これが初めてではないとはいえ、入るまでにはそれなりの勇気を要する――トキヤはごくりと唾を呑み込み、椅子を傾けて、ベッドで寝転んで漫画を読んでいる音也を盗み見た。
 やがて音也が視線に気付いて、笑いながら身体を起こす。トキヤの膝の上で握った拳が震えた。一見鈍いように見える音也だが、トキヤからのサインは不思議と見逃すことがない。
「おいで、HAYATO」
 音也が優しい声音で言いながら、腕を大きく広げた。トキヤはふにゃり、と満面の笑みを閃かせる。
「音也くんっ、だーいすきっ」
 椅子から立ち上がり、音也の胸の中へと飛び込んだ。身体を焼くような羞恥に襲われるのは一瞬のこと。HAYATOになりきってしまえば、そこに一ノ瀬トキヤとしての羞恥は存在しなくなる。
「よしよし。今日、疲れた? 仕事、遅くまで大変だったね」
「うんっ。でもね、音也くんが頭撫でてくれるから、ボクすっごく嬉しい」
「そっか。良かった」
 音也は笑って、ずっとトキヤの頭を撫でてくれる。トキヤはHAYATOになりきって、音也の胸に顔を埋めるだけでいい。それだけで、一日の疲れが癒されていく。
 意外にも、音也の包容力はトキヤに対して凄まじい威力を発揮した。彼は施設育ちで、自分より幼い子たちのお守りをする機会も多く、他人を甘えさせるのは得意なのだという。最初は半信半疑で聞いていたが、こうして彼に甘えるようになってからは、それが事実なのだと実感するようになった。
 最初に提案してきたのは音也の方だった。ひょんなことからHAYATOの正体がトキヤだと知った音也は、甘える時はHAYATOになればいいんじゃない、などと言い出したのだ。プライドの高さゆえ、恋人になった後も殻を破って音也に甘えることのできなかったトキヤに対する、思いがけない提案だった。
 トキヤははじめ嫌がっていたが、一度やってみると、素直に音也に甘えられる自分に気付いた。そしてこの行為に、自分がこの上なく癒されているということにも。
 以来、音也に甘えたいと思う時は、視線のサインを送ることにしている。それに気付いて両腕を広げた音也の発する「おいで、HAYATO」という言葉が、この時間の始まりの合図になるのだ。
 普段、仕事でHAYATOになりきるのは、相当な精神力を要する。だが音也に甘える時は、この方がむしろ心が軽くなった。音也に甘えることで発生する羞恥は全て、HAYATOに押しつけてしまえばいい。音也にどれだけ擦り寄って甘えようとも、あれはHAYATOだから、で全てが解決してしまうからだ。
「トキ……HAYATOは可愛いね。俺、君に甘えてもらうの、超好き」
「ボクも音也くんに甘えるの、だいだい、だーいすきっ」
 一段と高い声で言いながら頬を擦りつけると、音也はトキヤをぎゅっと抱き締めてくれた。彼の全身から伝わる温もりが心地よくて、ずっとここに浸っていたいという気分にすらなる。
 もう少しだけ。トキヤは心の中で呟いて、HAYATOのまま、その温もりに身体を預けた。そのもう少しだけ、が、いつの間にか一時間経っていたことも、ざらではなかった。


 ある日の深夜。仕事を終えてタクシーで早乙女学園に戻ってきたトキヤの顔は、憔悴していた。
 ややふらつきながら、寮までの暗い道を歩く。何度か石畳につまずきそうになりながら、トキヤはようやく男子寮の入り口に辿り着いた。
 今日はほぼ一日中、HAYATOの仕事が入っていた。朝のおはやっほーニュースに始まり、午前中は雑誌のインタビューと撮影、午後からはドラマとバラエティの収録。一旦仕事に向かうと、トキヤが心休まる時間は一分たりともない。楽屋でも常にHAYATOで有り続けなければならないからだ。安心して素の自分を見せられるのはマネージャー相手の時だけだが、一人きり、もしくは彼と二人きりになれる時間など、そう長くはない。
 そのせいで、今のトキヤは心も体も疲弊していた。早く部屋に帰りたい。その一心で足を動かし、階段を上がって、自分の部屋に辿り着く。鍵を差し込んで回そうとすると、手応えがないことに気付いた。寝る時には必ず戸締まりをするように言ってあるから、音也はまだ起きているのだろうか――そう思うと、途端に音也が恋しくなった。
 力なく扉を開けると、ベッドに寝転んで雑誌を読んでいた音也が顔を上げた。おかえり、と言いかけた音也の表情が、トキヤを見て一瞬で変わる。
「トキヤ、どうしたの!? 大丈夫?」
「ええ……」
 ベッドから飛び降り駆け寄ってくる音也に、トキヤは力なく相槌を打ち、そのまま身体をもたせかけた。
 音也は少し驚きながらも、腕を回して受け止めてくれる。普段なら、こんなふうに音也にもたれることなどないけれど、今はなりふり構ってなどいられなかった。そのくらい、トキヤは疲弊していた。
 音也がそのまま肩を抱き、ゆっくりと自分のベッドまで誘導してくれる。
「……すみません」
「平気だよ」
 力強い声が返ってきて、トキヤは安堵を覚えた。
 一緒にトキヤのベッドに腰掛けた直後、トキヤは音也の胸に顔を埋めた。
「トキヤ?」
 驚いた声が返ってくる。まだ合図も何もないまま、トキヤが甘える体勢を取ったからだろう。焼け付くような羞恥を感じながらも、しかし今のトキヤにはHAYATOになりきる元気は残されていなかった。息を吐きながら、断片的に言葉を発する。
「たまには……このままで、いさせて、ください」
 それが精一杯の言葉だった。
 すぐに、音也の優しい手がトキヤの頭を撫でる。いつものように、何度も何度も。それが心地よく、トキヤは思わずうっとりと目を閉じた。
「トキヤがトキヤのままこうしてくれて、俺、すごく嬉しい」
 トキヤの背に回したもう一方の音也の腕に、力がこもる。
「俺の前では、そのままでいてくれていいんだよ。素直なトキヤのままで。無理にHAYATOになんてならなくたって、いい。何にも恥ずかしいことなんてないんだから」
 音也の強い言葉で、心のわだかまりが解消されていくような気がした。全身を襲っていた羞恥が、嘘のように消えていく。
 ありのままの自分で歌うために、トキヤは早乙女学園に来た。それなのに、そこで出来た大切な人の前ですら自分を偽っていた。音也はそれでもいいと言ってくれたけれど、本当は自分がどうすべきだったのか、ようやく分かったような気がした。
「……ありがとう、ございます」
「いいよ、お礼なんて。トキヤ、遠慮しないで。もっと俺の方に来て」
 トキヤは素直にその言葉に従った。音也と身体を密着させ、全身で音也を感じる。一体となって、蕩けていくような感覚すらした。
 今まで誰かに、こんなふうに甘えたことはなかった。特に芸能界に入ってからは気を張ることばかりで、素直に感情を出すことを忘れていたように思う。そんなトキヤが、ようやく見つけた大切な人――まさか音也がその人間になるなんて思ってもみなかったが、今はこの彼の温もりが、トキヤの生きる原動力と言っても過言ではなかった。
 一人で孤独に生きるのではなく、誰かに頼って生きるのも悪くはないと、そう気付かせてくれたのは音也だったから。
「あったかい……」
 そんな言葉が、自然と口から洩れ出ていた。音也は嬉しそうに笑って、ますます強くトキヤを抱き締める。
「トキヤにもっと俺の熱、分けてあげるね」
 そんなことをしたら熱すぎて死んでしまいます――心に浮かんだ言葉を呑み込んで、トキヤは音也の温もりに身を委ねた。


 そんなある日のことだった。
 放課後レコーディングルームでの練習を終え、寮の部屋に帰ってくると、音也がベッドに寝転んでいるのが見えた。だがすぐに、トキヤは違和感に気付く。トキヤが入ってきた音は聞こえているはずなのに、おかえりも言わないし、それどころかずっと背を向けたままなのだ。珍しいこともあるものだ、と思いながら、トキヤはベッドの側に立って、音也を見下ろした。
「音也、ただいま。何かあったのですか?」
 トキヤがそう言うと、音也はちらりとトキヤに視線を送り、すぐにまた横を向いて、ぎゅっと背を丸めた。
「ううん……なんでもないよ」
「嘘を吐くのが下手ですね。そんな様子では、何かあると言っているようなものでしょう」
 トキヤはベッドの端に腰掛け、音也の顔を近くから見下ろした。表情から察するに、音也はどうやら落ち込んでいるらしかった。いつも笑っている彼にしては珍しい。よほどショックなことでもあったのだろうか。
「音也、」
 トキヤが口を開きかけた時、音也が慌てたようにそれを遮った。
「待って、トキヤ! お願いだから何も言わないで」
「それは……どうしてです?」
 意外な言葉に驚いて聞き返すと、数秒の沈黙の後、音也がぽつりぽつりと話し出した。
「……トキヤが言ってくれることは、全部俺のためになることだって分かってる。それがどんなにキツい言葉でも。でもごめん、今日だけは、そういう言葉……聞きたくないんだ」
 音也の言葉に、トキヤは少なからずショックを受けていた。自分は確かに、今まで音也に対して辛辣な言葉を口にすることが多かった。普段の立ち居振る舞いから、演技、歌、その他全てに至るまで、音也に対してあれこれと口出ししてきた。だがそれは、最終的に、音也のためになると思って言った言葉だった。彼の前で素直になれず、どうしても辛辣な言葉になってしまうというのもあったが、音也はそれを分かった上で、いつも受け入れてくれていると感じていた。
 言葉の真意が伝わっているか否かはともかく、やはり自分の言葉は精神に少なからず打撃を与えるものだったのだ――そう思うと、胸の奥が痛んだ。音也を傷付けるつもりはなかったのに。たまらない気持ちになった。
 トキヤは思わず、音也の肩を掴んでこちらを向かせていた。音也がやや驚いたように目を見開き、すぐに落ち込んだ表情に戻る。いつも、自分は音也に温もりを分けてもらう側だった。たまになら、逆になってもいいのではないか。
「音也」
 トキヤの辛辣な言葉を恐れてかきゅ、と目を閉じる音也に、トキヤはなるべく優しいトーンで言う。
「私は、そんなに頼りない人間ですか?」
「え?」
 驚いたような、気の抜けたような声が洩れる。
「私が辛い時……あなたは、いつも私を受け入れてくれた。ならば、その逆があってもいいはず」
「逆って……」
「私に甘えるのは、プライドが許しませんか?」
 音也はまじまじとトキヤの顔を見つめ、ゆっくりと起き上がった。そのまましばらく向き合う。沈黙を破ったのは音也だった。微かに頬を赤らめて、躊躇いがちに口を開く。
「えっと……それって、俺がトキヤに甘えてもいいってこと?」
「それ以外、解釈のしようがないでしょう」
 それでも音也は、すぐにトキヤの胸に飛び込んだりはしなかった。手を伸ばしかけて躊躇う仕草を、何度も何度も繰り返している。トキヤはもどかしさを感じた。HAYATOになりきっていたからとはいえ、音也からの合図があればすぐに胸に飛び込んでいた自分は一体何だったのか。スキンシップの好きな音也が、何故こんなにも躊躇っているのか。理由が分からず、トキヤはもやもやとした気持ちを抱えた。
 痺れを切らし、少々怒ったように言う。
「何を遠慮しているのです。あなたらしくもない」
「あ……ご、ごめん」
 音也はしゅんとなって身体を縮こまらせてしまった。しまった、とトキヤは後悔する。音也に辛い言葉を投げかけるつもりはなかったのだ。
 音也が動かないならば仕方がないと、トキヤはそっと音也の身体を抱き寄せる。音也が驚いたようにぴくりと肩を震わせるのを見て、トキヤは思わず溜息をついた。
「器用なのか不器用なのか、あなたがさっぱり分かりませんね」
 音也はようやく、未だ躊躇いがちではあったが、トキヤの胸に顔を預けてくれた。
「俺、あんまり人に甘えたことってないから、どうしたらいいか分からなくて」
「そうなんですか?」
「うん。周り、小さい子ばかりだったし。お兄ちゃんの俺が甘えてたら、恥ずかしいから」
 でも、と言って、音也は深く息を吐き出す。
「トキヤの胸、温かい……なんか、すごく安心するね」
「なら、良かった」
 トキヤもようやく穏やかな表情に戻った。
「俺、演技の授業で、上手くいかなくて……再テストになっちゃって。リンちゃんにも色々言われて、落ち込んでたんだ。でも、トキヤに話しても、トキヤは演技上手いから、その程度で何だって叱られる気がして……俺のことを思って叱ってくれるのは嬉しいけど、今はそういう言葉、聞きたくない気分でさ」
「……まあ、あなたに遮られなければ、きっとそう言っていたでしょうね」
 トキヤは少しばかり、心の中で反省した。
「でも、なんか……トキヤがこうしてくれて、俺、すごく嬉しい。俺、トキヤ抱き締めんの、すっげー好き」
 音也がトキヤの背に手を回し、胸に顔を埋めたまま、思い切り力を入れて抱き締めた。トキヤもややぎこちないながら、音也の背に回した手を優しく往復させてやる。普段はどちらかというと自分が音也に振り回される側だが、彼は自分より一つ年下で、身体も少し小さいのだ。音也を抱き締めていると、それを強く意識することになって、心に愛おしさが溢れた。
「トキヤ、もうちょっとこうしてていい?」
「……ええ、いいですよ。あなたの気が済むまで」
「ありがと。トキヤ、大好き」
 思いがけない方向からの言葉に、心臓が大きく跳ねる。
「……不意打ちは反則です」
 たしなめるように言った後、トキヤはすぐに優しい表情に戻った。それからしばらく、二人は密着したまま、お互いの温もりを分け合っていた。


甘え下手系男子音トキ編。二人の不器用な恋愛模様が大好きです(2011.11.11)