その日は、朝から雨が降り続いていた。
 梅雨の季節とはいえ、こうも連日雨ばかり降られると気が滅入る。雨そのものは決して嫌いではなかったが、洗濯物は乾かなくなるし、休み時間に外で過ごす楽しみもなくなるしで、そろそろうんざりしてくる頃だった。
 放課後、真斗は図書館へ向かった。定期試験の勉強をするためだ。本来は来週テストのあるダンスの練習を中庭でするつもりだったのだが、雨が降っていたため中止になったので、仕方なく予定を切り替えたのだ。
 早乙女学園がアイドルになるための専門校だとはいえ、ただ歌を歌っているだけで良いということは全くない。作詞の課題も頻繁に出されるし、基礎的な音楽の知識を蓄えることも必要になってくる。
 真斗はいくつかの教科書とノートを持って、図書館の開いている席に座った。図書館は静かで、微かに生徒達が本棚を巡る足音、本や教科書をめくる音、そして外の雨の音が聞こえてくるだけの、快適な空間だった。自室に戻って勉強しても良かったのだが、あの不真面目な同室者がいたらまた面倒なことになりそうだと懸念した結果、その案は却下された。
 ふと、その同室者の顔が頭の中に浮かんでくる。一切勉強などする素振りすら見せたこともないくせに、あれで定期試験はぎりぎり通っているというのだから驚きだ。それも才能、と片付けてしまえば楽なものだが――そんな才能があってたまるものか、と真斗は眉間に皺を寄せる。同室者の顔を頭から振り払い、真斗は教科書を開いてテスト範囲のページを確認し始めた。


 しばらく重要語句を確認し、ノートに書き留めていた、その時だった。図書館の心地よい静寂が、外からの侵入者によって破られたのは。
「マサーっ! ここにいたんだね!」
 聞き覚えのある声に、真斗は顔を上げた。図書館の入り口には同じクラスの友人が立っていて、真斗に向かって大きく手を振りながらこちらへと歩いてくるのが見えた。静寂を破られたことに対する周囲の抗議の視線など、ほとんど気にしていないらしかった。
「マサ、良かった。探してたんだよ、さっきから」
 無邪気な表情で真斗の目の前に立つ音也を、真斗はたしなめた。
「一十木。ここは図書館だぞ。あまり大声で話すべきではない」
「あっ! そっか、ごめん……迷惑だよね、うっかりしてたよ」
 音也は今気付いたとでもいうようにしまった、といった表情をして、口を手で覆った。
 彼に悪気がないのは分かっているが、少し不注意な部分があるのは否めない。そういう部分を除けば、本当に良い奴なのだが――真斗は小さく溜息を吐いた後、音也に言葉を促した。
「それで、俺を探していた、というのは?」
「あっ、そうそう」
 音也はぽん、と手を叩いて、テーブルの上に置かれていた真斗の左手を躊躇いなく握った。
「ちょっと来て。いいもの見つけたんだ!」
「お、おい、一十木……!」
 音也の強い力に引かれて、真斗は立ち上がる。教科書やノートをまとめる間もなく、そのまま図書館の外へと連れ出されてしまった。何の罪もないはずの真斗にまで、周囲の非難の目が突き刺さるのを感じたが、それすら振り払ってしまうのではないかと思うくらい、音也の力は強かった。
 音也は大股で廊下を歩いていく。真斗は必死にそれについていきながら、音也に尋ねた。
「一十木、一体何があるというんだ。そんなに急いだりして」
「多分、あんまり長い間見られないものだと思うからさ! マサにも早く見せようと思って!」
 音也の声が興奮気味に弾んでいる。余程楽しいものを見つけたのだろうか――音也の言葉の情報だけではそれが何なのか判断しかねたが、彼は楽しいものを見つけるのがこの上なく得意だ。今日もきっと、そんな音也のセンサーが反応したのだろう。
 そしてそのセンサーに反応したものは、真斗にとっても楽しいと感じるものが多く――

「ほら、マサ! あれだよあれ!」

 校舎を出てしばらく歩いたところで、音也が上空を指差す。つられて視線を上げた真斗は、これは、と思わず感嘆の溜息を洩らした。
「虹……」
 いつの間にか雨は止んで、何日かぶりの太陽が雲間から覗いていた。そんな空にかかる、七色の淡い光の橋。それぞれの色の境界は曖昧で、少しでも天気が変わればすぐに消えてしまいそうな薄さではあったけれど、そこから感じるのは儚さではなく、むしろ明るい希望だった。真斗はしばらく無言で、その美しい橋を見上げていた。
「ね、綺麗でしょ? マサに見せたかったんだ」
「ああ……こんなに綺麗な虹は久しぶりに見た」
 再び虹へ視線を戻し、音也がしみじみと言った。
「最近、ずっと雨続きだったもんな。ダンスの練習の予定も流れちゃったし、翔たちとサッカーもできなくて、なんかやだなー、って思ってたとこだったから、嬉しくってさ」
「ああ、俺もしばらく洗濯が乾かなくて困っていたからな……気分が晴れた。ありがとう、一十木」
「ううん! 良かった、マサに喜んでもらえて!」
 音也のセンサーは間違っていなかった、と真斗は実感する。彼はいつも、思わずわくわくするような胸躍る出来事を見つけてくる。それを周りの人間と共有しようとする。それが真斗にとっては嬉しかった。先程の図書室での出来事のように、少し周りが見えなくて突っ走り気味のところはあるけれど、音也はそれ以上に真斗を楽しい気分にさせてくれるから、そんなところすら微笑ましく思えてしまうのだ。
 余韻を噛み締めるように、両手の拳に力を入れる。と――左手が何か柔らかい感触を掴んで、真斗は驚いて視線を落とした。音也もそれに気付いたのか、二人は同時に自分たちの手を見て――慌てて、絡められた指と指を引き剥がした。
「うわっ! ご、ごめん! 俺、握ったままなの忘れてて!」
 音也が真斗をここで引っ張ってきたままの体勢で、二人は我を忘れて虹を見ていたのだ。
 端から見れば、男二人が手を握り合ったまま立っているなんて、さぞかし奇妙な光景に映ったことだろう。雨が上がったばかりで、周囲に誰もいないのが幸いだった。
「いや……俺こそすまない、痛くはなかったか?」
「ううん、俺は平気だけど、マサこそ何ともなかった?」
「俺も平気だ、すまなかった」
 そう言った後で、まだ少し音也の温もりが残った手を見つめる。虹を見ている間は本当に、音也と手を握っていたことなんて、すっかり頭から抜け落ちていたのだ。虹に夢中になっていたというのももちろんあるが、音也とそうしていても不快感を感じないほど、自分の中で自然な行為となっていた、というのもあるかもしれない――そこまで考えが至って、真斗は気恥ずかしさが込み上げてくるのを感じた。音也は大切な友人だが、何か妙な方向へ思考が飛んでしまったような気がする。音也に悟られぬように表情筋に力を入れながら、真斗はそっと頭の中で、先程生まれた考えを消し去った。
「マサ? どうしたの、ぼうっとして?」
 いつの間にか、音也に顔を覗き込まれていたことに気付く。真斗は慌てて首を横に振った。
「いや、何でもない」
「そう? ならいいけど」
 そう言って、音也は再び虹の方へ視線を向けた。
「ほんと、きれいだよね。ずっと見てたいよ、ここで」
「ああ、そうだな」
 相槌を打って、真斗は隣で明るい表情を見せる音也をそっと盗み見た。先程の思考はともかく、音也がいつも自分に愉快なことを運んでくれるというのは、まごうことなき事実だ。そして真斗はそんな友人を、とても好ましく思っている。タイプはまるで違うが、これからも付き合っていきたいと、心から思うほどに。
「あ、今、いいフレーズが浮かんだかも! 書き留めとかなきゃ!」
 音也はぽん、と手を打った後、ポケットからシャーペンと小さなメモ帳を取り出し、何か書き始めた。真斗は表情を緩めて、そんな音也を見る。
「えーと、『雨上がりの虹、君と一緒に見たくて』――っと」
 微かな感情が、真斗の胸を掠める。それをそっと胸の奥に押し込めて、真斗は淡い光を放つ虹に、もう一度意識を向けた。自分の中でも生まれたフレーズを、心のメモに書き留めながら。


この二人の組み合わせが好きです。タイプの全然違う二人が仲良しっていうのが可愛い。恋愛未満でもがっつりラブラブでも(2011.8.6)