「まあ、30日締め切りのレポートは滑り込みで提出できたから、結果オーライかな」
 ベッドでそう言って笑う火照った顔の氷室に、火神は小さく溜息を吐いて、粥を口へと運んでやった。

 深夜までPCの前に向かって大学のレポートを作りながら、明日は講義1限からだからお前と一緒に起こしてくれ、と前日に言っていた氷室。翌日彼の言う通りに、高校生の自分と同じ時間に叩き起こした時から、少し様子がおかしいと思っていた。
 顔は赤いし、目はとろんとしていつものシャープさが消え失せているし、あの氷室にしては珍しく、何かするごとにやたらと深い溜息を吐いていたのだ。朝ご飯を食べるペースも遅く、皿を重ねてシンクに持って行く時には、身体がふらついてさえいた。大丈夫かよ、と火神が声を掛けても、氷室は大丈夫、と微笑むばかりだった。こういう時の氷室が人の援助を決して受けようとしないのを、火神はよく知っている。
 部活終わりに買い物をする予定だったものの、氷室が気になって火神が家に帰ってきたら、既に氷室の靴が玄関に置かれていた。それなのに、リビングには人の気配が全くない。
「タツヤ?」
 一瞬疑問に思ったものの、氷室の場所はすぐに分かった。寝室の扉を開けると、氷室は火神のベッドに潜り込んで、真っ赤な顔で眠っていたのだ。
 吐く息はいつもより熱く、膝を折って彼の額に手を当てた火神は飛び上がった。その気配で、氷室はうっすらと目覚めたようだった。
「ん……タイガ……? ああ、もう帰ってきたのか……」
「んなことより、タツヤ! お前、朝から具合悪かったんだろ、やっぱり!」
「まあ、良くないことは確かだったけどね……」
 弱々しく微笑む氷室に、火神は溜息を吐く。
「なんで言わねーんだよ……」
「心配させるほどのことじゃないよ、ただの風邪だから」
「風邪でも、具合が悪いことには変わりねーだろが」
 氷室が負けず嫌いなのはいつものことだけれど、こうも強がる必要はないのではないかと思う。まるで自分に心配するなと言われているようで、そしてこういう時、自分が頼りにならないと言われているみたいで、火神は言い知れぬ不安に襲われる。表情がやや陰ったことに気付かれたのか、氷室はいつものように優しく笑って、布団から手を伸ばし、火神の頬を柔らかく撫でた。
「そんな顔をするな。タイガは十分優しいし、十分すぎるくらい、オレを大事にしてくれてる」
 だからあんまり心配を掛けたくないんだ、と言う氷室に、火神は顔を俯けて、バカ、としか言えなかった。何故だか目に熱いものが込み上げて、それが溢れ出しそうになるのを必死に堪えなければならなかったからだ。
 ようやくその波が収まって、火神は立ち上がった。
「とりあえずメシ、作んねーと……だな」


 部活帰りでかなり空腹ではあったものの、火神は自分より当然のごとく氷室を優先した。玉子粥を作り、青ネギを散らして、すぐに氷室のいる寝室に持って行く。氷室は身体を起こして、湯気の立ち上る粥の入った土鍋を見て、口元を微かに笑みの形に歪めた。
「食べられるだけ食べればいいから。ムリすんなよ」
 そう言って氷室にレンゲを手渡すと、氷室はありがとうと礼の言葉を述べた。レンゲで粥を掬い、ふう、ふう、と何度か冷ましてゆっくりと口に入れる。何度か口の中で咀嚼した後、氷室はうん、と頷いた。
「うまいよ。タイガ」
「そっ、か。良かった」
 火神もようやく表情を崩す。
「風邪引いたのなんて、いつぶりだろうな」
「昨日遅くまでレポートやってたせいだろ、絶対」
 咎めるように言うと、氷室はレンゲを置いて苦笑した。
「そうかもな。まあ、今日締め切りのレポートは滑り込みで提出できたから、結果オーライかな」
「風邪なんか引いてる時点で、全然オーライじゃねーだろ……」
 呆れながら、強情なことばかり口にする氷室をなんとかしようと、火神はレンゲを手に取って粥を掬い、氷室の口へ近づけた。氷室は一瞬驚くように目を瞠ったものの、すぐさまこの状況を受け入れたようで、口を大きく開けた。
「あーん」
 無意識にそんな言葉が出てしまって、火神はしまった、と思ったが後の祭りだった。氷室もそれに従って、
「あーん」
 なんて言いながらレンゲを呑み込み粥を啜り、小さくこちらを見て笑うものだから、火神は思わず視線を逸らしてしまった。こんなにも恥ずかしいと思ったことはなかった。
 それなのに、追い打ちを掛けるようにして、火神の腹がぐぅ、と大きな音を立てて鳴ったのだ。
 氷室が思わず噴き出し、火神は更に赤く染まった顔を逸らしたまま肩をぷるぷると震わせた。空腹を忘れていた。それが、こんな状況で、こんなふうに思い出させられる羽目になるとは――
 氷室が貸して、と火神の持ったレンゲを奪い、粥を掬うと、火神の顔へ近づけてきた。
「今度はオレの番か。あーん、」
「っ、ちょ、タツヤっ!?」
 唇までレンゲが触れたところで慌てて後ずさると、氷室はそこでレンゲを止めて、おかしそうに声を上げて笑った。火神は過剰反応したことに気付いて、更に顔が熱くなる。
「なんてね。しないよ。オレが食べた後のでお前が食べたら、お前にまで風邪がうつる」
 氷室の気遣いだったのだが、火神はそこではっとひらめいた。良い方法があったではないか。思い立ったら即実行。考え無しとはよく言われるが、それが火神の長所でもある。
「タツヤ」
 ん? と小首を傾げる氷室の唇を、やや強引に奪う。氷室がレンゲを土鍋の中に落としたのが分かった。その手が火神の身体に向かう。押し戻そうとしている。いつもなら決して拒もうとはしないのに。
「タイガ……っダメだ、今日だけは……お前に風邪がうつったら、」
「それでいいんだよ」
 だって、と、風邪のせいでいつもより弱々しい氷室の手を自分の手で強引に下ろしながら、火神は言葉を続けた。
「誕生日に風邪とか、最悪以外の何物でもねーだろ」
 氷室はあ、と小さく声を洩らした。
「今日……10月30日、そうか」
「自分のなのに忘れ……まぁしょうがねえか、具合悪かったんだし」
 火神ははぁ、と溜息をついた。
「オレもさ、昨日思い出して……今日、買いに行こうと思ったけど、タツヤが気になって帰ってきちまったから。ないんだよな、その」
 その五文字を言いにくそうにしている火神を見て、分かっているとでも言うように、氷室は火神の頭にぽんと手を置いて、優しく撫でた。
「ありがとう。オレですら忘れてたものを、覚えててくれただけで嬉しいよ」
「でも」
「タイガには伝わらないんだろうな、オレはお前みたいに、全身で感情を表現しない人間だから」
 でもな、と氷室は心から嬉しそうに笑う。
「覚えててくれたってことは、オレがそれだけお前の中で大きい存在だってことだろう? こんなに嬉しいと思ったことは、生まれて初めてだよ」
「タツヤ……」
「お前の中でそれだけ大きな存在になれたこと、それ自体が……オレにとっては奇跡のようなことなんだ」
 きっと伝わらないだろうけれど、と氷室は火神の額にキスをした。普段より少し火照った氷室の唇は、火神まで熱に浮かされそうになるくらい、魅惑的なものだった。もっと、タツヤが欲しい。明確な言葉が、火神の胸にすとんと落ちる。
「Happy Birthday, Tatsuya」
「Thank you, Taiga. I love you…I don't wanna lose you.」
 二度目の言葉は、より強く。
 同時にひしと抱き締められて、火神はとろんとした瞳で氷室の背に視線を落とす。無駄な肉がなくて、白くてきめ細やかな肌で覆われた氷室の背が、火神は好きだった。氷室の身体はいつもより熱い。溶けてしまいそうだと思った。
 とろけそうになった理性を、ようやくのところで繋ぎ止める。氷室は風邪を引いていて、しかも誕生日だというのに、これでは自分が満足してばかりだ。火神が作ったものといえば、さっきの玉子粥だけ。今からどこにも行かずに氷室にあげられそうなものなんて何もない。
 あるとすれば、それは――思い付いたところで、まさか自分の頭からそんな発想が出るとは夢にも思わず、火神は赤面した。それでも負い目は少しでも減らしておきたいというのが、火神大我の性分だった。
「タツヤ……あのさ」
「何だい?」
「誕生日プレゼント、用意、できてねーから……だから」
「だから……?」
「その……オレのこと、す、……っあぁ! もう!」
 なかなか言葉を紡いでくれない喉を煩わしく思った火神は、吹っ切るように思い切り叫んだ。

「I'M ALL YOURS!!」

 こういう時、どうして英語の方がすんなりと出てくるのだろうと思う。しかも、とてつもなく恥ずかしい言葉だと、分かっているはずなのに。
 氷室は熱っぽい吐息を洩らした。一瞬、気に入ってもらえなかったかとひやひやしたが、それが杞憂であることを、火神は知る。氷室の手が背から離れて、火神の胸元に到達した。シャツから僅かに浮き上がる突起に触れながら、火神の首を甘噛みした。一番敏感な場所に触れられて、火神の肩は目に見えて波立った。
「ぁ、タツ、そこ……ッ」
「その言葉、今日限定、なんて言わないよな?」
 氷室の目が真剣さを帯びていた。火神は頬を真っ赤にしたまま、こくりと頷いた。途端に氷室の息が上がる。首筋には歯を、乳首には布越しに爪を立てられて、火神は僅かに身体を仰け反らせた。
「どこでそんな誘惑の仕方を覚えたんだ……タイガ、お前はオレが教えなければ何も分からない、小さくて可愛い子どもだったのに」
「べ、別にオレは、誘惑なんてっ」
「自覚がないのは、更にタチが悪い。お仕置きが必要かな」
 火神がごくん、と唾を呑み込んだ瞬間――なあんて、と、そこで氷室は先程までの張り詰めた空気を解いて、火神に笑いかける。
「風邪のオレが、そんなことできるわけないか」
 火神は安堵したように溜息を吐いていた。氷室が度々纏うこの空気は、いつも息が詰まったようになる。嫌いではない、のだけれど。
 氷室は深く息を吐き出した後、火神を真っ直ぐ見つめた。
「さっきの言葉……オレが風邪で可哀想だから、同情してるんじゃないよな」
「同情だけで、オレがあんなこと……言えるかよ。わかってんだろ、タツヤなら」
 拗ねた子どものように口を尖らせると、氷室は何故か、自嘲気味に笑った。こんな表情を見たのは初めてで、火神は少しばかり戸惑った。
「自分が嫌になる。確実なものなどこの世に何一つないと分かっているくせに、どうしても欲しくなる。オレはタイガ以上の子どもだよ」
 氷室の言っていることの意味が理解できなかった。氷室はたまに、こういう回りくどい言い方をする。照れで言えないことはありつつも、言いたいことは直球で言う火神とは違うのだ。氷室ほど頭の回転が速いわけでもないから、火神はその都度戸惑いを覚えることしかできない。
 氷室は出会った時から火神の目標で、なんでもできる、格好いいお兄ちゃんだった。そんな彼が火神より子どもだなんて、あるわけがないのに。
「ごめん。熱のせいで、いつも以上に精神が不安定になっているみたいだな」
 氷室はそう言って乾いた笑いを洩らした。途端に火神は悲しくなった。氷室のそんな顔を、こんなおめでたい日に見たくない。そのためにもあの言葉を言ったのに、どうも氷室はその言葉が引き金になって、色々と悩み始めてしまったようだ。
 もう横になるよ、と言いかけた氷室の唇を、再び奪っていた。今度は離さないと言いたげに、強く、深く。お互いの息が止まりそうになるまで続けた。タツヤ。火神ははっきりと名を呼んだ。照れよりも羞恥よりも、自分の前で笑ってくれる氷室を、自分を愛してくれる氷室を失いたくない気持ちが勝った。少し疲れたせいか、顔を火照らせてとろんとした瞳でこちらを見つめてくる氷室に何とも言えない気持ちが込み上げ、火神は俯き、ベッドのシーツを握り締めた。
「これからもずっと、オレはタツヤのものだから……タツヤに何されたって構わないから……だから、オレを捨てないでくれ。オレをずっとタツヤのものにしてくれ」
 ふと顔を上げると、氷室の目から一筋の雫が零れ落ちて消えていった。氷室の口が動く。ばかだな。震えた小さな声は、何故かはっきりと火神の耳に届いた。
「その台詞は、ずっと……オレが言うべき立場にいたのに」
 氷室は笑っていた。その笑いが果たして自嘲から出たものなのか、それとも喜びから出たものなのか、火神には判断がつかなかった。だが、氷室に抱き締められて、氷室の答えが応であることを、はっきりと悟る。
「……離したりするものか。死ぬ思いをして、ようやくお前を手に入れられたのに」
 氷室の温もりは、幼い頃から火神の拠り所だった。色々と行き違いがあって、それでも未練を断ち切れず、日本に帰り仲間を得てからようやく少しずつ立ち直れてきたかという時に、氷室と再会してしまった。当然その心が揺るがないはずはなく、氷室に自分たちは敵同士だから、お前の兄にはもうなれないから、と拒否されながらも、氷室を求め続けた。ようやく絡み合った茨を断ち切って、氷室と二人きりになれた。ずっと求めていたものに、愛し愛される喜びを知った。それだけでも十分なのに、普段なかなか表情の読み取りづらい氷室まで、同じことを思ってくれていたとは――
 火神は幸せを噛み締めるように、顔を上げて深く息を吐き出した。


氷室さんハッピーバースデー! かがみんとお幸せに!(2012.10.30)