「はいオッケー! トキヤくん、お疲れ様」
「お疲れ様でした」
 ピンでの雑誌撮影の仕事を終えた後、トキヤは楽屋で素早く私服に着替え、撮影現場のビルを出た。
 既に陽は西の空に傾いてしまっている。オレンジの光に照らされて伸びる長い影を一瞬だけ振り返り、すぐに身体を翻して、会社帰りの人々の中に紛れ込んだ。様々な軽重の靴の音だけが響き渡る、雑踏の中。アイドルユニット「W1」の一ノ瀬トキヤではなく、HAYATOでもなく、ただの通行人Aになれるこの時が、仕事終わりのトキヤにとって最も安堵する時間だった。
 コートを着ているにもかかわらず、突如吹いてきた冬の風にトキヤは思わず身を震わせた。今まで暖かい場所にいたから、余計にその温度差を感じる。風邪を引かないよう、早く帰らねば。そう思ったところで、トキヤの胸の奥がずきんと痛む音がした。
 今日は、本来ならば風邪を引く引かない云々にかかわらず、一刻も早く帰らなければならなかった。何故なら約束があったからだ。だがその約束も、今はどうなっていることか。考えたくはなかったのに、容赦なくじりじりと時間は迫ってくる。ふと腕時計に視線を落とした。午後5時半。すぐに帰れば、約束の6時には間に合う。
 けれど――トキヤはすぐに帰るのを躊躇った。そういえば。俯きがちだった顔を上げる。この間読んでいた本がようやく読み終わったので、新しいものを買おうと思っていたのだった。
 この近くには確か大きな書店があったはずだ。トキヤは人々の波から抜け出し、その書店に向かうことにした。少々焦り気味の靴音が、雑踏の中でより高く響いた気がした。


「ありがとうございました」
 落ち着いた店員の声に見送られ、トキヤは書店を出た。手に持った紺のビニール袋には、二冊の本が入っている。一冊は、この間読んでいた本の作者が出している別の作品の文庫本。そしてもう一つは――袋の隙間からちらりとタイトルが目に入って、トキヤは思わず深く溜息をついていた。
「無駄だと分かっているのに……」
 『うまく相手に気持ちを伝える方法』――普段のトキヤなら、馬鹿馬鹿しいと鼻で笑って手に取りすらしない本だ。それなのに、目に入った瞬間、トキヤはその本を手にしてレジに向かっていた。この手の本は、大抵ありきたりなことが書かれているか、作者個人の経験や勝手な想像が織り交ぜられた、トキヤから言わせればでたらめなことしか書かれていないことが多い。そもそも信用に値する実験データを記載していることなどほとんどないのだ。何事も論理的に考えることが好きなトキヤの最も好まない本であることは、17年間生きてきてよく分かっているはずなのに、それでも止められなかった。
 寮に帰るため駅に行き、電車に乗っていつものように本を取り出そうとしたところで、カバーを付けてもらえば良かったとトキヤは後悔した。こんな大勢の人目がある場所で、あんなタイトルの本は開けない。トキヤは手を伸ばしたい衝動に堪えながら、平静を装いつつ、つり革に掴まって電車の揺れに身を委ねた。
 目を伏せると、様々な思いが過ぎる。やはり、考えてしまうのはただ一つ――もう一度腕時計に視線を落とした。時間は午後5時50分を過ぎたところだ。今からでは、どんなに急いでもとても6時には間に合うまい。約束を破ることに対する罪悪感と、それなのにどこか安堵する気持ちが心の中で同居した。


「みんなでさ、鍋パーティしようぜ! 寒くなってきたしさ!」
 目を閉じると、途端に音也の元気な声が頭の中で蘇る。いいですね、と、作曲家の春歌がすぐさま同意して微笑んだ。
「私はその日、撮影の仕事が入っています。音也も確か、グルメレポーターの仕事が入っていたはずでしょう」
 冷静な声で告げるトキヤに、音也は大丈夫だって、と笑う。
「夜までには終わるだろ。俺、仕事終わったら超スピードで帰ってくるから! 春歌は準備、しといてくれる? 買い物とか重くなりそうなら、俺達にメールしてくれれば手伝うし!」
「はい! 楽しみにしていますね」
「よーしっ、決まり! トキヤもそれでいいよね!」
 相変わらず勝手に話をまとめてしまう二人に、やれやれと肩をすくめて、トキヤは一人溜息をついた。
 それでもトキヤは、それほど嫌がっていたわけではなかったのだ。むしろ、どちらかといえば楽しみにしていたのが本音だ。最初は社長命令で嫌々していた音也、春歌との仕事も、ここのところ次第に楽しめるようになってきていた。この三人で打ち合わせをしたり、一緒に夕飯を食べたりする時間が本当に楽しくて、普段仏頂面のトキヤも、自然と笑顔になることが増えていた。
 そして先程、音也から提案された三人での鍋パーティ。きっと普段よりも楽しい時間になるのは、間違いないはずだった。
 それなのに、昨日――思い出しただけで、トキヤの胸が歪な音を立てて軋む。あれは、今度出す予定のユニットソングを、二人で練習していた時のことだった。
「なんで俺に遠慮なんかするんだよ」
 音也の言葉が胸の傷を抉る。
「誰があなたなんかに。私は最善を尽くしているだけです」
「最善ってどこがだよ。本音でぶつかり合わないで、何が最善だよ!」
「これが今の最善です。音也が合わないなら、私が合わせれば良いだけのこと。だから」
「じゃあ、合わないから直せって言ってくれればいいじゃん。言う前に自分で勝手に決めて、勝手にやるなよな!」
「言えば分かる、という類のものでないとしたら? ここはあなたのカラーが全面に出るところです。ならば下手に改善するより、音也のカラーに私が合わせていく方がずっといい」
「でも、せっかくハモるところなんだよ! トキヤが本気で来てくれなきゃ、俺だって本気で歌えない! トキヤは絶対遠慮してる!」
 遠慮していないか、と言われれば嘘になる。しかし、自分がしていることが間違っているとも思っていない。
 トキヤはそこで一旦黙り込んだ。音也も口をつぐんで、じっとトキヤを睨み付けている。しばらく二人の間で火花が散った。静かに、けれども激しく。
 その沈黙を破ったのは、音也だった。
「……トキヤはいっつもそうだ。絶対に俺に本音を言わない」
「それは、あなたの勝手な憶測でしょう」
「違う! この間の昼だってそうだ。俺も春歌もトキヤも違うメニューが食べたいって言った途端、自分はもういいですって諦めて」
「あんなところで、好みの問題で延々と議論していても仕方ないでしょう」
「俺と二人でいる時だって、絶対に俺に好きって言わない」
「……別に、あなたのことなんか」
 そう言った途端、トキヤは音也に強引に唇を塞がれた。息が出来なくなる。音也の口付けはいつも少し強引で、けれども優しい。トキヤは目を閉じて、その感覚に酔いたくなる。でも今は酔える状況ではない。ぐっと堪えて、トキヤはその口付けをただ受け止めた。
 顔が離れたとき、音也は怒ったような表情のままだった。
「俺のことが嫌いなら、なんで逃げないの。トキヤは好きでもない相手と平気でキスができるわけ?」
「……私を侮辱しているんですか?」
「じゃあ言えよ! 俺のこと、一体どう思ってるんだよ!」
 音也の怒号に、一瞬だけ気圧されそうになる。本音を口にしてしまいそうになって、トキヤは慌てて踏みとどまった。踏みとどまりはしたが反論はできず、トキヤはそのまま口をつぐんでしまった。
 音也は怒りの表情を、徐々に悲しみへとシフトさせた。
「それがトキヤなんだって分かってるけど……今までは、お前の言動を読み取って、俺なりに解釈して動いてきたつもりだけど……俺にも限界があるよ。以心伝心なんて言うけど、俺はテレパシーなんか使えないただの人間なんだ。言わなきゃ伝わらないことだって、あるはずだろ」
 一瞬だけ見せた音也の寂しげな表情が、今でも頭にこびりついて離れない。音也は身体を翻してトキヤに背を向け、そのままレコーディングルームを去っていってしまった。
 自分の感情表現が不器用と評される類のものであることを、トキヤは一応自覚していた。そしてその不器用さは、本当に心から思う相手であればあるほど発揮され、大きく空回ってしまうものだということも。
 音也に関してはいつも遠慮なく容赦ない言葉を浴びせてきたつもりだけれど、かといって、音也のように何でもかんでも本音を口にしてきたわけではない。音也に愛の言葉を告げたことなど、今まで一度もなかった。だが、音也との関係は受け入れてきた。音也はそれでも構わずぐいぐいと迫ってくるし、トキヤが何を言ってもポジティブに捉えるしで、トキヤは何も言わずに済んできたのだ。
 それを、はっきりと気付かされてしまった。自分はただ、楽な方へ逃げていただけだということに。


 だからこそ――あの本を手にしたのは、そのことがあったからだった。こんな状態で、仲良く鍋パーティなどできるはずもない。音也は本気で怒っていた。そして、悲しんでいた。それが伝わってきたからこそ、トキヤも迷っていたのだ。
 電車が寮の最寄りで止まり、トキヤは重い足取りでホームに出る。電光掲示板の横に付いたアナログ時計が、6時過ぎを指していた。約束の時間は過ぎた。トキヤは溜息を吐いて、身体を翻し、改札を出る。夜の住宅街は静まりかえっていて、先程まで感じていた人の気配が、恋しく感じるほどだった。
 寮になっているマンションの階段を重い足取りで上り、一ノ瀬トキヤ、と書かれた表札の前で立ち止まる。音也はあの時、パーティの場所をここに指定していた。トキヤの部屋はいつも綺麗に片付いてるから――無邪気に言う音也に、トキヤは少しばかり抵抗したけれど、本気で拒絶したいと思っていたわけでもなく、あっさりと決まってしまった。
 鍵穴に鍵を入れて回す。が、手応えがなかった。戸締まりはきちんとしてきたはずだから、となると、残る可能性は一つ。部屋の合鍵は、音也と春歌が持っていたはずだった。
 僅かに躊躇した後、トキヤは思い切ってノブを回し部屋に入る。
「……音也?」
 リビングに入ると、テーブルに突っ伏して、音也が一人で眠っていた。テーブルの上にはガスコンロが置かれているだけだ。トキヤはふと、コンロの傍に置かれていたメモに気付いた。
“一ノ瀬さん、勝手に入ってごめんなさい。音也くんが眠ってしまったので、わたしは一人で買い物に行ってきます。お腹が空いていると思いますが、もう少し待っていてくださいね。七海”
「女性を一人で買い物に行かせるなんて、何をやっているんですかあなたは……」
 トキヤは溜息をついて、膝を折ってカーペットの上に座り込んだ。音也は自分の腕を枕のようにして、すうすうと寝息を立てて眠っている。そのあまりの呑気さに、トキヤはやれやれと肩をすくめた。
「音也、起きなさい。いつまで寝て――」
 肩を掴んで揺り動かそうとした時、トキヤはふと、音也の手に握られた白いメモ用紙を見つけた。指と指の間からうまく取り出し、くしゃくしゃになったメモ用紙を何気なく見たトキヤは、その瞬間、鋭く息を呑んでいた。
「これは……」
 彼女の曲が、頭の中で流れ出す。これは明らかに、音也の書いた、あのユニット曲の歌詞だった。
 歌詞は二人で考えようと言っていたのだが、音也は既に、一人で作りかけていたらしい。トキヤは夢中になって、脳内で曲を再生しながらその歌詞を読んだ。
『本気の気持ちで ぶつかり合おう そうすればきっと もっと俺達は強くなれる』
「これ……は……」
『嘘なんていらないから 本当のお前だけを見せてほしい 俺もお前に隠さないから』
「音也……」
 音也らしい、とても真っ直ぐな言葉だった。それだけに、トキヤの胸に響きすぎて痛い。トキヤの手はメモを持ったまま震えていた。涙腺を刺激されて、緩みそうになった目尻を引き締める。
 もしかして、音也は昨日ずっとこの歌詞を考えていたのだろうか。メモにはいくつもいくつも、消しゴムで消した跡が残っていた。細かい語尾を変えて、テンポの悪い言葉を直して。あの音也がきっとうんうん唸りながら一晩中考えていたのだと思うと、トキヤの胸が強く強く締め付けられた。
 トキヤは手に持ったままの本の入ったビニール袋を手放した。ハウツー本なんて必要ない。大切なのは心を持って伝えること。着飾った言葉など、二人の間には必要がないのだ。
「……“嘘なんて、いらないから…………俺も、お前に隠さないから”……」
 春歌の作ってくれたメロディに乗せて、トキヤは途切れ途切れに歌った。
「“以心伝心なんて 嘘ばっかり 俺が欲しいのは お前の真っ直ぐな言葉だけ”……」
 サビの部分を歌い終えて、トキヤは目を細めた。心にわだかまっていたものが、すっと溶けてなくなっていくような感覚だった。歌にすれば、恥ずかしがることなく気持ちを伝えられる。トキヤはいつもそうして、彼女の曲を借りて心を伝えてきた。だから、音也にも――
「……トキヤの気持ち、伝わったぜ」
 トキヤが驚いて身を引く前に、突然起き上がった音也に抱き付かれていた。一瞬何が起こったのか分からず、トキヤは身を硬くする。けれども触れた部分から伝わる音也の温もりが、その緊張を次第に解いていった。
「俺の歌詞だったけど、でもお前の気持ち、ちゃんとこもってた」
 トキヤは鼓動が速くなっていくのを感じながら、小さく溜息をついた。
「あなたはいつも馬鹿正直な歌詞ばかり。直接的な言葉自体は悪くありませんが、そればかりだとありきたりになってしまいますよ」
「ありきたりでいいじゃん。気持ちがこもってれば、伝えられるんだよ。みんなの心に」
 それは、誰よりも今歌ったばかりのトキヤが実感していた。それ以上反論せずに、トキヤは音也の抱擁を受け止める。たった一日離れていただけなのに、もう何日も音也の温もりに触れていないような気がした。
「さっきの歌詞、良かったでしょ。俺、トキヤとはずっとそういう関係でいたい。トキヤもそう思ってくれるんなら、俺、すっごく嬉しい」
 耳に唇を寄せながら、音也がそう囁く。トキヤは速まっていく鼓動を悟られぬようにと願いながら、声が上擦らないようにイメージしつつ、口を開いた。
「……悪くは、ない……でしょう」
 そう言うだけで精一杯だったが、音也はそれだけでも分かってくれたらしい。ますます腕の力を強めて、トキヤと身体を密着させてきた。
「ならさ、トキヤ。一つお願いしても、いい?」
「……なん、ですか」
「俺にさ、聞かせて。トキヤの本当の気持ち。俺のこと、好き?」
 ぐっ、と言葉に詰まる。それだけは言えないと、固く心の中に封印してきた言葉だった。今でも、自分の口からその言葉が零れることを想像しただけで恥ずかしくて死にそうだ。
 だが、言わなければ分からないこともある。それを教えてくれたのは、何よりも目の前の音也だから。
「……好き、ですよ。……これで満足ですか」
 言い終えた途端、頬に血液が集まり始める。音也はやった、と心の底から喜ぶような声を出して、トキヤの右頬にキスをした。トキヤの心臓が一段と大きく跳ねる。全くこの男は。そう思いながらも、心から拒絶しているわけではなかった。
「早く離れなさい。彼女が帰ってきたらどうするんですか」
「分かってる。けど、もうちょっとだけ」
「……仕方がないですね」
 本当なら、すぐにでも彼女にメールして、彼女の買い物を手伝うべきなのだろうが――もう少しこの温もりに浸っていたいのは、音也もトキヤも同じようだった。心の中で彼女に謝りつつ、トキヤは音也の温もりに顔を埋めた。
「鍋、楽しみだよな。俺、肉いっぱい食うから。どっちがいっぱい食べられるか、競争しようぜ」
「そんな偏った食べ方をしていては太りますよ。体型維持も、アイドルの重要な仕事なのですから」
「いいじゃん、今日くらい。トキヤも羽目外しなよ。だってここには、俺達しかいないんだから」
 四六時中人目に晒されているアイドルが、唯一持てるプライベートな時間。その時間を彼らと過ごすことが、いつしかトキヤの楽しみになっていた。わだかまりが取り払われた以上、その時間を敢えて楽しまないなんて、勿体なくてできるわけがない。
「……そうですね。少しなら」
 トキヤはそう答えながら、微笑みを浮かべていた。音也の温かい背に、自分の手をそっと置きながら。この関係が永遠のものであれと、願いながら。


友情アフターで萌え転がった結果。W1もHAYATO&OTOYAも大好き!この二人のライバル関係がこんなに好きになるとは思いませんでした(2011.9.12)