甘え下手男子に萌えた結果。なっちゃんが意外に甘え方分からなかったり躊躇ったりしてたら可愛いなあと(2011.11.7)
「……はぁ」
寮の部屋でヴァイオリンの手入れをしながら、那月は無意識に溜息をついていた。思わず手を止めて、飴色のヴァイオリンをまじまじと見つめる。ニスの光沢がとても眩しいものに思えて、那月はきゅっと目を閉じた。
もう何年も触れてきた楽器のはずなのに、今の自分の手には馴染んでいないような気がする。きっと表現に迷っているからそう思うのだ、それを頭で分かってはいても、那月は旧友に絶交されてしまったかのような寂しさを覚え、胸が痛んだ。
先日、卒業オーディションで歌う曲に那月のヴァイオリンの音を入れられないか、とパートナーの作曲家に提案された。そこまでは良かったが、いざ弾いてみると、なかなか納得のいく表現ができないことに気付いた。パートナーは上手い、上手いと褒めてくれるのだが、那月自身は全く納得がいかないまま、今日に至る。収録はまだ待ってくれと言った負い目もある以上、今日中になんとか納得のいく表現を見つけたかったのだが、結局見つからないまま終わってしまった。
楽器をどんなに手入れをしていたわってやっても、弾くのは那月自身だ。那月自身が答えを見つけて弾かなければ、迷いはすぐに音に出る。早くしなければ、けれどもこのままではすっきりしない、という葛藤に苛まれ、那月は再び深い溜息をついていた。
「那月、どうしたんだよさっきから。溜息ばっかついて」
ベッドに寝転んで音也から借りたという漫画を読んでいた翔が、起き上がって那月を見つめていた。
「あ、翔ちゃん……」
一瞬だけ視線を合わせ、俯く。翔は漫画を脇の机の上に置いて、ベッドから飛び降りた。近づいてきた翔の顔がぐい、と強引に迫ってきて、否応なしに那月も顔を上げさせられる。
「お前らしくねーな。なんでそんな、辛そうな顔してんだ」
那月の睫毛の下の瞳が、微かに憂いを帯びる。
「ちょっと、迷ってて……納得のいく表現が、見つからないんです」
溜息が洩れる。翔はふーん、と言いながら、少し顔を離した。
「らしくねえな。いつものお前なら、ヴァイオリンもヴィオラも軽々弾きこなしちまうってのに」
「……でも」
どうしても納得がいかなくて、と言おうとして、那月は口をつぐんだ。
音楽学校に通っていた時もそうだった。自分の意のままに自由に弾こうとすれば、それは良くないと責められ、型通りに弾けば褒めてはもらえるものの、そんなありきたりな表現ではどうしても納得がいかなかった。そんな世界にいるのが嫌で、那月は半ば逃げるようにして早乙女学園にやって来た。
那月の悩みを理解してくれる人間はいなかった。皆那月を天才という都合の良い型に押し込めて、那月の悩みをまともに聞こうとしないのだ。
いつしか、那月は自分の悩みを他人に話すことを止めていた。言ったところで理解されるものではないと知ったからだ。だから翔の前でも口をつぐんだ。翔は那月を天才、と評する側の人間だった。今翔が最も那月の心に近い場所にいるという事実があろうとも、那月の悩みはきっと理解してもらえないだろう。
翔は怪訝そうな顔をして、那月の瞳を覗き込む。
「でも、なんだよ。最後まで言えよ」
「……僕が、待たせてしまっているから。僕のせいで収録を待たせてしまっているのが、申し訳なくて」
視線を逸らし気味にそう言うと、翔ははぁ、と溜息をついて、ズボンのポケットに手を入れ、立って那月を見下ろした。
「お前さ、いっつも俺がやめろっつっても遠慮無く抱き付いてくんのに、今はそうしないのな」
「え……?」
那月は思わず顔を上げた。翔はその視線から少し逃れるようにして、天井を仰ぐ。
「こういう時こそさ、辛いんですって言って、抱き締めりゃいいんじゃねーの」
誰のことを、とまで言わなかったのは、翔の羞恥の限界だったからだろう。その証拠に、翔の頬は、ほんのりと紅色に染まっていた。いつもの翔なら、こんなことは言わない。むしろ那月の抱擁を嫌がり、やめろ、もうするな、としか言わないのに。
けれど今の那月には、その言葉を素直に嬉しいと受け止められるだけの器がなかった。むしろ、ますます思い悩む結果になった。いつものように翔に縋り付けば、少しは沈んだ心も浮き上がるかもしれない、という考えは確かにあった。だが那月の心に浮かんだ二つの感情が、それを邪魔した。一つは、悩みを理解してもらえないかもしれないという恐怖心。もう一つは、自分よりも小さな身体で自分よりも努力している翔に縋り付くことへの、躊躇い。
那月の瞳が瞼の下で揺れた。どうにも動けずにいると、翔は痺れを切らしたように、ああもう、と言って、髪をくしゃくしゃと掻いた。
「なんなんだよ、お前。俺、そんなに頼りない? お前より身長低いから? お前より年下だから?」
「そうじゃない、そうじゃなくて……」
「じゃあなんなんだよ。溜息連発するくらい辛いんなら、一人で抱え込むなよな!」
翔はびしり、と人差し指を突き付けた。那月は思わず背筋を伸ばす。
「お前にとって、俺は何なんだよ。都合のいい時だけ抱き締められるぬいぐるみか?」
「違います! 翔ちゃんは、僕の……」
「僕の、なんだよ」
翔が顔を覗き込んでくる。那月はもう、視線を逸らさなかった。
「……恋人で……一番大切な人、です」
「……っ、なんか直接言われると……」
翔はみるみるうちに赤面し、顔を逸らして口を手の甲で覆った。少しの沈黙の後、吹っ切るように、翔は再び那月の方に顔を向ける。
「じ、じゃあ、ちょっとくらい頼れよな! 恋人、なんだったら、甘えたっていいだろ……」
真っ赤な顔のまま、翔はおそるおそるといった様子で、両手を広げる。
「ほら……よ。来いよ、いつもみたいにさ」
那月はヴァイオリンをケースにしまい、立ち上がった。いつものように勢いよく、ではなく、躊躇いがちに手を伸ばす。翔の背に手を当てて引き寄せると、翔の温もりがじんわりと全身に伝わってきた。翔のやや速い、鼓動の音も。
「……翔ちゃんは、こんなにも温かかったんですね」
やわやわと、壊れ物を扱うように抱き締める。密着度はいつもより低いはずなのに、冷たかった那月の全身が翔に触れて確実に熱を帯びていくのが分かった。翔はバーカ、と言いながら、那月の胸に顔を埋める。
「……いっつも抱き締めてるくせに、今更恥ずかしいこと言うなよな……」
独り言のように言ってから、那月に尋ねる。
「いつもみたいに、もっと強くしねーのかよ」
「うん……これ以上力を入れたら、翔ちゃんが壊れてしまいそうだから」
加減をしなければ、悩みの根の深さの分だけ、思い切り力を入れてしまいそうだから。
なんだよ、という小さな不満に似た響きの声と共に、背に回された翔の手が那月の服を思い切り握り締める。
「いつも俺の関節鳴らすくらい力入れてるくせに。これからも今みたいに加減しろよな」
「うん、僕頑張るね」
全身に行き渡った熱が、今度は心に降りてくる。悩みの種がこれ以上育たないように、翔に分け与えてもらった熱が、伸びた根をじわりじわりと焦がしていく。心地よい感覚に、那月は思わず目を閉じた。胸の中で、翔が小さく呟く声が聞こえた。
「……お前って、意外に甘えんの下手なんだな……これからも辛いことあったら頼れよ、一人で抱え込むな。いいな」
「うん……ありがとう、翔ちゃん。大好き」
「ッ、不意打ちは反則、だっつの……」
翔の頭が少し引いて、胸にこつんと当てられる。愛おしさが込み上げて、那月はもう少し、翔を抱き締める腕の力を強めた。
甘え下手男子に萌えた結果。なっちゃんが意外に甘え方分からなかったり躊躇ったりしてたら可愛いなあと(2011.11.7)