「ねえ、これトキヤも聴いてみてよ! すごいんだって、マサの歌!」
 音也の嬉しそうな声と同時に、先程聴いたばかりの歌声が脳裏に蘇る。
 寮の廊下を歩きながら、トキヤは未だに受けた衝撃を消化できずにいた。音也に半ば強引にCDを渡されて、半信半疑で聴き始めた曲。ヘッドフォンを耳に当てるトキヤの表情はみるみるうちに変わり、ついには全神経を集中させて、歌声に聴き入っていた。
 CDに収録されていたのは、Aクラスに所属する聖川真斗の歌声だった。音也曰く、先日のレコーディングテストで録ったものだ、というのだが――
 ――あそこまで、吹っ切れるものなのだろうか。
 聖川真斗という人物のことを、トキヤはよく知らない。自分と同室で、真斗とクラスが同じの音也に色々と話を聞かされるという、その程度のものだ。だが、その佇まいから受ける印象、音也の話を総合して、彼は冷静で生真面目な人物であるという印象がトキヤの中にあった。まるで何事にも動じない、静かな水面のような――だがその印象は、先程の歌声を聴くことによって、あっさりと逆転してしまった。
 真斗の印象からはかけ離れた、強く激しい曲だった。強い雨が地面を叩くかのような激しいピアノの音、それに合わせて打ち鳴らされるドラム。吹っ切れたように歌う真斗の声が、やけに印象に残っている。
 彼は、こんなふうに歌うのか。音也があれだけ興奮していたのも無理はない――トキヤは聴き終わって机の上にヘッドフォンを置きながら、しばらく呆然としていた。ね、すごいでしょ――そんなふうに興奮気味に尋ねてくる音也の声にすら、反応できずにいた。
「……少し、考え事がしたいので」
 音也にそう言って、寮の部屋を出てきた。あてもなく廊下を歩きながら、トキヤの頭の中では何度も何度もあの歌声が再生されていた。世の不条理に喘ぐような、どうにもならない現実に足掻くかのような――しかし真っ直ぐで強いメッセージ性のある歌詞は、トキヤの心に直接響いた。
 もう一つの顔、HAYATOとしての芸能活動をいまいち割り切れなくなっていたトキヤがその真斗に向けたのは、羨望だった。自分もあんなふうに吹っ切れたら、もっと毎日が楽しいかもしれないのに。トキヤは胸の痛みを覚えて、思わずその場に立ち止まる。服を掴んで、痛みに耐えようとした。表情が苦痛に歪む。
 こんな思いをしなければいけないのは、やはり自分のせいなのか。割り切ってHAYATOという別人して動くことも、ありのままの自分でのびのびと歌うこともできない、自分の――


 その時、二階の廊下の奥に見えた人影に、トキヤは目を見開いた。
 澄んだ海を思わせる瑠璃色の髪が、月光に照らされて鮮やかに映る。バルコニーへと通じる扉を開けて、外へ出ようとしている彼の背を、トキヤは自然と追っていた。
 閉まりかけた扉をこじ開けるようにして手で押すと、それに気付いた彼が驚いたように振り向いた。トキヤの姿を認めて、なんだ、というように肩の力を抜く。
「お前は確か……一十木と同室の」
「一ノ瀬トキヤです。聖川真斗さん、ですね」
 そうだが、と、真斗は頷いた。
 真摯さを窺わせる露草色の瞳が、じっとこちらを見つめ返している。その口調や眼差しからは、落ち着き、それ以上に静寂すら感じさせるのにと、トキヤは改めて衝撃を受けた。この人物があの歌を歌っていたとは、にわかに信じがたかった。
「隣にいても、構いませんか」
「……別に構わないが」
 許可を得て、トキヤはバルコニーの手すりに身体を預ける。夜風が吹き抜けて、トキヤの髪を微かに揺らした。真斗の視線が、横顔に突き刺さる。
「あなたの先日のレコーディングテストの音源を、聴かせていただきました」
「俺の? 一体何故――」
「音也が興奮気味に、私にも聴くべきだ、と勧めてきたものですから」
 真斗はああ、と合点がいったように頷いた。
「そういえば、あのCDは一十木に貸したのだった。どうしても聴きたいと言うから」
 込み上げる思いを抑えきれず、トキヤは言葉を続ける。
「正直、驚きました。あなたはもっと、静かな曲を好んで歌う方だと思っていた。その方が似合っている、とも」
 真斗は言われ慣れた言葉だとでもいうように、小さく溜息をついた。
「皆に言われた。先生にも……俺も元来、こういった激しい曲は自分には合わないと思っていた。だが……作曲家コースのパートナーが、俺の幅を広げてくれた」
 そう言って顔を上げた真斗の瞳が徐々に生き生きとして、輝きに満ちていくのにトキヤは気付いた。真一文字に結ばれていた唇が、おもむろに緩んでいくのにも。
「正直、歌っていてあれほど楽しいと思ったのは初めてだったな。吹っ切れて、別人になれたかのような感覚だった」
 別人。その言葉が、トキヤの胸に突き刺さる。
 真斗はやはり、別人になることを楽しんでいたのだ。だからこそ、あんな素晴らしい歌を歌えた。音也曰くあの歌は最も良い評価を得たらしいが、道理だ、と納得した。歌の良し悪しを決めるのは技術のみではない。声に気持ちを込めて歌うことや、いかに楽しんで歌うかといった要素も重要であることを、トキヤは誰よりも痛感していた。
「……あなたが、羨ましい」
 ぽつり、と出た本音の言葉。一瞬後に我に返りしまった、と思ったが、今更手を覆ったところで、言葉は口に戻りはしない。それを聞いた真斗が、意外そうに目を見開いた。
「羨ましい、だと?」
「私は……演じることが苦痛、ですから」
 一度堰を切って溢れ出してしまうと、もう止まらなかった。トキヤの表情が徐々に歪み始めた。
 本来の一ノ瀬トキヤという人物を、いわば偽ることで、HAYATOという人物は成り立っている。HAYATOを演じ人前で歌うことを、楽しいと思っていた時期があったことは事実だ。だが今は、それも苦痛でしかない。自分ではない何かになりきらなければならないことが、これほどの苦痛を伴うものだとは知らなかったのだ。
 ありのままの自分で歌いたい。そう思って入学したこの学園でも思うように歌えないのは、きっとHAYATOの存在が足枷になっているせいだ――出口のない迷路に迷い込んだような感覚を抱えて、トキヤはここ数日一人で足掻き続けていた。
 だから、本来の自分とは全く違う人物を演じることを楽しめる真斗が、心底羨ましい――トキヤが再び羨望の瞳を向けると、真斗はそれを受け止めて、再び真摯な瞳で見つめ返してきた。
「確かに、自分ではない自分を他人から要求され続けるのは、辛いものがあるかもしれん」
 一定の理解を示しつつも、だが、と真斗は続ける。
「自分ではない他の何かになれる感覚は、辛いばかりではない。むしろ、今の自分のままでは見えなかった新しい世界が見えるようで、俺は楽しい」
 新しい世界――その言葉に、トキヤははっとする。
「俺が元々、演劇が好きなせいもあるだろうが……舞台上で、あるいはレコーディングルームで、別人になりきる感覚が俺にとっては快感だということを、あいつは教えてくれた」
 あいつ、というのはもちろん、パートナーのことを指しているのだろう。真斗にそこまで言わせる彼のパートナーの存在が、トキヤにとっては眩しいものに映った。
 夜空を見上げる。煌めく星々を見ながら、トキヤは今まで自分を苦しめていた窮屈さから解き放たれていくような感覚を覚えた。演じることを楽しむなんて、今まで考えたこともなかった。ただ他人に求められた形で自分を作り上げ、演じる――そんな枠でしか、演技を捉えられていなかったように感じる。その作り上げた人格になりきることで新しい世界を見るだなんて、思いつきもしなかった。
 HAYATOになって失ったものもある。だが、得られたものもたくさんある。自分を見に来てくれる人々の笑顔、温かい声援、そして常に自分を求めてくれる人々の存在――一ノ瀬トキヤのままでは、きっと得られなかったものばかりだ。
 真斗が自分の正体を知ったら何と言うだろう。ただ単純に驚くだけだろうか。それとも、先程のトキヤの言葉をそっくりそのまま返してくるだろうか。お前が羨ましい。二つの顔を使い分けて、同じアイドルとしてのステージに立てるお前が、心底羨ましい――と。
「ありがとうございます、聖川さん」
 トキヤは微笑みすら浮かべていた。
「あなたのおかげで、少し……吹っ切れた気がします」
「そう、か? 俺は何かをした覚えはないが、少しでも一ノ瀬の役に立てたなら良かった」
 僅かに首を傾げつつも、真斗はそう言って小さく笑った。
 真斗のように心底楽しむことはまだ無理だとしても、今なら少しはHAYATOを演じることに心の躍動を感じられるかもしれない――トキヤは清々しい気持ちで、再びバルコニーの手すりにもたれかかって夜空を見上げた。煌めく星が一瞬瞬いて、すっと夜空を横切るのを、トキヤははっきりと見た。


ゲームの演技派真斗様にツボったのと、アニメ7話のトキヤの葛藤に心打たれました(2011.8.26)