その感情が恋だってことにすら気付かずに、二人でほのぼの、もやもやしてたら可愛い(2011.8.9)
『人の迷惑を考えたらどうなんですか、いい加減』
寮の玄関を出たところで、音也ははぁ、と溜息をついた。
トキヤの非難の視線と声音が蘇り、思わず胸が苦しくなる。トキヤがこうして音也に厳しい言葉を浴びせるのは日常茶飯事だったが、先程の言葉はやけに胸に響いたのだ。
一歩外に出て、夜空を見上げる。頭上には、まるで宝石を散りばめたような美しい星空が広がっていた。
ふと、クラスメイトのことが頭を過ぎる。きっと見せたら喜ぶんじゃないだろうか。弾みかけた音也の心は、しかしトキヤの言葉を思い出すことによってあっという間に萎んでしまう。音也は慌てて首を横に振った。夜だし、もう消灯時間は過ぎている。きっと今から部屋に行っても、迷惑なだけだろう。
仕方なく、一人で星のよく見える場所に座って、芝生の上に寝そべることにした。風の渡る音が聞こえる。季節は冬に入りかけた頃。少し肌寒いが、このくらいの気温の方が過ごしやすい。
誰もいない解放感溢れる外の芝生の上に寝転がって、空には美しい星空が見えて――この上なく心地よいシチュエーションのはずなのに、音也の心はいつもほど明るくならなかった。
「はぁ……」
俺らしくない。そう思いながらも、溜息が出るのまでは止められない。得体の知れない恐ろしさが、心にじりじりと迫ってくるのを感じた。
ごろり、と寝返りを打つ。当たり前だが途端に星空が見えなくなって、音也の心が急に冷えた。まるで絶望の淵に一人で立っているような感覚だった。怖くなって、慌てて再び仰向けになる。満天の星に少しばかり心が安らいだものの、一度生まれてしまった感情は、なかなか消えてはくれなかった。
「そんなところにいると風邪を引くぞ、一十木」
聞き覚えのある声が頭上から降ってきて、音也は慌てて身体を起こした。声のした方を振り向いて、音也の心臓が一段と高く跳ねる。
「え……マサ!?」
先程頭の中に思い浮かべたクラスメイト――聖川真斗が、白い浴衣に青藍の半纏を羽織った姿で立っていた。あまりに意外な人物の登場にしばらく言葉が紡げずにいると、真斗は小さく苦笑して、ゆっくりと膝を折った。
「どうした、そんな顔をして。一ノ瀬と喧嘩でもしたか?」
「あ……ううん、別に、トキヤは何も」
そう答えた直後、トキヤの先程の言葉が蘇り、音也の心が再び暗くなる。恐ろしさが胸に込み上げる。真斗は何を思っているのだろう。変わらず真摯な瞳を常に自分に向けてくるクラスメイトは、一体何を。
「それより、マサこそなんでここに?」
「ああ……いや、眠れずにいたから窓から外を眺めていたら、お前の姿が見えたものでな。気になってここに来てみた」
そっか、と納得した後で、音也は改めて意外に思う。規律を破ることを良しとせず、何事もきっちりしていなければ気が済まない性格の彼が、こんな行動に出るのは珍しい。罰則があるわけではないが、一応消灯時間が過ぎたら外に出てはいけないと、寮に入る前に日向から説明があったにもかかわらず、だ。
「お前の隣、座っても構わないか?」
「あ、うん! もちろん。どうぞ」
真斗の問いに、音也は思わず笑みをこぼしてそう答えた。ありがとう、と柔らかく笑う真斗の顔が、妙に頭に焼き付いた。
真斗は頭上を見上げ、ほう、と感嘆の溜息を洩らした。
「今日は綺麗な星空だな。雲一つなく晴れているのは珍しい」
「うん、綺麗だよね」
相槌を打った後で、音也はぽろり、と本音を零す。
「本当はさ、さっき、マサを誘おうかなって思ってたんだ」
「そうなのか?」
驚いたように視線を向けてくる真斗の方を見ないようにしながら、うん、と頷いた。すぐ後に、でも、と言いかけて俯く。
「迷惑なんじゃないかと……思って」
「……お前がそんなことを気にするのは珍しいな」
「ちょっとマサ、それどういう意味なんだよー」
音也が抗議すると、真斗は悪かった、とくすくす笑った。その反応に安堵しつつ、言葉を続ける。
「トキヤに言われたんだ。俺の気まぐれで人を振り回すのはいい加減にしろ、って。人の迷惑を考えて行動すべきだって。特にマサには――迷惑かけるな、って」
「何故、俺のことを」
「俺がマサとよく一緒にいるからだって。きっと迷惑に感じてるに違いないから、って」
音也は腕を交差させ、両手で自身の二の腕を掴んだ。二つの恐怖が心を蝕んでいく。もし、その言葉を真斗に肯定されてしまったら、という恐怖。そして何より、本当に真斗に嫌われていたら、迷惑に思われていたらどうしようという恐怖――
だが、やがて聞こえてきたのは、真斗の普段通りの優しい声音だった。
「一十木、そんな顔をするな」
音也ははっと我に返って、真斗を見た。真斗は風に揺れる髪を整えながら、穏やかな笑みを浮かべていた。
「俺はお前のことを、迷惑だと思ったことなんて一度もない」
「え……」
思わず間抜けな声が口から洩れた。
「ほ……ホントに?」
「ああ。一ノ瀬に言われたからといって、気にしすぎだ。いつも明るいお前らしくもない」
むしろ、と真斗は続ける。
「嬉しく思っている。お前はいつも俺に、心躍るような楽しいことを見せてくれるから」
今度こそ本当に、強張っていた肩から力が抜けた。口から深い溜息が洩れる。音也の表情に宿るは、安堵。
「良かった……俺、マサに嫌われてたらどうしようって思ってたんだ」
「俺がお前を嫌うわけがなかろう」
真斗は優しいが、決して嘘は言わない。その言葉も、心から信頼できるものだった。音也は笑って礼を言った。
「うん、ありがとう。俺、さっきまで色々考えてて……とにかく、マサに嫌われてたらどうしようって、すごく怖くなってさ。俺らしくないって思ったけど、ほんと、怖くて。良かった、本当に良かった。ありがと、マサ」
「礼を言われるようなことはしていないが、お前の心が軽くなったなら良かった」
胸に手を当てて語る音也の言葉に、真斗は優しく耳を傾けていてくれた。真斗のそういうところが、音也は好きなのだ。無条件で安心する。まるで温かい巣に戻ってきたかのような、大いなる愛に包まれているかのような感覚に浸ることが出来る。一見真面目で、冷たいだけの人間のように思える真斗を苦手視している人間もいるが、真斗がそんな人間ではないことを、音也は一番良く知っている。
一段と強い風が吹く。真斗がきゅ、とやや強めに半纏を引き寄せたのを見て、音也は思わず声を掛けた。
「あ、マサ、寒くない? 俺の上着、貸そうか」
「いや、これがあるから大丈夫だ。ありがとう」
半纏を引き寄せてそう答える真斗の剥き出しの手が、赤くなっていることに音也は気付いた。
「でも手、冷たそうだよ。俺の手、温かいから触ってみる?」
音也は自分の手を差し出した。今日のように肌寒い季節でも、音也の手が冷たくなることはほとんどなかった。真斗は躊躇いがちに手を伸ばし、音也の手をぎゅっと握って、目を見開いた。
「本当だな。お前のどこにそんな熱があるんだ?」
「へへ。俺、昔っからこうなんだよな。マサの手、やっぱり冷たいから、暖まるまで握っててあげる」
「ありがとう」
手を通して、音也の体温が真斗の身体に流れ込んでいくような感覚がした。音也はもう片方の手も伸ばして、真斗の手全体を覆うように握り締めた。真斗の手が、これ以上冷たくなりませんように――
真斗の手は冷たくて柔らかかった。肌は繊細ですべすべしている。この手から、たくさんの音楽が生まれるのを、音也は知っている。真斗の弾くピアノは、いつだって音也を夢中にさせた。クラシック音楽は詳しくないが、真斗の弾く曲なら、なんだって素敵だと思えるようになった。
真斗の手がじわじわと温もりを取り戻していくのと比例して、音也の心拍数が上がっていく。不思議な感覚だった。先程までこれほど落ち着くことはないと思っていたのに、なんだかそわそわしてしまう。それを察したのか、真斗が怪訝そうな目を向けた。
「一十木、どうした?」
「あ、ううん……なんかちょっと、そわそわするなって思って」
「そうか? 俺は、お前に握ってもらえてむしろ落ち着いたが」
真斗にそう言われて、音也の心臓は一段と高く跳ね上がった。なんでだろう、と音也は無邪気に笑う。何故だか頬まで熱くなってくるような気がした。不思議な感情が、喉元まで込み上げてきた。口からうっかり飛び出そうになって慌てて呑み込んだけれど、それで感情の正体が分かるわけでもなく。
それでも――言えることが、一つだけある。
「離したくないな、マサの手」
だって、こんなにも優しくて、温かいから。
音也は胸の高鳴りを感じながら、まるで繊細な壊れ物を扱うかのように、一層優しく真斗の手を包み込んだ。
その感情が恋だってことにすら気付かずに、二人でほのぼの、もやもやしてたら可愛い(2011.8.9)