被り、明るめの茶のレザージャケットを着て、紺のデニムパンツのポケットに寒そうに手を突っ込んでいる。
 その横顔は、どこか思い詰めているようにも見えた。
「翔」
 声を掛けられて、彼は驚いたように振り返った。
「なんだ、トキヤか。急に呼ばれたからびっくりしたぜ」
 翔はトキヤの顔を見て頬を緩ませた。先程の表情は見間違いかと思わせるようないつもの笑顔に、トキヤは無意識に安堵していた。
 翔とは学生時代、同じクラスで学んだ仲間だった。容姿も性格も自分とはまるで違うが、不思議と気が合った。身体こそ年頃の男子よりも小さいが、考え方は大人びていて、他人の前で滅多に自分をさらけ出さないトキヤも、翔だけには気を許していた節がある。翔に会ったことで、先程まで冷え切っていた心が、徐々に溶かされていくような感覚を味わった。
「こんなところでどうしたんです」
「帽子見てたんだよ。いいのがないかなと思ってさ。そういうトキヤこそどうしたんだよ? 仕事、終わったんだろ? 寮に帰んないのか?」
「……ええ、まあ」
 トキヤは急に後ろめたくなって、言葉を濁した。これが音也相手なら適当に返していれば誤魔化せただろうが、翔相手ではそうはいかなかった。怪訝そうに顔を覗き込まれて、トキヤの心臓が跳ね上がる。
「お前さ、なーんか元気ないな。なんかあったのか? 仕事が上手くいかなかったとか?」
「いえ、そういうわけでは」
 視線を逸らすトキヤの心情を察したのか、翔はそれ以上言及せずあっさりと引き下がる。
「そっか。まあ言いたくなきゃ言わなくていいけどさ、あんま思い詰めんなよな。トキヤらしくないぜ」
 ぽんぽん、と肩を叩かれて、トキヤは顔を上げる。翔は安心させるかのように、にっと笑った。
 トキヤの心臓が、一層高く跳ね上がった。気付けば翔の笑顔から、目が離せないでいる自分がいた。こんな感覚を、自分は一度味わったことがあるような気がする。あれはぐっと顔を近づけられて、自分に対する愛の告白をされた時と同じような――
「翔。今、時間ありますか」
 帽子の物色を再開しかけていた翔に、トキヤは思わず尋ねていた。ん、と顔を上げ、翔が頷く。
「別に、俺は平気だけど」
「少し、話しませんか。あそこのカフェで」
 トキヤが指差したのは、道路の向かいにあるカフェのチェーン店だった。あの場所なら常に人がいるし、自分たちの話は周囲の雑音に紛れるだろう。
「ああ、いいぜ」
 翔が承諾してくれた時に見せた何気ない笑顔が、再びトキヤの心臓を叩いた。


 窓際の席を取り、それぞれコーヒーを頼んでから、二人は椅子に腰掛けた。カップからは湯気が立ち上り、コーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。翔がコーヒーに軽く口を付け、自分も、と取っ手に手を伸ばすが、そのカップが持ち上げられることはなかった。
「翔は確か、四ノ宮さんと美風さんと一緒に暮らしているんでしたね」
「ん? ああ、そうだよ。トキヤは音也と、寿先輩と一緒に住んでるんだよな?」
「……ええ」
 音也、という名前が発せられた瞬間、その響きは小さなかまいたちのようになってトキヤの心を切り裂いた。胸の痛みが苦しさを増幅させる。あの空間の息苦しさを、嫌でも思い出す羽目になった。
 顔色が悪くなったことに気付かれたのか、翔が慌てたように尋ねてくる。
「お、おい、どうしたんだよ、大丈夫か? お前、さっきからなんかおかしいぞ?」
「いえ……すみません。私としたことが」
 ジャケットの襟を正し、トキヤは一つ咳払いをした。
 トキヤは今日に至るまで、様々な役を演じてきた。ドラマの役や課題で出された役はもちろんのこと、自分の性格とは真反対のHAYATOがその最たるものだ。世間の目はその演技で十分誤魔化せていたけれど、翔の前でそれが通用しなくなっていることに、トキヤは薄々気付いていた。と同時に、音也の顔が浮かんだ。音也は翔のように、自分の微妙な表情の変化に気付いてくれるだろうか。音也は自分の表面しか見ていないのではないか。考えれば考えるほど、不安が募った。
「翔は、本来好意を抱いているはずの相手と一緒にいて、苦痛を感じたことはありますか」
「え?」
 ほとんど無意識のうちに口から転がり落ちた質問に、翔は目を丸くした。
 だが、もう「どうしたんだよ」、とは聞かなかった。腕を組み、うーんと唸って質問の答えを真剣に考えてくれている。翔のそういうところが、トキヤは好きなのだった。
 やがて弾かれたように、翔の顔が上がる。
「あっ……」
「どうかしましたか?」
「あっ、いや、なんでもない」
 一瞬見せた翔のわざとらしい笑顔に引っかかるものはあったが、追及するのもどうかと思い、トキヤは黙った。翔は再び俯き加減に考え込む仕草をしながら、そうだな、と口を開いた。
「まあ、なかったわけじゃねえ、かな」
「それはどんな時ですか? 一体誰に?」
「うーん、まあ、誰にっていうか……そういうのって、誰にでもあるんじゃねーか? 例えば喧嘩した時、とかさ」
「喧嘩、ですか」
 確かに喧嘩した後なら、相手のことを嫌いにはならないまでも気まずくなることはあるだろう。だがその状況は、自分たちの今にはそぐわない。
「そうですか。ありがとうございます」
 トキヤは淡々と礼を言った。やはり自分はおかしいのだ。翔の言葉を聞いて、ようやく確信した。音也に抱いていた気持ちは、やはり好意以外の何物でもなかったはずなのだ。自分のような人間が、一時の感情にほだされて相手を受け入れることなどない。そこには確かにそれ相応の感情が存在したはずだ。
 トキヤは今も音也の傍を離れたいと思いながら、いつまでも惹き付けられてしまっている。こんな矛盾した気持ちを抱える自分は、やはりどこかおかしいのだろう。
 翔は再びコーヒーをすすって、トキヤの顔をじっと見た。
「なんか納得いかねえ、って顔してんな」
「……別に、そういうわけでは」
「あんまりしつこく言うつもりはねえけどさ。なんか溜め込んでるものがあるなら、吐き出した方が楽になることもあるぜ」
「ええ……分かっています」
 頭では理解しているのだ。他人に自分の心境をさらけ出せたらどんなに楽だろうかと、想像したことも一度や二度ではない。結局言える相手がおらずに、自分の中で処理してしまうことが多かったのだが。
 トキヤはテーブルの上で拳を握り、それをゆっくりと開いた。今なら言えるかもしれないと思った。程よく騒がしいカフェの中でなら、そして、翔の前でなら。
 だが、いつまで経ってもその口から言葉は出てこなかった。唇を動かしかけて、やはり閉じる。それを何度も繰り返した挙げ句、出てきたのは溜息だった。翔はコーヒーを飲み干して、自分に笑顔を向けてくれた。
「まあ、あんまり思い詰めんなよ。もし俺に話そうって思ったら、その時話してくれればいいから。俺はいつでも聞くからな」
 胸が締め付けられるように熱くなった。分からない。分からないが、この感覚は味わったことがある。先程と同じだ。この高揚感に名前を付けるとするなら、それは。
「ありがとう、ございます」
 礼を言うと、翔は笑ってから、椅子から立ち上がった。
「じゃ、俺、そろそろ帰るわ。一人で考える時間、あった方がいいだろうしな」
 そう言って、自分のコーヒーカップを持って身体を翻す。トキヤは慌てて立ち上がり、縋るように手を伸ばしていた。
「翔! 待ってください!」
 翔が振り返る。翔には翔の生活がある。これ以上自分に付き合わせるわけにはいかないと、頭では理解していた。それなのに、トキヤの口から飛び出したのは、帰宅を促す言葉ではなかった。
「翔、もう少しだけ……もう少しだけ、付き合ってくれませんか」


 コートを着て、二人は外に出て近くの公園まで歩いた。外はすっかり冷たくなり、剥き出しの肌があまりの寒さにちくちくと痛んだ。翔もうー寒い、と身体を震わせながら、トキヤの少し前を歩いていく。
「翔、寒くありませんか? マフラーかコート、貸しましょうか」
「いや、平気平気。にしても寒いよなー、最近は特にさ」
「そうですね。風邪など引かないよう、十分注意しなければ」
 この仕事は身体が資本だ。体調を崩して仕事ができないとなると、特にトキヤや翔のような仕事の少ない新人にとっては命取りになる。翔もうんうんと頷いて、同意してくれた。
 冬の夜ということもあって、公園にはほとんど人気がない。二人は入り口近くのベンチに腰掛け、目の前で大きく噴き上がる噴水を見つめた。
「……すみません」
「何だよ、急に」
「あなたを付き合わせてしまって……もう、夕飯の時間でしょう。四ノ宮さんたちが待っているんじゃないですか」
 翔はジャケットのポケットをまさぐり、携帯を確認して、うん、と頷いた。
「まあ、な。でもいいよ、たまには。トキヤとは最近全然喋れてなかったしな」
「そうですね……学園にいた頃が、もう遠い昔のことのようです」
 トキヤは墨を流したような夜空を見上げた。微かに星も見えるが、その光は微々たるものだ。あの星が学園にいた頃の楽しかった日々だとしたら、その灯火が徐々に消えかかっているように思えて、急に悲しさに襲われた。
「俺さ、ちょっと嬉しかったんだぜ」
 急に翔が明るい声を出したので、トキヤは怪訝そうに翔の方を見た。
「トキヤって、普段は誰にも弱みさらけ出したりしないだろ? けど、今日はちょっと俺を頼ってくれてるのかな、ってさ。嬉しかったんだ」
「翔……」
 少しおさまっていたはずの高揚感が、再び熱を上げ始めたのが分かった。翔は優しい。トキヤが弱みをさらけ出しても、笑ったり戸惑ったりすることなく、全てを受け入れてくれる。
 無意識のうちに、トキヤは音也の顔を思い浮かべていた。自分が弱っているとき、音也はこんなふうに受け入れてくれるだろうか。「なーんか、トキヤらしくないなぁ」――そんなことを言って、笑うのではないだろうか。
 急に肺が縮んだような感覚があって、トキヤは酸素を求め喘いだ。苦しくてたまらないあの感覚が蘇ってきたのだ。
 音也に笑われたくない。普段通りの一ノ瀬トキヤでいなくてはならない。だが音也にとっての普段通りの一ノ瀬トキヤは、一体どんな姿なのだろうか。既に自分は、彼の前での振る舞い方を忘れてしまった。音也に思いを告げられた、あの日から。
「トキヤ、大丈夫か?」
「ええ……平気、です……」
「俺の肩、何なら使ってくれていいぜ。まあ……俺はお前より小さいし、頼りねぇかもしれないけど」
「いえ……ありがとう、ございます……」
 言葉に甘えて、トキヤはゆっくりと翔の肩に頭をもたせかけていった。肩に触れた瞬間にじわりと広がった温かさを、トキヤはどう表現すれば良いのか分からなかった。心臓は既に、うるさいほどに暴れている。それは翔に密着するほど酷くなり、トキヤは先程とは違う息苦しさを覚えた。だがそれは、決して不快なものではなかった。
 翔に対する思いが、もやのように固まって心の中で浮いている。その感情に名前を付けるのが怖かった。それでも名前を付けない限りは、ずっとそのまま留まり続けるのだろう。留まり続ける限り、トキヤの心臓は鎮まらない。
「……好き……」
 口の中で小さく言葉にした途端、白いもやが一つの形になって、心に落ちていった。
 あくまでも友人感情としてだ。トキヤはひたすらにその前提条件を言い聞かせた。それなのに、それだけでは収まらない何かがトキヤの心で疼いている。心の中の友人の位置から、決して出てくるはずのない人間だというのに。
 ――あの特別な場所にいることを許したのは、音也だけのはずだった、のに。
「翔……私は……」
 あなたが欲しくてたまらないんです。
 ベンチの上に置かれた翔の手に、トキヤはそっと自分の手を重ねていた。翔は振り払うこともなく、指を絡めてくれたことで、感情は絶頂へと昇り詰めた。翔にそんなつもりなどないに決まっている。分かっていても、一度高揚した心が鎮まることはない。幾度も肩が上下して、必死に空気を取り込もうとしている自分に、いつしか心地よさを覚えていた。
 この息苦しさが永遠に続けばいいのにと、トキヤはひたすらに願った。

* * *


「……トキヤ、どうしちゃったんだろ」
 ダイニングテーブルに上半身を載せたまま携帯を弄っていた音也は、深く溜息を吐いた。
 最近のトキヤがどこかおかしいということは、音也も薄々感付いていた。例えば、朝挨拶しても目を逸らし気味にしか返してくれないとか、手を握ろうとするとすっと避けたりとか、思い当たることはいくらでもあった。お互い慣れないから仕方ない、と割り切っていられたのも最初のうちだけだ。何度も続けば、不安の種はそれだけ大きく育っていく。
「探しに行こっかな」
 音也は椅子を引いて立ち上がった。嶺二は今日2時間もののバラエティの収録があるらしく、てっぺん確実に越えるだろうね、と言いながら朝出て行ったから、すぐに帰ってくることはない。音也とトキヤが久しぶりに二人きりで夕飯を食べる、絶好の機会。――のはずだった。
 音也はダウンジャケットを着込んで、部屋の外に出た。暖房のきいている室内とは違い、吹きすさぶ風が身にしみる。無防備な手をポケットに入れて、音也は走り出した。
 トキヤが今日仕事で向かったスタジオは、ここから二駅ほど離れた場所にある。さすがに5分とはいかないが、走れば20分ほどで着けるだろう。もしかしたら電車に乗っていて、携帯に触れないのかもしれない。そうであればいいと願いながら、音也は駅に向かって走った。
 最寄りの駅には、それらしい人物は見当たらなかった。続いてスタジオの最寄りの駅まで走ってみたが、トキヤは見当たらない。不安を抱えながら、音也は周辺を探して回ることにした。
 その途中で、公園を通りすがった。特に意識も向けていなかったのだが、その視界の端に映ったものに気付いて、音也は慌てて足を止め踵を返した。公園の噴水近くのベンチ。人気のない公園の中に、二つの人影がある。
「トキヤ! トキ――」
 だが、音也の声は途切れた。走り出した足も、徐々に歩みを止める。
 人影が動いて、ゆっくりとその頭が相手の肩に落ちていった。髪型から、頭を載せた方がトキヤらしいということに気が付いた。よくよく目を凝らすと、その相手の方にも見覚えがあった。学園時代サッカー仲間だった、最も親しい友人の姿。
「翔、私は……」
 トキヤの声が洩れ出てきて、音也は思わず肩を震わせた。その声は、艶っぽい響きを含んでいた。まるで主人に擦り寄る子猫のような、甘い声。
 音也の全身に衝撃が走った。トキヤが自分の前でそんな声を出したことなど、今まで一度もなかったのに。
「……なんで……」
 音也はしばらく、その場から動けなかった。


 その日は朝からグルメリポートのロケがあった。事務所の若手を二人ほど、という先方の指定で、音也とセシルが選ばれたのだ。ようやく終わって帰る頃には、午後を回っていた。
「オトヤ、今日はおつかれさま、でした!」
「セシルもお疲れ様。今日のロケ、いい感じだったよね。ディレクターさんにも褒めてもらったしさ」
「YES。オトヤとのロケ、とっても楽しかった」
「あはは、俺もだよ」
 こうして笑顔で他人とやりとりするのが、随分久々のような気がした。先日のこともあり、ここのところ鬱々とした気分を抱えて過ごすことが多かったからだ。嶺二は音也を気遣ってか、それともいつも通りなのか、表情の暗い音也に様々ないたずらを仕掛けたが、一時的な気休めにはなるものの、根本的な解決には至らなかった。
 そんな時、ロケの仕事が入った。気分は晴れなかったが、断ることはできない。鬱々とした気分で現場に向かったものの、始まると予想以上に楽しく、セシルと一緒に商店街を回って様々なものを食べ、店の人達と話をしているうちに、音也に笑顔が戻ってきたのだった。
 セシルとは出会った時から、不思議と気が合った。アグナパレスの王子、という肩書きに最初は驚いたものだが、今ではすっかり気にならなくなっている。音也の言動に素直な反応を示し、喜怒哀楽を隠さず表現するセシルと付き合っていると、音也まで清々しい気持ちになるのだった。
「セシルはこのまま帰るの?」
 歩きながら音也が尋ねると、セシルは首を横に振った。
「NON。ショッピングモールに行くつもりです」
「へー、何か買い物?」
「YES、カミュの誕生日プレゼントを――」
 言いかけたセシルの表情が、何故か陰った。晴れていた空が、みるみるうちに灰色の雲で覆われていくように。
「セシル? どうしたの?」
「……オトヤ。ワタシ、どうしたらいいのか、わからない。わからないのです……」
 俯いてしまったセシルの目尻に、うっすらと涙が浮かんだのを音也は確かに見た。ただならぬ雰囲気を感じ、音也はセシルの肩を優しく抱いた。
「セシル、落ち着いて。良かったら俺に話してよ、ねっ」
「……オトヤ……」
 セシルはこくりと頷いた。音也はセシルの肩を抱いたまま、近くのカフェに入ることにした。


 二人揃ってオレンジジュースを注文し、席に着くと、音也は早速切り出した。
「さっきはどうしたの? カミュってセシルと一緒に住んでる、あの人だよね」
「YES。最近、カミュの様子がおかしいのです……」
 セシルはジュースに手も付けず、膝の上で拳を作ったまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
 先日突然、レッスンの時以外、なるべく自分に話し掛けるなと言われたこと。その日から、カミュの態度があからさまによそよそしくなったこと。自分のせいで機嫌が悪くなったのかと思い、機嫌が直る方法を模索してみたものの、どれも上手くいかなかったこと。
「カミュの好物の甘いものを買ってきたり、色々しました。でも、カミュはワタシに冷たいまま。ワタシ、どうしていいのかわからなくて……」
「そっか……それで、暗い顔してたんだね」
「もうすぐカミュの誕生日なのです。だから、誕生日のプレゼントを買うつもりでした。でも、買ったとしても、カミュが受け取ってくれなかったらと思うと」
 セシルはそこで言葉を詰まらせた。こんなに不安そうな表情を見せるセシルを、音也は初めて見た。セシルはいつも明るかった。それだけでなく、誰に対しても、それこそ自分たちにとっては絶対的な存在であるはずのシャイニング早乙女にすら動じず、自分の意志を貫き通す強さを見せていた。そのセシルが、睫毛を揺らし不安げに唇を震わせている。セシルにとってのカミュという人物の大きさを、音也は直感的に感じ取った。
「自分が何かしたかもっていう心当たりはないんだよね?」
「ありません。どうしてなのか、全然わからない」
 セシルは力なく首を振った。セシルはいつも王子らしく堂々としているから、少し大人びて見えるのだが、今日ばかりは年相応の少年に見えた。肩を竦めて縮こまるようにして、じっと膝の上の拳を見つめている。
「セシル」
 音也が少し身を乗り出すと、セシルがゆるゆると顔を上げた。
「俺、いい解決法とか、すぐに思いつくわけじゃないけど……でも、セシルの力になりたい。俺に話して楽になるなら、いくらでも聞くから。ね」
「オトヤ……ありがとう。聞いてもらえて、少し気が楽になった気がします」
「ほんと? 良かった」
 セシルの表情が僅かに和らぎ、それにつられて音也の頬も緩んだ。
 具体的な策が見つかったわけではない。自分が軽々しく介入していい問題でもないように思う。それでも、セシルの力になりたかった。セシルの笑顔が戻るのならば、何だってする――そんな気持ちでいた。自分の周りにいる人達には、いつだって笑っていて欲しい。
 ふと、トキヤの顔が頭に浮かんだ。自分を避けるようにして過ごすようになってから、もう二週間ほど経つだろうか。たった二週間だが、音也にとっては長い長い苦痛の時間だった。好きな気持ちを、自分なりに素直に伝えたつもりだった。トキヤもそれを受け入れてくれたはずだった。小さく交わしたキスの感触が、もう思い出せない。ある意味、自分とセシルの状況は、似通っているようにも思われた。
「セシル、俺、何だって力になるから……ね」
 音也は思わず、セシルにぐっと顔を近づけていた。セシルは驚いたように少し身体を引くも、拒絶の意志は見られない。唇の端に小さな笑みを浮かべて、その申し出が不快でないことを伝えてくれた。
「ありがとう。オトヤ、ありがとう。とにかく、ワタシ、プレゼントを選んできます。話せたら、ちゃんと理由、聞いてみます」
 ふわりと微笑むセシルの表情が、音也の中のわだかまりを少しだけ取り去ってくれる。
 素直に感情を見せてくれるセシルが好きだった。自分と一緒に笑ったり、喜んだり、驚いたりしてくれるセシルが好きだった。それなのに、自分が本当に知りたいと思っているものは、顔を背けたまま、表情を窺わせることすら許してくれない。
 ならば、と音也は思った。肩を掴んで、無理矢理にでも振り向かせればいい。自分が告白した時もそうだった。トキヤは素直になるということを知らない。本当はずっと自分のことを見ていてくれたのに、顔を背けることで、そうでないふりをし続けてきたのだから。
「セシル、ありがとう」
 心からの礼を告げると、セシルは案の定、不思議そうな顔をした。音也は柔らかく微笑んだまま、それ以上何も言わなかった。

* * *


 携帯のバイブレーションが、メールの着信を告げる。差出人の名前を見て、内容をざっと読んだ後、トキヤは思わず安堵の溜息を吐いた。
『いいぜ。じゃあ、いつものカフェでな』
 あれから、暇を見つけては翔と会うようになっていた。さすがに何度も呼び出すのは迷惑だと分かっていたが、メールを送ることが止められなかった。翔も仕事が入っている時以外は、必ずトキヤに付き合ってくれた。承諾してもらえた後も若干の後悔の念に苛まれているトキヤの不安を吹き飛ばすように、あの笑顔を携えて来てくれる。
「よっ! 悪い、待ったか?」
「いえ。私も先程来たところですから」
 翔は肩にかけていたバッグを床の上に下ろし、向かいの椅子に腰掛けた。トキヤはぬるくなったコーヒーをすすりながら、翔に視線を向けた。
「そういえば、こないだお前が出てたバラエティ、見たぜ。ほとんど表情変えずにあのアトラクションクリアしちまうなんて、やっぱすげーよな」
「まあ、あの程度はできて当然です。翔も見ましたよ、出たばかりのファッション誌。一見有り得なさそうな組み合わせでしたが、よく似合ってましたよ、あの帽子と靴」
 サンキュ、と軽く言って、翔はコーヒーに口を付けた。
 翔とこうして他愛もない会話を繰り返す時間が、今のトキヤにとっては最も心休まる時間だった。なるべく寮に帰る時間を短くしたいという思いから、ついつい色々なことを話し込んでしまう。翔も嫌な顔一つせず付き合ってくれるから、トキヤはますます翔に甘えていた。これではいけないと警鐘を鳴らす自分がいる一方で、このまま心地よい時間に浸っていたいと思う自分が圧倒的に大きく、結局は先日、一緒に入ったカフェをお決まりの場所として、そこで何時間も話し込んでしまうのだった。
 トキヤの息苦しさの原因について、翔はあれから一切触れようとしなかった。それをありがたいと感じる一方で、ふとした瞬間に思い出すと、今でも心が痛んだ。このままではいけない。そう思うのに、どうしても向き合えずにいた。こんなふうに自分の問題から逃げてしまうのは、初めてのことだった。
「翔、公園に寄っていきませんか? 少しだけ」
「ああ、いいぜ。久しぶりだしな」
 夕飯の時間だからと腰を上げた翔を見送る途中、二人はあの時の公園の前を通りかかった。陽は既に西の空に沈み、闇が空を支配し始める時間。公園には相変わらず人気がなく、二人はあの時と同じ、噴水の前のベンチに腰掛けた。
「噴水ってさ、なんかわくわくするよな。子どもの頃はさ、近くの公園にこんな噴水はなくて……テレビとかで映った時、薫と一緒に食い入るように見てた覚えがある」
 噴き上がる水を見ながら、翔が遠くを見るような目つきで言った。その横顔は、どこか寂しげなようにも見えた。
「翔」
「ん? なんだ?」
「迷惑だと感じたことはありませんか。私とこうして、二人で話すことが」
 心の中で引っかかっていた疑問を口にすると、翔は弾けたように笑った。
「迷惑なんて思うわけねーじゃん。俺もトキヤと話すの楽しいぜ。よくよく考えたら、学園にいた時もこんなじっくり話したことはなかったし、新鮮っていうか」
「それは、確かにそうかもしれません」
「……それに」
「それに?」
「いや、なんでもない」
 言いかけて、翔は手を振って取り消した。トキヤもそれ以上言及することはなかった。
 沈黙が降りてきて、二人の間を支配した。冷たい空気が、剥き出しの顔の皮膚をちくちくと突き刺すのだけが感じられた。時間が止まったような気さえした。本当に時間が止まればいいのにと、トキヤは密かに願ってもいたのだが。
「……なあ、トキヤ」
 沈黙を破ったのは、翔の真剣な声だった。
「何ですか」
「キス、ってさ……誰にされても、同じように感じるもんなのかな」
 思いがけない場所から飛んできた質問に、トキヤの心臓が高鳴った。目を見開いたトキヤの反応に慌てたのか、翔がすぐに手を振る。
「や、悪い、今のなし。忘れてくれよ」
 だが、トキヤは思わずベンチの上に置かれた翔の手に、自分の手を重ねていた。今度は翔が驚く番だった。トキヤがぐっと顔を近づけると、それに応じて翔の身体が僅かに反った。
「……試してみますか」
「え……ト、トキヤ、冗談は、」
「冗談ではありません。本気です」
 一段と低い声が、トキヤの真剣さを告げる。翔はそれを汲み取ってくれたのか、躊躇うように震わせていた瞳を閉じて、トキヤを受け入れる体勢に入った。トキヤはもう一歩翔の領域に踏み込み、そして微かに唇を重ねた。
「っん……」
 微かに洩れる翔の声が、鼓膜を震わせる。
 トキヤの中に、初めてキスをした時の感触が蘇った。ぎこちなく重ねられた唇は、次第に艶やかに潤んだ。作法も分からず重ねながら、トキヤは相手の唇を求めている自分に気が付いた。もっとふれたい。もっと近づきたい。食むように動かされた音也の唇が、愛おしくて愛おしくてたまらなかったことを、思い出す。
 だが、今の唇の触れ合いがトキヤに教えるのは、強烈な違和感だった。
「っ……」
 トキヤが顔を離すと、翔もゆっくりと目を開けて、気まずそうに視線を逸らした。トキヤもおそらく、翔と同じ心境だった。
「……違う、んだな」
「どうやら、そのよう……ですね」
 二人は同時に同じことを悟り、照れたように笑った。トキヤはあの時の愛おしさが恋しくなった。どうしようもなく胸が苦しい。だがこの苦しさは、今まで感じていたものとは違う。
「帰りましょうか」
「ああ……」
 二人は立ち上がって、歩き出した。それぞれが帰るべき場所に向かって。


 どうにも上手くいかないと思ったのは、いつだったか――一度ぶち当たった壁のことを、トキヤは帰り道を歩きながら思い出していた。
 音也に告白されたことで、今まで以上に音也のことを意識するようになった。音也の最も近い場所にいることを許された関係でありながら、いざとなるとどう接すれば良いのか分からなくなっている自分がいた。二人きりの時は、もっと寄り添った方が良いのか。一緒に歩く時は、手を繋いだ方が良いのか。幸せそうな恋人達の、映画やドラマのワンシーンを思い出しながら、しかしいつまでも躊躇いが消えなかった。伸ばしてくれた音也の手を、さんざん迷った末握らなかったこともあった。
 その先を心の奥底で望む自分に気付きながらも、どうしても大きな羞恥の壁を越えることができない。音也はきっと恋人らしく振る舞う自分を期待しているだろうに、その期待に応えることもできない。それがいつしか、息苦しさに繋がっていったとしたら。
 全てが腑に落ち、トキヤはほうっと息を吐き出した。意を決して部屋の扉を開け、閉めてから、ぴんと背筋を伸ばした。
「ただいま」
 声が響き渡った途端、奥からばたばたと足音が聞こえた。廊下の向こうから顔を出したのは、音也だった。
「トキヤ」
 音也がじっと見つめながら、こちらに向かって歩いてくる。
「トキヤ、今日は逃げないで。俺の話、聞いて欲しいんだ」
「私も……あなたとは、一度話をしなければと思っていました」
「トキヤっ」
 我慢できなくなった子どものように、音也がトキヤに抱き付いてくる。
「俺、トキヤじゃなきゃだめなんだ。トキヤのこと知りたい、トキヤが何考えてるのか、知りたいんだ」
 何週間かぶりに感じる音也のぬくもりは、トキヤの心のわだかまりをあっという間に溶かしてしまった。心臓の鼓動が跳ね上がり、落ち着かなくなる。だがその感覚は、決して不快なものではない。
「トキヤが好きなんだよ。トキヤの全部を、俺のものにしたい。翔に渡したくない」
 トキヤは思わず鋭く息を呑み込んだ。まさか見られていたとは思わなかった。だが、トキヤの軟弱な心が揺らぎ、音也を誤解させてしまったことは確かだ。すみません、とトキヤは小さく謝った。
「私は……あなたの望むような人間にはなれないかもしれません、それでも?」
「俺が欲しいのは、今のトキヤなんだよ。ありのままのトキヤなんだよ」
 その答えに、どれほど安堵したか知れない。身体の強張りが緩み、片方の手がぎこちなく、音也の背に添えられた。
「私が何を考えていたか……笑わないで聞いてくれますか?」
「笑ったりなんか、しないよ。聞かせて」
「長くなると思いますが、いいですか?」
「いいよ。今日はずっとトキヤと喋りたい。トキヤの話、聞きたい」
 トキヤは涙が零れそうになるのを、必死でこらえた。
「ありがとう、ございます」
 向き合わなければ、何も解決しない。トキヤはそっと、逃げ続けていた先程までの自分に手を振って、別れを告げた。新しい自分になるために。音也の傍にいるのにふさわしい自分になるために。
 こらえきれなかった涙がひとつぶ、トキヤの頬を伝って落ちた。


ぐるぐる片思いを考えていた結果がこれ。すれ違ってお互いの気持ちが噛み合わないで悩んでいる音トキが好きです(2012.2.5)