めりめりという肉の割れる音がする。全速力で走ってきたばかりのように、二人ともすっかり息が上がっていた。音也が腰を押しつける度に、トキヤの口から苦悶の声が洩れる。
「う、っ……く……」
 トキヤの声が鋭い刃となって、音也の心を切りつける。切りつけられた心は血を流し、痛みを感じすぎてすっかり痛覚を失ってしまった頃、音也はようやく悟った。
 ああ、やっぱり俺とトキヤは愛し合ってはいけなかったんだ。愛し合うふうには、きっとできていないのだ。この身体は。
 胸から下げたロザリオが揺れて、罪深き男の胸を突き刺した。
「く、っう……」
「あぁっ――んっ、っあ……」
 奥深くまで埋め込んでしまったせいで、音也のペニスが抜けなくなってしまったことに気付く。まるで倫理に背いた罪人を磔にしているかのようだった。磔にされるべきなのは、トキヤではなく音也なのに。
「ごめん、トキヤ、ごめん」
 音也は前屈みになっているトキヤの背に、そっと頬を寄せた。この手入れの行き届いた滑らかな肌を、なるべく優しく撫でてやれば、少しでも苦痛は治まるだろうか。そう思って、何度も何度も撫でてやった。トキヤは荒く息を吐くばかりで、何も言わない。後ろから覆い被さっているせいで、表情も窺えない。トキヤはきっと怒っているに違いないと思った。音也が勉強を教えて欲しいと言った時のように。あるいは、夕飯をつまみ食いしてしまった時のように。あるいは、昼休み学園の池の近くで不意打ちのキスをしてしまった時のように。
「トキヤ……ごめん」
 それでも音也はトキヤと離れられないのだ。トキヤを苦痛にさらしてでも繋がっていたいのだ。こんな時だというのに、音也のペニスがトキヤの中でますます大きくなった。限界が近い。出してしまえばトキヤは苦痛から解放されるのだろうが、また一つ、大切なものを失わせてしまう。
「ねえトキヤ、ナカに出しても……いい?」
 荒い吐息に邪魔されながらそう尋ねると、トキヤが明らかに肩を震わせた。見えなかった顔が、軽くこちらを向く。表情を見るのが怖くて、音也は俯いてじっと結合部に視線を落としていた。
「……っどうせ、はぁっ、そうする……つもり、だったんでしょう」
 トキヤも規則的に吐き出される息に阻まれながら、そう言った。トキヤはすっかり諦めてしまっている――音也には、そう聞こえた。望まぬことを強制して、音也のエゴでトキヤの矜持は完膚無きまでに粉砕される。その一連の流れを、諦観してしまっているかのように。
「ごめんトキヤ、ごめん、ごめん」
 音也の劣情が膨れ上がる。こんな時でもトキヤの背を流れる汗が、苦痛に喘ぐ声が、音也を締め付ける肉が、とてつもなく愛おしいものに感じられた。
 愛おしいものを手に入れたいと思った。ただそれだけのことなのに、こんなにも犠牲を払わなくてはならない。
「はぁっ、はぁ……うっ、く……!」
 トキヤの中で、何かが弾ける音がした。どろりとした熱い塊がトキヤの肉と肉の間を滑っていくのを感じながら、音也は呟いた。
「――すきだよ、トキヤ」


「――トくん、オトくん!」
 自分を呼ぶ声が聞こえて、音也はようやく現実に引き戻された。教室中の視線が音也に集中し、教壇に立つ林檎はぷくりと頬を膨らませていた。
「はっ、はい!」
「オトくん、話聞いてた? さあ、教科書65ページ、二番目の段落から読んで」
「あ――えっと、」
 音也は慌てて、机の上の教科書をめくった。林檎に指定されたページに辿り着いた時、音也は寸分のずれもなく文字に沿ってきっちりと引かれた赤い下線を見つけた。トキヤのものだ。そういえばこの教科書は、いつだったかトキヤに借りたまま返していなかったのだった。
 椅子を引いて、席を立つ。
「えーと……『業界では、挨拶はもちろんですが――』」
 トキヤの引いた赤線が、音也の視線を自然に導く。その赤線が引かれているところは不思議とすらすら読めるのに、時折途切れていると、それに合わせて言葉も詰まった。どうにか自分の担当分を読み終えて、音也は再び腰を下ろした。
「はい、いいわ。これからは話をちゃんと聞いておくこと。いいわねオトくん?」
「はーい」
 返事をすると、林檎は納得したように頷いて、背を向けて板書をし始めた。
 他の生徒達のシャーペンがかりかりと動く音を聞きながら、音也は先程読んでいた教科書に視線を落としていた。トキヤの印を、何の意味もなく指でなぞる。それすらも愛おしく感じてしまう自分は、きっとおかしいのだろうと思った。どうかしている。自分はどうかしているのだ、あの夜から。
 トキヤとはいつしか惹かれ合い、互いのキスを拒まない関係になっていた。けれど不思議と、その先、は考えたことがなかった。音也とて、健全な思春期の男子だ。興味がなかったわけではないけれど、不思議とトキヤとはそういう想像が湧かなかったのだ。
 あの日は珍しくトキヤも早く寮に帰ってきていて、夜にも何も予定がないというので、部屋で一緒に過ごしていた。夕飯を食べた後、二人でベッドに座ってテレビを見た。やかましいバラエティや陳腐なドラマはやめてくれというトキヤの要望を聞くと、ヨーロッパの美術館の紹介をする至って真面目な番組しか残らず、仕方なくそれを二人で見た。
 音也にはまるで価値の分からない絵画や彫刻が紹介されていく中、やがて裸体の女性を描いた絵画が画面全体に映し出された。それは確かに裸体なのだが、自身の肉欲が盛り上がる感覚はまるでない。そのはずなのに、音也は隣のトキヤが喉を鳴らすのが聞こえた。ふと下半身に視線をやると、ズボンの下が張り詰めていることに気が付いて、音也は目を丸くした。と同時に、何か訳の分からない嫉妬のような感情が、ちりちりと心の中でくすぶった。
「トキヤ」
 声を掛けると、あの常に冷静なトキヤが何故か大きく肩を震わせた。
「興奮してるの?」
「……わ、私は」
 トキヤの声に余裕がない。何故だろうと疑問を感じると同時に、トキヤの股間に強く触れる。
「だってここ、こんなになってる」
「音也……やめなさい、何を」
 トキヤの挙動からは、全体的に余裕が失われていた。音也の心で怒りのような感情が一瞬燃え上がり、悲しみの豪雨があっという間に鎮火させてしまった。張り詰めた股間に緩やかに手を置いて、トキヤの唇を甘噛みした。いつもなら心が浮き上がりそうになるくらい幸せな気持ちになれるのに、今はただただ悲しみしか残らない。
「俺以外のものに興奮したの?」
 八つ当たりのようなことを言っているという自覚はあった。それでも聞かずにはいられなかった。
「俺だけ見て、俺のこと見て興奮してよ」
 トキヤに強制する自分はまるでわがままな子どもそのものだ、ということも――。
 軽く抵抗する素振りを見せていたトキヤの瞳が、やがて緩やかに瞬いた。瞳の色は濡れていた。トキヤをそのまま、ベッドに押し倒した。キスの雨を降らせながら、トキヤのシャツのボタンを外していく。ズボンの中の怒張を解き放ち、そのまま口に含む。滲み出てくる透明な汁を啜り、先端を舌でこねくり回し、血管の浮き出た筋を唇で扱いた。
「っう、音也……や、やめ――」
 音也が刺激を与える度、徐々に硬くなっていくのが分かった。トキヤの吐息が緩やかに流れてきて、音也の身体を熱くする。
「っはぁ、ダメです、音也、離れ――、っくっ!」
 トキヤはあっさりと達してしまい、咥えたままだった音也の口の中にしこたま熱い塊を注ぎ込んだ。音也は喉を必死に動かしてそれを飲み込み、自分のものにした。身体を起こし、唇の端から垂れた精液を拭うと、トキヤは気まずそうに音也から視線を逸らした。
「俺のこと見てって言ったでしょ」
 音也はトキヤの頬を両手で挟み、自分の方を向けさせた。トキヤは何か言いたそうにしていたが、音也が口元に付いていたトキヤの残り滓を舌で舐め取ると、ごくん、と喉を鳴らした。まるで砂漠で喉を涸らした旅人のように。
「トキヤ、喉が渇いたの? ――俺の、飲む?」
 何故そんなことを聞いてしまったのか、一瞬自分でもよく分からなかった。それまで、トキヤとこんなことをする想像すらしていなかったというのに、何故こんなにも大胆になっているのか、自分が分からなかった。
 その途端、トキヤの目が大きく見開かれた。あからさまに拒絶反応を示される前に、音也は手を振ってうそうそ、と笑った。
「でもさ、俺、トキヤと繋がってみたい――ダメ?」
 またしても表層に上ったことのなかった感情が、口をついて出る。トキヤはそれも驚き戸惑っていたようだが、やがてこくりと頷いた。
 その時はまだ、諦めの表情ではなかった。そのはずだった。


 午前中は晴れていたというのに、午後から急に雨が降り出した。
 放課後、いつも一緒にいる真斗と那月は、それぞれのパートナーと練習をするからと、レコーディングルームのある棟へと行ってしまった。音也には今日、練習の予定はない。一旦寮に帰ろうかと、教室棟から外に出たところで、少し離れた場所でトキヤが黒い傘を差して立っていることに気が付いた。
 トキヤは音也に気付くと、そのまま静かに歩いてきた。音也は無意識に唾を呑み込んでいた。トキヤが立ち止まったところで、音也は思わず身体を一歩分引いてしまう。トキヤが怪訝そうに眉根を寄せた。
「帰らないのですか? 今日は予定がないのでしょう」
「え!? あ、ああ、うん……そうなんだけど」
「傘を持ってないだろうと思ったので」
 そう言って、トキヤは黒い傘の中に自分の身体を入れたままにしつつ、なるべく音也の側に寄せた。入れ、と言っているのは明白だった。
 音也はその場から動けなかった。まるで磔になったかのようだった。固まっていると、トキヤがますます怪訝そうに、眉間に皺を寄せた。
「どうして動かないんです? 相合い傘であることを気にしているとは、あなたらしくもない」
「え?」
 どうやらトキヤは、相合い傘になるから音也は遠慮しているのだ、と解釈したようだ。トキヤの口から溜息が洩れた。
「相合い傘だからといって、男同士なら肩を抱いたりしない限りは不審がる人間はいません。私たちはただ傘を共有しているだけ。やましいことなど何もないからと、堂々としていればいい」
 何気ないはずの言葉が、何故か音也の心に突き刺さった。トキヤに拒絶されてしまったかのような感覚に陥る。自分たちはもう既に、世間的には十分やましい関係になってしまっているというのに。
「いいよ、トキヤ。俺、走って帰るから……トキヤが使いなよ」
 そう言って身体を翻そうとした途端、トキヤの手が伸びてきて、音也の腕をぐいと掴んだ。その力はあまりに強く、音也は驚いて目を瞠った。トキヤはそのまま音也の身体を無理矢理傘の中に入れてしまうと、無言で歩き始めた。
 濡れてはかなわないと、音也もそのまま歩く羽目になる。音也はそっとトキヤの横顔を窺った。トキヤの表情はいつものように冷静で、隙が一切見られない。
「トキヤ、」
「音也。一体私に何を遠慮しているのですか?」
「……え?」
 トキヤに遮られて、音也は思わず言葉に詰まった。トキヤは歩を進めながら、口を開く。
「最近のあなたはおかしい。私と目が合うと逸らしたり、必要以上に私に近づかないようにしていたり。私と話す必要がある時は、一段と声を高くしたり」
 音也の心臓が跳ね上がる。やはり気付かれていたのか。
「気にしているんですか? あの夜のことを」
 図星を突かれて、音也は口ごもった。トキヤはちらりとこちらを一瞥した後、再び前に視線を向けた。
「あの程度のことで、私が怒り狂うとでも?」
「あ、あの程度のことって――!」
 音也は思わず声を荒げた。
「俺はトキヤのプライドを粉々にしたんだよ! トキヤが痛がってるのに、無理矢理ナカに出して、本当は俺たち愛し合っちゃいけなかったのに、それでも繋がってたくて、トキヤに無理させて、」
「――本当に、他人の心に鈍感な人ですね」
 トキヤの深い溜息が洩れる。その頬が、微かに赤く染まったような気がした。
「それを私も望んでいたとしたら――それでも、あなたは気に病むのですか」
 音也はあんぐりと口を開けた。予想外の答えだった。
「トキヤ……本当に?」
「何度も言わせないでください。これでも結構勇気の要ることなんですよ、私にとっては」
 トキヤの足が、心なしか速くなる。それに慌ててついていきながら、音也は何度も確認した。
「本当に、本当に? トキヤも、俺と同じこと思ってくれてたの?」
「ええ」
「俺と繋がりたいって? こんな、繋がるためにできてない身体なのに」
「それでも繋がりたいと思うなら、ああするしかないでしょう」
「諦めてたんじゃないの? どうせ、俺に言っても仕方がない、とか」
「馬鹿にしないでください」
 トキヤの声が一段と冷たくなった。足を止めて至近距離で睨み付けられて、音也は思わず震え上がる。
「私だって、本気になればあなたごとき振り払えます」
 トキヤが音也の心臓に、人差し指を突き付ける。
「何度も言わせないでくださいと言ったでしょう。人の言うことを聞かない人ですね、本当に」
「だって、俺だって不安で……トキヤに嫌われたらどうしようって、ずっと思ってたんだよ」
「あなたにそんなことを思われるなんて、調子が狂う。あなたはあなたの意のまま行動すればいいんです、いつものように」
 半ば自棄のように放たれた言葉に、音也は安堵の溜息を洩らした。
 傘の柄に手を伸ばし、トキヤの手の上から握り締める。そのまま傘を後ろに傾けて、前に誰もいないことを確認してから、トキヤの唇にそっとキスをした。不意打ちにトキヤは驚いた後、咎めるように眉間に皺を寄せた。
「誰か見ていたらどうするんですか」
「傘で隠したから、大丈夫」
「あなたという人は」
 唇に残ったトキヤの熱が、全身に素早く回っていく。不意に視線を下に向けたトキヤがはっと息を呑んだのに気付いて、音也はいたずらをしたばかりの子どものようにえへへ、と笑った。トキヤの熱は音也の一点に集中し、早く解放されたいとばかりに暴れていた。
「ね、トキヤ……したい、俺」
「仕方のない人ですね」
 トキヤは深く溜息をついた後、明後日の方向を見ながら他人事のように言う。
「音也、私はどうやら喉が渇いているようです」
「……よかった」
 トキヤの吐き出した小さな溜息に大きな幸福が閉じ込められているのが分かって、音也は安堵の声を洩らした。


音トキ初えっち。トキヤに対して躊躇いを感じている音也が好きです(2012.1.22)