「……あ」
 ギターを持って学園の庭を歩いていた音也は、ふと足を止めてそびえ立つ校舎を見上げた。
 窓の開いた教室から聞こえてくる、優しいピアノの旋律。その音色を紡ぎ出している主を、音也は知っていた。思わず目を閉じて、聞き惚れる。
 夏の涼しい風が頬を撫で、髪を揺らす。ピアノの旋律はまるでこんこんと湧き出る冷たい泉のように内面から溢れ出し、音也を爽やかな気分にさせてくれた。優しくて、繊細で、きっと音也はこんなふうに弾くことはできないだろう。そもそもピアノ自体弾くこともできないけれど、きっとこんなに優しい音を紡げるのは、学園でも彼しかいないに違いない。
 心が大いに刺激される。身体が躍動感を伴った。歌いたい。音也は校舎の壁を背に、よっと、と言って座り込んだ。
 ギターを構え、弦に指を沿わせる。微かに触れただけで、弦はまばらな音を紡いだ。音也は少し指慣らしをしてから、一度深く息を吐いて、その後すう、と息を思い切り吸い込む。
「二人で作り出す――」
 この間、自分で作詞したばかりの曲だった。指が自然に動く。声が腹の奥から出てくる。
 音也は歌うことが好きだった。歌っていると、自然と明るい気持ちになれた。嬉しいことも楽しいことも、嫌なことも悲しいことも、全て歌にすることで発散し、消化することができた。この学園に来て、毎日歌えること。それが音也の幸せだった。
 時折生徒達が通りすがり、音也の方へちらりと視線を送る。その視線がどういう感情を含んだものなのか、音也はまるで気にしなかった。気にする余裕もなかったのだ。歌っているときは夢中で、それ以外のことなんて考えられなかった。
 ギターの旋律が空に向かって大きく放たれる。音也の歌声にも、自然と熱が入った。だからいつの間にか、教室から聞こえていたピアノの音が止まっていたなんて、気付きもしなかった。
「――君に惹かれる……」
 サビを歌い終わったところで、ようやく指が止まる。
 すると突然、小さな拍手が上から降ってきて、音也は驚いて顔を上げた。微笑みを浮かべて惜しみない拍手を送るその人物を見て、音也は更に目を見開いた。
「マサ!」
「良かったぞ、お前の歌」
 音也はギターを壁に立てかけて、へへ、と笑った。
「いつから聞いてたの?」
「『スマイル全開で』のところから、だな。外からお前の歌とギターが聞こえたから、来てみたんだが」
「あ……もしかして、邪魔しちゃった? マサ、さっきまでピアノ弾いてたんでしょ?」
「いや、気にすることはない。手慰みに弾いていただけだ」
 真斗の言葉で少し心は軽くなったものの、やはり残念だと思う気持ちが勝る。
「俺、もうちょっとマサのピアノ、聴いてたかったな」
「それなら、いつでも遠慮せずに聴きに来るが良かろう」
「ホント!?」
 音也は思わず身体を乗り出した。
「ピアノ弾いてる時のマサって、すごく真剣で……邪魔しちゃ悪いよなって気がして、近づけなくってさ。じゃあ今度からマサがピアノ弾いてたら、中に入って隣で聴いててもいい?」
「ああ、構わない」
「やったー!」
 音也は思いっきり両手を挙げて、顔をほころばせた。真斗が、一十木は大げさだな、と苦笑する。だが、決して大げさでもなんでもない。真斗の弾くピアノが好きな音也にとっては、近くでピアノを聴いても構わないと言われたことが、何より嬉しいことなのだ。
「隣、座ってもいいか?」
「あ、うん。でもここじゃ暑いし、木陰に行かない?」
「ああ、いいな」
 音也は立ち上がってギターを担ぐと、真斗と一緒に池の近くにある大きな木陰へと移動する。いつもは誰かしらがいて弁当を食べたりお喋りしたりしているのだが、今日は幸いなことに誰もいなかった。
 今日は特に日差しが強い日なので、そもそも外出自体控えている生徒が多いのかも知れない。アイドルコースの人間は日焼けも気を付けなくっちゃね、と言っていた、同じクラスの友千香の言葉を思い出す。そういえば同室のトキヤも、今日は念入りに日焼け止めを塗っていたっけ。音也はそういうことは全く気にしないので、一応トキヤの勧めに従って日焼け止めを塗りはしたものの、特に外出を控えるということはないのだけれど。
 日差しの強い夏の日が続いても、真斗の肌はいつも白い。それがトキヤのような念入りな手入れの結果なのか、それとも素のままなのかは分かりかねたが、木陰で佇む真斗の肌は、なおいっそう透き通るような白さで、儚さすら感じられた。
 マサは本当に綺麗だよなあ、と音也はぼんやり思う。男相手に綺麗と思うのはおかしいのかもしれないが、切り揃えられたコバルトブルーの髪といい、端正な顔立ちといい、その透き通るような白い肌といい、綺麗という以外に、表現する言葉が見つからない。それを言えば、あなたはもう少し日本語の表現を勉強するべきです、なんて、トキヤに苦言を呈されてしまうかもしれないけれど――そこまで想像して、音也は思わず噴き出した。
「どうした、一十木?」
「あ、ううん、何でもない!」
 怪訝そうな顔をする真斗に、音也はぶんぶんと首を横に振った。
 真斗はそれ以上言及せず、小さく息を吐いて、首の辺りを手で拭った。
「それにしても、やはり暑いな。汗が噴き出してくる」
「だねー。あ、そうだ。俺、ちょっと購買に行ってジュース買ってくるよ。マサもいる?」
「ああ、それでは頼む」
 りょーかい、と音也はウインクして、ギターを木の幹に立てかけると、走って購買へと向かった。


 缶ジュースを二本買って戻ると、真斗は木陰に佇んだまま、静かな池を眺めているようだった。
 そうだ、と音也はあることを思いついて、足音を忍ばせながら真斗の背後に近づく。もう少し、もう少し。じりじりと距離を縮めて、真後ろにきたところで、缶ジュースを突然、真斗の右頬に押しつけた。
「うわっ!」
 真斗が大きく飛び上がった。いつも冷静な真斗のその反応があまりにおかしくて、音也は堪えきれず、弾けたように笑い出した。真斗は振り向いて、大笑いしている音也を呆然と見つめていた。
 ややあって、抗議の声が飛んでくる。
「何をする、一十木! 心臓が止まるかと思ったぞ」
「あははっ、ごめんごめん! ちょっと驚かせようと思って、でもマサがそんな反応するなんて思わなくってさ、あはははは!」
 なおも腹を抱えて笑っていると、真斗が唇を結んで眉を寄せた。
「一十木……笑いすぎだぞ」
「ごめんごめん。はい、これ、ジュース」
「ああ、ありがとう」
 真斗は礼を言って、オレンジジュースの缶を受け取った。音也も笑うのをやめて、りんごジュースの缶のプルトップに指をかける。これが開くときの、なんとも言えないあの音が、音也は好きだった。
 プシュッ。心地よい音が胸を打つ。快感に浸った後ふと隣を見ると、真斗は缶ジュースを手にしたまま固まっていた。
「どうしたの、マサ?」
「いや……」
 真斗の表情が、気まずそうに微かに歪む。音也はそっか、と気付いて、真斗の手の中にある缶をさらうようにして掴んだ。
「これはさ、こうやって開けるんだよ。これを立てて、指を穴に掛けて」
 ぐい、と引っ張る仕草をした後で、再び真斗の手の中に戻してやる。さすがに最後まではしない。あの開ける時の何とも言えない快感を、真斗にも味わって欲しいからだ。手の中に戻された真斗は未だ戸惑ったようにプルタブを見つめていたが、やがて右手の人差し指をおそるおそるプルタブに掛けて、引っ張った。
 プシュッ。
 心地よい音がして、缶の中からオレンジジュースの香りが広がる。真斗は目をぱちくりさせていたが、やがて穏やかに笑って、缶を見つめた。
「不思議な……感覚だな」
「でもさ、なんか気持ちよくない? 俺好きなんだよね、こうやって缶開けるの」
「ああ。また一つ、新しい経験をすることができた」
 お前のおかげで。そう言う真斗の言葉を嬉しく受け止めながら、音也は缶に口付ける。冷たいりんごジュースの甘みが、喉を爽やかに通り抜けていく。真斗も喉を鳴らしながら、同じようにオレンジジュースを飲み干していた。
 あっという間に一本飲み終わってしまって、音也は木の根の上に座って缶を地面に置く。そのまま立てかけていたギターを引き寄せ構えて、立ったままの真斗を見上げた。
「マサ、歌ってみる?」
「……俺が、か?」
「うん。俺、ちょっとだけならマサの作詞した曲覚えてるよ。確か……」
 音也は記憶の糸を手繰り寄せる。頭の中に流れ出す旋律のまま、指を動かした。少し外れたりもするが、だいたいは間違っていないはずだ。真斗の顔色を窺うと、それが正解だとでもいうように、表情を緩ませた。
「よく覚えていたのだな」
「そりゃ、もちろん。マサの曲、いい曲だったもんな。俺はマサのように完璧には弾けないけど、それでもいいなら」
「大丈夫だ。なら、弾いてもらって構わないか?」
「りょーかい!」
 頷いて、音也はギターの弦に指をかける。記憶の中の旋律をそのまま、ギターに。前奏に続いて、真斗の口から、優しく繊細な声が紡がれていく。
「涙を拭いて――」
 真斗の声の震えに反応したのか、太陽の光を反射してきらめく水面が微かに揺れた気がした。ギターの音色では、あの水滴のように透明で純粋なピアノの音色は出せないけれど、それでも真斗の歌声が透き通るように美しいから、それでいいのだ。音也はただ、その手伝いをしているだけ。マサが気持ち良く歌えますように――
「信じることを、分け合おう――」
 間奏に入って、真斗がふっと顔をほころばせた。
「お前のギターで歌うのも、楽しいものだな」
「そう? じゃあ、また今度も一緒に歌う?」
「そうだな、それがいい。今度はお前の曲も、ピアノで弾かせてほしい」
「もちろんいいよ! やった、楽しみだな」
 間奏が終わって、真斗の唇が再び震え出す。その美しい声を聴きながら、音也は温かい気持ちが心から溢れ出すのを、抑えきれないでいた。


二人のアイドルソングが大好きです…! 音マサほんと可愛い(2011.8.16)