かしゃん。
 金属音がして、日焼けした手首に手錠が嵌められる。言われるままに手を前に出していた音也は、きょとんとしてトキヤを見上げた。
「なに、これ? 刑事ごっこ?」
 冗談のつもりで笑いかけた音也の表情から、次第に笑みが消えていく。トキヤは何も言わなかった。夜の海のような哀しみを湛えた瞳で、音也をじっと見つめていた。


 ここのところ胸の内でちりちりとくすぶる感情の正体に、トキヤは最初から気付いていた。嫉妬だ。特に恋愛におけるそれは醜いばかりだと毛嫌いしていた感情だというのに、よもや自分が抱くことになろうとは思ってもみなかった。
 まるでそこに最初からいたかのような顔で、するりと自分の心の中に入り込んできた男。一十木音也は、いつだって自分に笑顔を向けていた。けれどそれは、自分に対してだけではなかった。自分の周りにいるあらゆる人間に対して、屈託のない笑みを向ける男だった。最初はそれを鬱陶しいとばかり思っていたのに、独占したいと思うようになったのは、一体いつからだったのだろう。
 音也はいつも人々の中心で朗らかに笑っていた。そんな姿を遠目で見る度、トキヤの心はざわめいた。カフェテリアで同じAクラスの者達と昼食を食べている時。バラエティや演劇のグループ実習の時。休み時間にグラウンドでサッカーをしている時。どの瞬間も、音也は生き生きと輝いていた。
 トキヤにとって、その輝きはいつだって眩しいものだった。最初は、あんなふうに呑気に笑う音也を馬鹿にしながら、心の奥では羨ましいと思っていた。音也との距離が縮まった後は、その一挙一動に心が疼いて仕方なくなった。
 いつだって音也はトキヤの心を捉えて離さない。目を逸らしたくてたまらないのに、いつの間にか視界の端に映っていて、強烈な残像をトキヤの脳裏に残していくのだ。目を閉じても蘇る音也の残像に、トキヤは静かに溜息をついて、自分の瞼の中に閉じ込めようとした。そんなことをしても独り占めなんてできるわけがないと知っていながら。


「俺、八方美人なところがあって」
 ある日部屋で夕食を食べていると、音也が突然そんなことを言い出した。トキヤは掴みかけた冷や奴が箸の上を滑って落ちていくのを感じながら、まじまじと音也を見つめた。
「嫌われるのが怖いんだ。だからいっつも笑って、明るい声で話すようにしてる。けど、それでもしつこかったかなって、反省したりすることもあってさ」
 音也は自嘲気味に笑っていた。トキヤは思わず戸惑いの声を洩らし、目を見開いた。音也がそんなことを考えていたなんて、思いもしなかったのだ。いつも何も考えていないと思っていた。トキヤから見れば随分図々しいと思える音也の言動は全ての素であって、彼は天然そのものなのだろうと。
 そこで疑問が生じた。密かに他人の顔色を窺う音也が、何故拒絶しようとする自分に対していつまでもその図々しい言動をやめようとしなかったのだろうか。
「嘘でしょう」
 トキヤが一笑に付そうとすると、ひどいなあ、と音也が笑って肉じゃがの牛肉を口に放り込んだ。
「トキヤ、俺がなーんにも考えてない、単細胞だって思ってるでしょ?」
「その通りではないんですか?」
「そりゃ、あんまり難しいことごちゃごちゃ考えるのは苦手だけど、俺だっていっつも考えなしに動いてるわけじゃないよ」
「信じられませんね」
 トキヤは涼しい顔で、先程すくいそこねた冷や奴を箸で摘んでつるりと口の中へ滑らせた。
「ならば何故、私に対していつも図々しい態度を取り続けていたんです? 私が嫌がっていることは、火を見るよりも明らかだったでしょうに」
 音也は大きなじゃがいもの塊を箸の先でほぐしながら、無邪気に笑った。
「だって、トキヤだから」
「は?」
 トキヤが箸を止めて怪訝そうな声を出すと、音也はほぐしたばかりのじゃがいもを器用に摘みながら言った。
「トキヤだったら、俺のこと、ちゃんと受け止めてくれる気がしたから」
 トキヤは面食らってまじまじと音也を見つめた。音也はそのままじゃがいもを口の中に放り込み、おいしい、と言ってにこにこと笑っている。
「トキヤ、うまいよこれ! ちゃんと中まで味が染み込んでる」
「それは……どうも」
 料理を褒められるのは素直に嬉しいが、そんなことは今重要ではない。
「どういう意味です? 私はあなたが思うほど、寛容な人間ではありませんし……あなたの言動を全て受け止めていたつもりはないのですが」
 音也はご飯をかきこんで咀嚼し、呑み込んでから口を開いた。
「トキヤみたいなタイプの子にはね、遠慮しちゃダメなんだよ」
「何ですって?」
 ぴくり、とトキヤの眉が動く。だが音也が意に介した様子はなく、笑顔のまま続けた。
「周りの子とあんまり関わりたがらない子はね、だからって腫れ物に触るような扱いしてたら、余計にダメなんだよ。そんなことをしたら、もっともっと周りから孤立しちゃうから」
 トキヤは思わず顔をしかめた。自分をそう言われているのは不愉快だったが、一方で否定できないのも確かだった。
「トキヤと初めて会った時、トキヤはそういうタイプなんだろうなって思ったから。そういう子はさ、いくら表面上は嫌がる素振り見せてても、本当は構ってもらえるのが嬉しいんだよ」
「……私がそういう人間だと? とんだ誤解ですね」
「そう? 間違ってないと思うんだけどな。施設に来る子って、最初はそういう子多いんだけど、最後はいっつも俺に心を開いてくれてたけどな。音也兄ちゃんが声かけてくれるのが嬉しかったー、って」
「それはその子たちのケースであって、私の場合にも当てはまるとは限らないでしょう」
 努めて冷めた声を出しながら、トキヤはそっと視線を横に逸らしていた。音也の言葉に、思い当たる節がほんの少しあったからだ。
 そうやって音也は、自分の心に入り込んできた。自分の領域に断りもなく踏み込まれたという不快感は、あっという間に溶かされて、跡形もなくなってしまった。いつしか音也の相手をすることが、嫌ではなくなっていた――
「でもさ、なんだかんだで俺と一緒にいてくれるんだから、トキヤは俺のこと受け止めてくれてるってことだよね」
 心臓が高く跳ねる。トキヤは平静を装って、再び冷や奴を口の中に入れて呑み込んだ。
「自惚れもいい加減にしなさい。あまり調子に乗っていると」
「乗っていると?」
「そのうち愛想を尽かしますよ」
 強い口調で言ったつもりなのに、音也が傷ついた様子は見られない。それどころかトキヤの顔をまじまじと見つめていたかと思うと、自分の口元の辺りをぽんぽんと指先で叩く。
「トキヤ。ここにご飯粒ついてる」
「え?」
 そんな感触塵ほども感じられないのに――トキヤが疑問を抱いたその時、音也は立ち上がって、身体を伸ばした。
「取ったげる」
「っ――!」
 くちゅり。
 唾液の擦れ合う音がして、唇の動きを封じられた。自分の作った肉じゃがの匂いが漂った。心臓が一段と高い場所に跳ね上がって、もうそのまま帰ってこないような感覚がした。
 音也の舌がトキヤの唇をなぞり、中へと侵入しようとする。トキヤがそれを拒む動きを見せると、音也はあっさり引き下がって、顔を離した。
 トキヤは非難めいた視線を向けた。
「何を、するんですか」
「ご飯粒取ってあげたんだよ。っていうのは嘘、俺がキスしたかっただけ」
 ぺろりと舌を出す音也を怒鳴りつけたい衝動に駆られたが、唇に残った音也の感触がその衝動を鎮めてしまった。
 触れ合ったのは初めてではないというのに、こんなにも動悸が激しくなる自分はどうかしている。トキヤはどうしようもない病に冒されていることを自覚した。そしてその病は、音也といる限り一生治らないものだろう、ということも。


 音也の八方美人は、トキヤと特別な関係になった後も続いていた。
 八方美人というと聞こえは悪いが要するに皆に愛想がいいだけで、そのこと自体は音也の才能の一つだと思うのだが、それだけでは割り切れない思いがトキヤの中には渦巻いていた。
 八方美人の話を聞いたこともあって、無理に皆に笑顔を振りまく必要などないのに、とどこかで思ってしまう自分がいる。アイドルという職に就く以上、皆に笑顔を振りまくのは当然のことだというのに、一ノ瀬トキヤ個人は、それを許容できていない。そんな自分の狭量さを、トキヤは激しく嫌悪した。
 通行の邪魔にならないようにカフェテリアの柱にもたれかかりながら、ゆっくりと視線を向ける。ちりちりとただれていく思いを呑み込みながら、その光景を目に焼き付けようとした。
「そうですよねぇ! 僕はそれも可愛いなと思いますよぉ」
「那月のセンスが分かんないよ……俺は断然こっちの方がいいと思うけど!」
「一十木、お前もその辺にしておけ。収集がつかなくなる」
「へへ、ごめんマサ」
「なあ音也、後でみんなでサッカーやる約束してんだけどさ、お前も行くだろ?」
「行く行く! また俺と翔、同じチーム?」
 Aクラスの仲間の輪にいる時の音也は、どうしてあんなにも生き生きしているのだろうと思う。那月の天然発言に突っ込み、自分もおどけたことを言っては真斗にたしなめられて舌を出し、たまに一緒に昼食を食べている翔とは、昼休みの予定について楽しそうに話している。
 あの輪に混ざりたいというわけではない。ただあの場所から音也を連れ出して、音也の笑顔を、朗らかな声を、自分のものにしておきたい――そこまで考えて、トキヤは自分の独占欲の強さに驚いた。こんな醜い自分は自分ではない。トキヤの高すぎるプライドは、醜い感情を抱いた自身を、決して許しはしなかった。
 トキヤは無理矢理顔を背け、その場を後にした。早くここから立ち去りたいと願うのに、足首を拘束されて鎖で繋がれてしまったかのように、足が思うように進まない。
 トキヤは忌々しげに視線を落とした。そこに見えない鎖が浮かび上がったような気がして、トキヤの背筋に悪寒が走る。
 拳をきつく握り締めると、トキヤはその場から逃れようと、先程よりも必死に足を動かした。


「……おや」
 手錠を見つけたのは偶然だった。どういうわけかHAYATO関連の私物の置いてあるダンボール箱にしまわれていたのだ。以前バラエティで使ったおもちゃだったのは覚えているが、ここに何故置いてあるのかは全く覚えがない。だがそんなことはどうでも良かった。
 普段ならくだらない玩具と一蹴して見向きもしないのに、トキヤはそれを手に取っていた。金属が擦れ合う音が響く。おもちゃといっても結構しっかりした作りで、鍵がなければ開かないようにもなっている。鍵は幸いすぐ見つけることができ、トキヤはそれをズボンのポケットにしまいこんだ。
 手錠を自分の机の上に置き、夕飯の支度をしていると、音也が帰ってきた。今日は肉じゃがだね、と嬉しそうに笑った音也の横顔に胸をきゅっと摘まれたような気分になる。料理を盛った食器をテーブルに並べ、いつものように向かい合うと、二人は夕飯を食べ始めた。
 偶然にも、あの時と同じメニューだったことに、トキヤは気付かなかった。音也は楽しそうに箸でじゃがいもをほぐし、口に入れて咀嚼する。
「うん、おいしい。中に味がしみてるね」
「それは……よかった」
 小さく微笑んだトキヤの表情も、音也は見逃さなかったようだった。
 食べている最中に、ふと机の上の手錠が目に入った。その途端、手錠から目が離せなくなった。まるで何かに吸い寄せられるように、トキヤは立ち上がっていた。机の上から手錠をさらうように取ると、音也と向き直る。音也は箸を持ったままトキヤを見上げ、怪訝そうに首を傾げていた。
「どしたの? それ、なに?」
「音也。両手を出してみてください」
「え? こう?」
 疑うこともなくあっさりと出された手。トキヤは鍵を入れて手錠を開けると、それをそのまま音也の腕に押しつけた。
 かしゃん。
 金属音がして、日焼けした手首に手錠が嵌められる。言われるままに手を前に出していた音也は、きょとんとしてトキヤを見上げた。
「なに、これ? 刑事ごっこ?」
 冗談のつもりで笑いかけた音也の表情から、次第に笑みが消えていく。トキヤは何も言わなかった。夜の海のような哀しみを湛えた瞳で、音也をじっと見つめていた。
「トキヤ……どうしたの」
 トキヤの胸から、堰を切ったように様々な感情が溢れ出す。こんなことは初めてだった。今にも泣きそうになって、それだけはなるまいと目に力を入れる。それでも感情は濁流のように胸を、喉を押し広げ、外へと出て行こうとしていた。
「……私は」
 喉がひくりと鳴る。
「愛し方を知らないんです。人の」
 自分でも意外な言葉が、そこから飛び出す。音也が一瞬だけ目を見開いた気がした。
「今の私は正常ではないんです、でも、あなたをこうしておかなければ、気が済まない」
 真剣な顔で聞いていた音也は、少しだけまなじりを下げた。
「俺にどうして欲しいの? 言って、トキヤ」
「私は、あなたに……」
 唾を呑み込む。言うのを躊躇った。けれどそのままでは進めない。意を決して口を開く。
「私のもので、いてほしい――私だけの、もので」
 独占欲を吐き出すと、少し楽になると同時に自己嫌悪の波が襲い来る。音也の反応が怖く、トキヤは思わず俯いた。何より、自身の醜い願望を曝してしまったのが怖かった。こんな自分を他人に知られたくなど、ないのに。
 おそるおそる顔を上げてみると、音也は驚いたことに微笑んでいた。それも心底嬉しそうに。
「俺、トキヤに嫉妬されちゃったんだ。なんか嬉しい」
 嫉妬、という言葉に、胸の奥がちりちりとくすぶる。そんな感情すらも消してしまうかのように、音也は嬉しそうに両腕を差し出した。
「俺はいつだってトキヤのものだよ。トキヤだけのもの」
 それでも、まだ安堵できない自分がいた。
「……誓えますか」
 震える声で尋ねると、音也は自信たっぷりに頷いた。
「もちろん。トキヤ、キスして……いい?」
 トキヤが無言で頷くと、音也はそのまま立ち上がって手を下にし、顔だけ近づけて、器用にトキヤの唇を奪った。
 唾液の擦れ合う音と共に、唇が軟体動物のように動く。すぼめてきゅっと揉みしだいた後、舌で舐め、その熱を分け与えるかのように歯列をなぞる。今度は逃げなかった。音也の舌に自分を絡め、熱を分け合った。熱くて熱くてたまらない。だがその熱が心地よかった。離れた時は唇が寂しくて、今以上の熱を求めているのが自分でも分かった。
 音也はへへ、と笑う。
「最近トキヤがちょっと元気なかったの、このせいだったんだね」
「音也、気付いて……?」
 トキヤがはっとして尋ね返すと、音也は満面の笑みを見せた。
「俺のこと、寂しそうな目で見てるなって思ってたから。でもさ、大丈夫だよ、トキヤ。甘えていいんだよ。寂しかったら俺に擦り寄ってくれていいんだよ」
 鎖でがんじがらめにされていた心が、少しずつ解き放たれていくような感覚がした。
「それにね。嫉妬するのは、普通だよ。俺だって嫉妬してた」
「あなたが?」
「そ」
 自分は音也ほど、普段から他人と親しく話すことはない。それなのに、音也は一体何に嫉妬していたというのだろうか。その問いを発する前に、音也が答えた。
「トキヤを夢中にさせてる課題とか。歌とか。あと、いったんかじりついたら離れないその机とか。俺、トキヤの気を引きたくて、わざとしつこく話し掛けてる時だってあったし」
 トキヤは目を見開いた。自分にしつこく話し掛け続けていた理由はもう既にばらされたものだと思っていたが、まさかそんなことを考えていたなんて思いもしなかった。
 それから音也は腕を上げて、トキヤに手錠を見せた。
「これ、片方だけ解くのって、できる?」
 音也が何を考えているか、薄々分かった気がした。トキヤは無言で頷いて、鍵穴に鍵を差し込んだ。軽く音がして、音也の片方の腕が解放される。音也はすかさずその輪を持って、トキヤの手首に押し当てた。
 かしゃん。
 普通ならば絶望に似た響きを持つはずの音が、今はただ幸せを告げる音に聞こえた。音也はへへ、と笑いかけてくれる。今だけはこの笑顔は自分のものだ。自分だけのものだ。
 二人の嫉妬の鎖は、お互いを縛り上げて一つにする。けれどその束縛は、決して不快なものではないのだ。むしろ、この感覚は――
 指と指が絡まって、束縛がより強くなる。言い表せぬ高揚を感じて、トキヤも自然と頬を緩めていた。


今回はちょっと違う感じの雰囲気の二人。八方美人音也と独占欲強いトキヤ萌えが急に来たので(2011.12.20)