カフェテリアで一人、購買で買ったメロンパンを口にしながら、真斗は小さく溜息をついた。
 大好物のはずのメロンパンも、今日ばかりは味気なく感じられた。睫毛の下に隠された瑠璃色の瞳の奥には、微かな憂いが宿っている。周囲の生徒達はその憂いに誰一人気付かなかったが、ただ一人気付いた者が、真斗の向かいの席に座った。
 真斗が顔を上げると、柔らかな微笑みを湛えた那月が、こちらをじっと見つめていた。
「真斗くん。元気、ないですね。どうかしましたか?」
「ああ、四ノ宮か……」
 同じクラスの親しい友人の一人。その気安さに一瞬口を開きかけて、真斗は踏みとどまる。躊躇いの表情から察したのか、那月がにっこりと笑って促した。
「何かあったなら話してくださいね。真斗くんが辛い顔をしていたら、僕も辛いですから。だって、真斗くんと僕はお友達でしょう?」
「すまない、四ノ宮。心配をかけてしまったようだな」
 いいえ、と那月は優しく首を振った。突拍子のない言動が多く、掴みきれない人物――だが、那月が心底優しく思いやりに満ちた人間であることを、真斗は知っている。先程の言葉が本心であろう、ということも。
 小さく息を吐いて、真斗は再び口を開いた。
「実は、一十木のことなのだが」
「音也くん、ですか?」
「そうだ。その、昨日、二人で教室棟の屋上に行ったのだが……」
 真斗は微かに目を伏せて、その時のことを思い出した。
 あれは放課後のことだった。いつか見た夕日が美しかったことを思い出して、その時一緒にいた音也を、屋上に誘ったのだ。その途端、音也の表情が変わるのを、真斗ははっきりと見た。不審に思いはしたが音也がしきりに大丈夫と言い張るので、一緒に屋上に行ったのだが――屋上に出た途端、音也が急に元気をなくしてしまったのだ。
 どうしたと聞いても大丈夫の一点張りだし、それなのに表情から余裕は失せているしで、何が何だかよくわからず、真斗は混乱するばかりだった。このままではまずそうなので一旦は引き上げたのだが、その後音也はごめんと一言謝って、寮へと帰って行ってしまった。
 音也は決して、他人の傷つくようなことを言わない人間だ。先程は気を遣って真斗に何も言わなかったが、もしかしたら何か不快な思いをさせてしまったのではないだろうか。真斗は不安な思いに駆られた。音也がいつも真斗に楽しいものを見つけてきてくれるように、自分も自分が素敵だと思ったものを、音也に見せてやりたかっただけなのに――
 那月に事情を話し終えると、那月はううん、と考えるように顎に手を当てた。
「そうですねぇ。音也くんが何故表情を変えたのかは、僕にも分かりませんけど……もしかしたら音也くんは、夕日が嫌いなドラキュラさんだったのかもしれませんねぇ」
 いつもの那月らしい斜め上の答えに、真斗は思わず脱力する。
「四ノ宮、ドラキュラは朝日が嫌いなのではなかったか……?」
「でも、同じ日の光だから、きっと一緒ですよぉ」
「いや……一十木は昼間普通に過ごしていたはずだが……」
 真面目に突っ込みをいれながら、なんとなくこの反応でいいのだろうかという思いが首をもたげてくる。那月が本気で言っているのかそうでないのか、それすら真斗にはよくわからない。那月はそんな真斗の胸中を知ってか知らずか、口元を緩めて柔らかく微笑んだ。
「心配することないですよ、真斗くん。音也くんが真斗くんのことを嫌いになることは、絶対にないですから」
「そ、そう、か?」
 那月に断言されると、奇妙な感じがする。戸惑いがちな真斗に向かって、那月は力強く頷いた。
「そうです! 音也くんはきっと、その時調子が悪かっただけなんです。例えば、苦手なものが近くにあった、とか」
「苦手なもの……?」
 真斗はそう言われて考える。音也の苦手なもの。今まで特に聞いたことはなかったが、あの音也にも苦手なものがあるのだろうか。少し考えて、真斗は溜息をつく。答えの出ないことを延々と考えていても仕方がない。直接音也に聞いてみるとしよう。
 胸のつかえがようやく下りた気がした。真斗は微笑んで、那月に礼を言った。
「ありがとう、四ノ宮。お前のおかげで、少し気が楽になった」
「本当ですか? 良かった。真斗くんはやっぱり、そうやって笑っているのがいいですよ。可愛いです」
 可愛い、と言われるとむず痒いが、気分は悪くない。那月に心から感謝して、真斗は残っていたメロンパンをかじった。先程まで味気なかったメロンパンが、いつものおいしいメロンパンに戻っている。真斗は心底安堵した。


「一十木!」
 その日最後の授業が終わった後、真斗は音也に声を掛けた。前を向いて座っていた音也が振り向いて、真斗の顔を見てまずい、とでもいうように表情を変える。
「あ……マサ、ど、どうしたの?」
 様子が明らかにおかしく、動揺している。真斗は目を細めながら、音也に問いただそうとした。
「一十木、昨日のことなのだが……」
「あ! その、マサ、そのことなんだけど……」
 言いかけた真斗の声を遮って、音也が言った。真斗が首を傾げると、音也は言いにくそうにしながら、口を開いた。
「その……昨日の場所、もう一回連れて行ってくれない?」
「昨日の場所に、か?」
「うん! 俺、今度は大丈夫だと思うからっ! ね!」
 顔をぐいと近づけて力説され、真斗は驚いて少しだけ身体を引いた。何が何だか分からないが、しかしそこまで言われたら従う他ないだろう。真斗が頷くと、音也がよしっ、と両手でガッツポーズをした。
「大丈夫、大丈夫だって、今度は……」
 音也の口から洩れる、小さな呟き。真斗はそれを不審に思いつつも、音也を教室棟の屋上に連れて行くことにした。


 その日も、綺麗な夕日が西から学園を照らしていた。見える限りの世界を見事なまでに橙色に染め上げる夕日は、いつだって真斗のお気に入りだった。今日一日が終わる名残惜しさを感じさせつつも、明日へ向かう希望を与えてくれる夕日。真斗はこの夕日の素晴らしさを、音也と共有したかっただけなのだ。
 屋上まで上がってきた真斗は、その眩しさに目を細めつつも、自然と頬が緩んでいた。
「綺麗だな……いつ見ても」
 一拍遅れて、音也の消え入りそうな声。
「……う……うん。そうだね……」
 真斗が振り返ると、音也は真斗と少し離れた位置に立っていた。またしても余裕のない表情で、微かに唇を震わせている。まるで何かに怯えるような表情だ。怯えるといっても、ここに猛獣の類がいるわけでもないのに――不審に思った真斗が眉を寄せると、音也がその場から一歩、ぎこちなく足を踏み出した。
「っ、と……うわわっ!」
 ぐらり。バランスを崩して、音也の身体が床に放り出されそうになる。真斗は驚いて、慌てて音也の身体を支えた。
「おい、一十木! 大丈夫か?」
「う……うん、平気……ちょっとくらっとしただけ……」
 音也はそう言った後で、はぁ、と深く溜息をついた。
「情けないなぁ、俺……マサにこんなふうに支えてもらってさ……」
「それは構わないが、一十木、そろそろ話してくれ。一体どうしたのだ? こんなになって、何もないわけがなかろう?」
 真斗が問うと、音也は観念したようにうん、と頷いて言った。
「俺さ……苦手、なんだよね」
「一体何が」
「……高い、ところ」
 真斗は思わず目を見開いた。驚きと同時に、合点がいった。ここは屋上だ。しかも棟内と違って、少し外に目を向ければ嫌でも地上との高さを意識することになる。
「そういうことだったのか」
「うん……カッコ悪いしさ、誰にも知られたくなかったんだよな。特にマサには、こんなカッコ悪いとこ、見せたくなかったのに」
 溜息を吐く音也を見ながら、真斗は安堵する。自分は嫌われていたわけではなかった。それに――真斗は胸中に宿った感情に、少しばかり驚く。まさか、那月が真斗に思ったことと、同じことを音也に思うとは――
「マサ、昨日はごめん。さっき那月に言われてさ、マサが俺のこと気にしてたって。はぁ、最悪だな、俺。マサに心配かけるし、カッコ悪いとこ見せるし……」
「いや、もういいんだ、一十木。お前に嫌われていたわけではないと分かって、安心した」
 それに、と真斗は、微笑みを浮かべながら付け加える。
「お前のことを格好悪いなんて思っていない。むしろ――」
 言いかけて、真斗は口をつぐんだ。これは言わぬ方がいいことだろう。音也のためにも、そしてきっと、自分のためにも。それでなくたって、今温かくて優しい気持ちが胸に溢れかえって仕方がないのだ。
「え、マサ、何言いかけたの?」
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
「ええっ、なんでだよー! 俺はちゃんと言ったのに、マサだけずるい」
「きっと聞いたら後悔するぞ、一十木」
「いいから! 聞かないでいる方が、ぜーったい後悔する」
 それなら、と真斗は、音也にそっと耳打ちしてやる。その言葉を口にした途端、音也が鋭く息を呑む気配がした。ほら見たことか、と真斗は顔を離して、溜息をつく。
「後悔しただろう」
「う、ううん、後悔っていうか……なんていうかその……な、なんだろうこの気持ち」
 音也の頬がほんのり赤くなって見えるのは、この眩しい夕日のせいなのだろうか。
「なんかわかんないけど、マサの言葉、すっごい破壊力……だった」
 色んな意味で、と付け加える音也に、なんだそれは、と真斗は笑う。音也はしばらくその言葉を噛み締めるように沈黙していたが、やがて睨むような鋭い目で真斗を見つめ、ぴしり、と人差し指を突き付けた。
「言っておくけど! マサも十分、可愛いからね」
「……は? お、俺のどこが」
 那月にも言われたが、自分と可愛いという形容詞が未だに真斗の中では結びつかない。自分で言うのも何だが同室者には散々からかわれているくらいの仏頂面で、愛想もさほどよくない方だと思っているのに、一体どこに可愛い要素があるというのか。
 すると調子を取り戻したらしい音也が、唇を横一杯に広げてにっと笑った。
「俺の前で、自然に笑ってくれるとこ!」
 真斗は思わずはっとした。慌てて頬に手を当てると、音也がおかしそうに声を上げて笑い始めた。自分はそんなに音也の前で笑っていたのだろうか。確かに音也といるといつも楽しくて、心が弾んで、頬が緩んでいる感覚もいつも以上にあった気がするが、それにしても――
「はーっ! 俺、マサと一緒にいたら、高所恐怖症もちょっとマシになった気がする」
 音也がおもむろに立ち上がって、夕日に向かって伸びをした。その言葉の真意を掴みきれぬまま、真斗は呆然と、笑う音也の横顔を見つめていた。


ゲームの音也の高所恐怖症イベントが可愛すぎて…音マサきゅん(2011.8.30)