大学受験のために氷室辰也が上京してきたのは、年が明けてすぐのことだった。
 スポーツ推薦の枠を蹴り、自ら東京の有名私学の一般試験を受けると決めた彼に、もったいないことすんのな、と火神が言うと、氷室は唇の端を軽く歪めて笑った。
「やるなら正々堂々やろうと思って。ここに入る頭がないからスポーツ推薦で入ったんだろ、なんて陰口は聞きたくないしね」
 負けず嫌いな氷室らしい言葉だ、と火神は妙に納得した覚えがある。受験のぎりぎり前までバスケに打ち込んでいたのに、彼の成績は常にトップレベルで、模試の合格判定もAをキープし続けていたと聞いた。
 最初は高校の教師達に何故推薦を蹴るんだと責められたらしいが、何を言われようとも氷室の考えは変わることがなかった。実力で勝ち取るのなら、誰も文句は言うまい――実際にその実力を見せつけられて、教師達も両親も折れたようだ。足りなければ努力して実力で示す、自分がこうと決めたらてこでも動かない、そんな氷室を見て、自分のことでもないのに、火神は妙に誇らしい気分になっていた。
 試験前日に火神の家にやって来た氷室は、夕食のシチューをうまいと2杯もおかわりして、火神には難解不読な参考書はちらりと一瞥しただけで、オレはもう寝るから、と風呂に引っ込んでしまった。テスト前以外に勉強などしたためしのない火神でも、さすがにもう少し緊張感があっていいものではないのかと思ったが、氷室曰く、試験前は睡眠とリラックスが一番大事、とのことらしい。大切な行事のある日の前日に眠れたことのない火神とは正反対だ。その鷹揚さすら感じさせる余裕の態度に、火神はますます氷室への尊敬の念を強めるのだった。
 試験当日の朝、見送ろうと起きてきた火神の顔を見て、氷室は真っ先に噴き出した。
「タイガ、目、真っ赤だぞ。もしかして一睡もしてないんじゃないか」
「あー…おう、まあ、な……」
「これじゃまるで正反対だな。どっちが試験を受けに行くんだか」
 口元に軽く手を当てて笑う氷室の顔を見ていられずに、火神は頬を赤らめて視線を逸らした。氷室が試験で実力を発揮できるかどうか、火神の目から見れば完璧な彼がしくじるところなど想像もできるはずないのに、妙に不安になって、結局もだもだしていたら朝になっていた。我ながら心配性も度が過ぎると思う。
「じゃ、行ってくる。昨日はありがとう、世話になったな」
 支度を終えて部屋を出て行こうとする氷室に、火神は躊躇いがちに言った。
「あの、さ……別に縁起担ぎとか、そういうわけじゃねぇけど」
「ん?」
 小首を傾げた氷室の黒髪がさらりと揺れる。火神は右手に握り締めていた、「きっと勝つ」という言葉に結びつけて受験生によく配られている有名なチョコレート菓子を、氷室に差し出した。
「コレ……試験中腹が減るかもしんねぇし」
 そういう意図で渡したわけではないのに、どうしても素直な言葉が出てこない。それでも氷室は察してくれたようで、嬉しそうに口元を綻ばせた。
「ありがとう。もらっておくよ」
 そう言うと、氷室はその場で袋の上からぱきり、とチョコレートを二つに折った。袋を開けて割れた半分を取り出し、火神に差し出す。
「はい」
「え? でもコレ、タツヤの……」
「いいから」
 戸惑いながらも受け取ると、氷室はもう半分を摘んで取り出し、口の中に放り込んだ。体温で少し溶けて指先についたチョコレートを、ちろりと赤い舌で舐め取る仕草に、火神は妙に目を奪われた。氷室は唾液の付いた指先に軽く息を吹きかけてから、再び唇を笑みの形に歪めた。
「お守り代わりに、胃袋の中に入れておくよ」
 じゃ、電車の時間来るから、と軽く手を振って、氷室は部屋を出て行った。チョコレートを手のひらの上に載せたまま、火神はぼんやりと氷室を見送っていた。
 手のひらの熱で溶けて、チョコレートがしみだしてくる。我に返って慌てて片方の指で摘むも、滑り落ちそうになるくらい溶けていて、火神は急いでそれを口に放り込んだ。
 甘ったるい味が口の中に広がる。普段甘い物をあまり口にしない自分にとっては、頭がくらくらしそうになるくらい甘かった。手のひらのチョコレートを氷室のように舐め取ってから、やっぱり洗った方が早いかと思い直す。
 洗面台に向かい、蛇口をいっぱいに捻って洗い流した後、自然と口から欠伸が洩れる。もう一度寝直すか、と火神は寝室に向かった。
 タツヤはきっと大丈夫だ、だってタツヤだから。チョコレート菓子を口に入れて微笑んだ氷室の顔を思い出すと、一気に緊張が解けた。火神はそのままベッドに倒れ込み、死んだように昼間まで眠り続けた。


 氷室が次に上京してきたのは、第一志望の大学に見事合格し、卒業式を終えたそのすぐ後のことだった。
 こっちで住む部屋を探さなきゃいけないんだ。合格を祝う火神に軽く微笑んでから、氷室は火神の淹れたコーヒーをすすり、明るい声でそう言った。
「タイガは、オレがここにしばらくいると、迷惑か」
「え? いや、んなわけねぇよ、どうせずっと一人だし……でも、なんで?」
「部屋を探す間、ここにいさせてもらえないかと思って」
 四年間住む部屋だから、じっくり探して決めたいんだ。氷室はそう言って、テーブルに両腕を載せて火神を見つめた。ふうん、と何気なく相槌を打ちながら、火神の中で、何かがむくりと首をもたげる音がした。氷室とこの部屋で暮らす。元々父親と暮らすはずだった部屋を一人で使っている状態だから、氷室一人受け入れるくらいわけはない。だが氷室がここに加わることで、自分の生活は一体どう変化してしまうのか。その未知の可能性に、火神は知らず知らずのうちに心を躍らせていた。
「タイガに受け入れてもらえなかったら、路頭に迷うところだったよ」
 まるでその可能性など一ミリも考えていなかったかのような口調で氷室は言う。無論火神としても、氷室を受け入れないという選択肢はなかったのだが。
 飲み終わったカップを持って台所の流しに向かいながら、そういえば、と氷室が言った。
「住まわせてもらうんだから、家事の分担をするべきだよな。オレは何をすればいい?」
「別にいいって、オレもうだいたい慣れてるし。一人増えたところで別に大したことねーよ」
「そういうわけにはいかないだろう。確かに、一人暮らしに慣れてるお前と違って、実家暮らしだったオレが即戦力になれるかというと、自信はないけど」
 じゃあ、と火神は俯いて考える。料理は得意でもあるし好きでもあるから、なるべく自分が続けたい。家事未経験だというなら、機械を操作するだけでもできる洗濯や、掃除なんかが良いかもしれない。氷室にそう伝えると、わかった、と氷室は頷いた。
「やり方だけ教えてくれ。後は多分大丈夫だ」
 実際、氷室の家事は粗がなかった。一度教えただけでここまでできるものかと、火神は面食らっていた。自分でさえ、慣れるまでたっぷり一ヶ月はかかった。飲み込みの早い氷室は、洗濯機を回している間に掃除を一通り終わらせ、綺麗な指でしわなく伸ばしながら衣類を干して、乾いたら服屋に並んでいるものかと思うくらい丁寧に畳んでタンスに入れるところまで、そつのない動きで家事を終わらせた。
 それだけでなく、ここに来て一週間もしないうちに、いつの間にかアルバイトまで探しだして働き始めていたのには驚いた。聞けば買い物に出た際、商店街でたまたま立ち寄った老夫婦の経営する八百屋で少し手伝いをしたら、その間一気に女性客が増え、その後も手伝ってもらえないかと申し出があったという。氷室の整った端正な顔立ちは、主な購買層である奥様方を惹き付けるにはもってこいだったのだろう。恋愛事に疎い火神でも、氷室が年齢問わず女性の目を惹き付ける存在であるということは、彼の隣を歩くうちに理解するようになっていた。
「今日は新キャベツが安いんだけど、夜はロールキャベツにでもする?」
「んーそうだな、新キャベツなら歯ごたえもあるし生で食べるのもうまそう……半分はロールキャベツにして、半分はサラダにするか」
 客として訪れた火神と、氷室は営業トーク込みでその日の夕食のメニューを話し合う。その間も訪れる他の客に愛想を振りまく氷室を見ながら、火神は誇らしい気分になり、そして同時に、ちりちりとくすぶるような何かが芽生えるのも自覚した。今までに味わったことのない感情だった。正体不明の感情を必死に整理しようとしている間、火神の視線はずっと氷室を向いていた。やがて向こうもその視線に気付いたのか、泣きボクロのある方の目でそっとウインクをされて、火神は思わず視線を逸らした。何故だかわからないが、顔から火が出そうだった。踵を返し、挽肉を買いに肉屋に向かった。
 火神が夕飯を作り終えた頃に、氷室は家に帰ってくる。ただいま、という聞き覚えのある声に安堵しつつも、火神は夕方のことを思い出して、なんとなく顔が見られなかった。ぶっきらぼうな口調でおかえり、とだけ言うと、氷室が怪訝そうに、キッチンに立ったままの火神の顔を覗き込んできた。
「タイガ? どうしたんだ、顔が赤いぞ。熱でもあるのか」
「べ、別に。なんでもねーって」
 煮込み終わったばかりのロールキャベツを皿によそい、氷室に押しつけるように渡す。
「はいコレ。タツヤのリクエストの」
「ああ……ありがとう。うまそうだな」
 驚いたように受け取り、やがて氷室は顔を綻ばせる。テーブルの上にそれぞれのロールキャベツと、千切りにしてトマトと人参の彩りを添えたキャベツサラダを置いて、二人は腰を下ろした。スープはキャベツの入ったコンソメスープ。まさにキャベツ尽くしだ。
 いただきます、と二人同時に手を合わせた後、箸を持った氷室の手が、ふと止まった。
「タイガ、なんで夕方、オレのことをじっと見てたんだ」
 心臓が止まるかと思った。
「べつに、ただ、ぼーっとしてただけで」
「オレにはそんなふうに見えなかったな。いつもと違う目をしていたよ、あの時のタイガは」
 氷室は全てを見透かすような瞳で、火神を射抜いた。
「お前の心に宿った感情を教えてやろうか。タイガ」
「え……」
「嫉妬。独占欲。違うか?」
 氷室が火神に覆い被さるように、身を乗り出してきた。火神は思わず後ずさりしていた。白い蛍光灯が視界から消えて陰が落ちる。氷室の目は、いつもの優しい兄の目ではなかった。唇の端に刻んだ笑みは、穏やかなそれではなかった。喩えるならば、そう、獣のような。それでいて野性味を感じさせない、誇り高き龍のような。
「タイガ、それが自分の感情だと……自覚できるか? わからないか?」
「……わか、らない……オレは……」
 視線を僅かに彷徨わせ正直に答えると、氷室は小さく笑った。
「そうか、ならそれでいいんだ」
 氷室はすっと身体を引いて、何事もなかったかのように食事を再開した。火神はしばらく、食事に手を付けることを忘れていた。嫉妬。独占欲――その二つの言葉が、幾度も幾度も頭の中を巡った。知らない言葉ではなかった。けれども、自覚したことのない感情だった。
 それって、つまり、オレは、タツヤを。
 普段通りの優しい目をして、穏やかに食事を進める兄貴分を見つめた。途端に胸から何かが込み上げてくるのを感じ、火神は咄嗟に目を逸らした。初めての感覚だった。はたと我に返って、頬が熱くなっていることに気付く。
 病気ではないかと思った。そうだ、きっと、これは病気なのだ。火神は早く身体を休めることにした。生まれた感情をどこかになすりつけて、消してしまいたいと思った。だって、決してそれは、快い感情ではなかったから。


 春休みに入った火神は、バスケの練習に出ながらも、オフの日は氷室の部屋探しに付き合っていた。不動産屋で紹介された物件を一つ一つ見て回りながら、ここは設備がこうで、立地条件はどうの、とあれこれ好きに言い合うことにしていた。自分だけで決めるのは心細いからね。氷室はそう言って、火神の意見を求めた。火神も忌憚なく意見を言い、少しずつ理想の物件を絞り込んでいった。
 その間も、氷室との生活は続いていた。まだ一ヶ月も経っていないというのに、これが次第に日常になりつつあるのを感じていた。家事の分担も、二人での生活も、とてもうまくいっていた。一人でいた頃は、一体自分はどうやって生活していただろうと思ってしまうほどだった。氷室のいない生活を考えることが、困難になりつつあった。
 何でもそつなくこなす、頼もしい兄貴分。それだけではなくて、火神に心から気を許せる家族ができたことが、何より嬉しかった。昔から親はどちらかというと放任気味で、あまり目をかけてもらった記憶がない。父親は仕事に忙しく、アメリカで暮らしていた頃、構ってくれるのは雇われていたベビーシッターだけだった。そんな時、氷室辰也という、兄と呼べる存在ができたことが、何よりも嬉しかった。その彼と、今はこうして共に生活している。家族がいるってこういうことなのかな、と、火神はその温かみを噛み締めるようになっていた。
 そうしているうちに、最初は物件探しがとても楽しかったはずなのに、最近ではつまらないと思うことが増えていた。純粋に様々な物件を巡り、ここに住むとしたら家具をどう置くか、どこで買い物をするか、そんなふうに新しい生活に思いを馳せることは、たとえ想像上のことであったとしても楽しかった。それなのに、氷室が自分の理想の条件を絞り込んで、物件をピックアップしていくうちに、火神はどこか取り残されたような気分になるのを感じていた。
「なあ、タイガ、こことここなんだけど」
 氷室がついに二つにまで物件を絞り込んだとき、火神は無意識のうちに唇を目一杯噛み締めていた。ついにこの日が来たか、と火神は絶望すら覚えた。氷室の出してきた物件の見取り図を、破いて捨ててやりたい衝動にとらわれた。火神にも理性がある。本能が必死で訴えることを無視しようと努めながら、火神はそうだな、と言った。
「タツヤは、その、……どっちがいいんだ」
「それが、決められないんだ。どちらもオレの条件に適う、いいところだったからね。だから、タイガの意見を聞こうと思って」
 心臓にナイフを突き立てられたような気分になった。氷室は選択を迫っている。自分に。どちらを選んでも、自分の心が死んでしまう選択を、氷室は委ねようとしている。
「こっちは、日当たりもいいし、部屋も十分広い。けど、駅から少し遠いから、不便かもしれない……こっちは、駅から近いし、部屋の広さもいいけれど、スーパーがあまり近くないっていうから……どちらもいいところがあって、同時に悪いところがある。両方合わせれば、完璧なんだろうけど」
 顎に手を当てて考える仕草をする氷室を見るのが辛かった。氷室が決めてしまうその瞬間が訪れるのを、火神は何より恐れていた。この時、火神は初めて、氷室の言っていた言葉の意味を理解した。嫉妬と独占欲。心の中にあるこの不快な感情に名前をつけるならば、きっとその二つがふさわしいと。
「……ろよ」
 口から、言葉が零れ落ちていた。
「タイガ?」
「……い、ろよ、ここに。ずっといろよ。部屋なんか探さなくたっていいだろ」
 氷室に驚かれるかもしれないと思ったのに、彼は冷静に火神を見つめていた。火神はテーブルの上に置かれた物件の資料を、手で払い落とした。ぱさぱさと落ちていく紙を、もう見ようともしなかった。そうして一度零れ始めた火神の言葉は、止まらなかった。
「オレと一緒にいてくれよ、タツヤ。もう、タツヤのいない生活なんて、考えられないんだ」
 氷室の目は、それでも一切揺るがなかった。
「それは、オレがお前の兄だからか、それとも――」
 氷室は言いかけて、言葉を切り、いつもの優しい笑みを浮かべた。
「……タイガがそう言ってくれるのを、ずっと待っていた」
「タツヤ」
 頬に優しく手を添えられて、火神は涙が出そうなほど嬉しくなった。氷室の白くて綺麗な手が、こんなにも温かいだなんて知らなかった。ずっとこの温もりを感じていたいと思った。だってそれは、自分が幼い頃から求め続けてきたものだったから。
「……お前が欲しくてたまらなかったよ、タイガ」
 これほどまでに、心が打ち震える、という感覚を明瞭に味わったことがあっただろうか。
 氷室に求められた唇を、あっさりと差し出している自分に、何の違和感も湧かなかった。


 風呂に入ってくる。そう言って、脱衣所まで行かずにリビングで服を脱ぎだした氷室に、火神は欲情していた。
 しなやかで無駄のない体躯、浮き上がった鎖骨と首から下げたシルバーリングのネックレス。俯いた氷室の視線の先の、男性の象徴。一本美しい筋の通った背に、火神は思わず手を伸ばしていた。触れたい、と思った。水分の足りない火神の指は、氷室のきめ細やかな肌に不思議と馴染んだ。
「一緒に入る?」
 振り向いて、泣きボクロのある方の目でそう問いかけた氷室に、火神は無言で頷いていた。自分もその場で黒のTシャツとジャージのズボン、トランクスを脱ぎ捨てた。身に付けているものは氷室と同じシルバーリングのネックレスだけとなり、氷室が自分の身体に釘付けになっているのが分かった。先程欲情していた火神のように、ゆっくりと胸の筋肉に触れ、そのまま指先を移動させて、火神の胸板から飛び出した突起に、そっと触れた。
「……ぁ、」
 小さく洩らした吐息を、氷室は聞き逃さなかったようだった。さらりと流れる黒髪の間から覗く目を光らせつつ、氷室は火神の手を取った。
「行こうか」
 マンションの浴室は、男二人もいるとさすがに狭かった。一通りシャワーで身体を洗い流し、先に身体に触れてきたのは氷室の方だった。うっとりとした溜息をついて、火神の背を人差し指の腹でなぞった。その後唇で何度も背に吸い付かれ、火神はその感覚に酔いしれた。単純に気持ちが良かった。気持ちが良ければ、当然、反応すべきところは反応する。
「タイガ……もう勃ってるね」
 氷室に言われて、火神は頬をさっと赤らめ目を伏せた。身体はどうしようもなく素直であることを認めざるを得なかった。氷室は後ろから、火神の穴に、緩やかに指を擦りつけた。未知の感覚に、火神の背に戦慄が走った。
「ッ、タ、ツヤ……何っを、」
「まだ、慌てなくてもいい。ゆっくり慣らしてあげるから」
 氷室の指が、円を描くように穴の周りを擦る。その度に、情けないほどにそこがひくつくのがわかった。穴につぷんと氷室の指の腹が入る度に、火神の全身に震えが走るのだ。どうなるか、なんとなく想像はついていた。
「女性と違って、潤滑液が出てくるわけじゃないからね」
 まるで見知ったようなことを氷室は言う。ちりりとくすぶる感情を覚えて火神が僅かに後ろを向くと、氷室は何故か嬉しそうに頬を緩めていた。
「……抱いたことがあるわけじゃないよ。一般的な性知識として持っているだけだ」
 そのまま氷室は手を前に回すと、火神の勃ち上がった彼自身の先端から滲み出た先走りを指の腹にたっぷり取り、それをそのまま尻の穴へと塗り始めた。
「っ! タツ、ヤ、おまっ……っぁ……」
「急がなくていい。時間はまだたっぷりあるから」
 何せ四年間も一緒なんだからね。氷室はそう言って、ゆっくりとひくつく穴にすり込んでいく。熱い。味わったことのない感覚に、火神は声が出そうになるのを必死に堪えた。唇を噛んで、それでも氷室の指が動く度、どうしようもなく身体は反応してしまう。つま先が震え、自分の芯が揺らされる感覚があった。
「そろそろ……大丈夫かな」
 氷室の指の腹が、つぷん、と火神の穴に沈み込んだ。
「っあ、タツ……やめっ」
「痛い? 痛いならやめるけど、そうじゃないなら、」
「そ、んなとこ……挿れんな、挿れちゃ……やだ」
 頭がおかしくなりそうで、自分がだんだん自分でなくなっていくのが怖かった。
 その途端、氷室の口から熱い吐息が洩れるのが分かった。火神の背を撫でるように、それは下へと落ちていく。
「可愛い……タイガ、お前は可愛すぎる」
 一枚岩のような体躯の男に、その形容詞を使った者は、氷室以外にいなかった。氷室の指が中へと入り込んでいく。異物感に思わず呻いた。同時にそれが氷室の指であるということが、火神の芯を熱くさせた。氷室の指が中で蠢くたびに、火神は背を仰け反らせた。
「っぁあっ……は、っあ……」
「気持ちいい? それとも、変な感じ?」
「変……っ、そこ、やめろ、って……きたな、から、タツヤっ」
 自分が変わっていく恐怖もあったが、何より汚物にまみれたはずのその場所を、氷室の綺麗な指がかき回しているのだと思うと耐え難い思いだった。自分が氷室を汚してしまった。そんな罪悪感に襲われる。
 それなのに氷室はふふと笑って、火神の首筋に熱い吐息を吹きかけた。
「タイガはどこまでも優しいね。オレの指が汚れる心配をしてるのか」
 こくこくと頷くと、氷室は愛おしむように、火神の首筋を甘噛みした。
「オレはね、お前のものならなんだって愛おしいし、むしろ、お前に汚されるなら、こんなに嬉しいことはないんだよ」
 そう言って、氷室は指を一気に引き抜いた。
「っぁあああっ」
 壁を滑り落ちていく感覚に、火神の身体は一層強く跳ね上がった。頭が真っ白になりそうだった。氷室はそれを満足げに笑って見ていた。
「いきなり奥までは痛いだろうから。少しずつ慣れていこう」
 そう言って、氷室は一旦火神から身体を離した。火神は途端に物足りなくなって、えっ、と戸惑いの声を洩らした。氷室の指を先刻まで異物とみなしていたはずの身体が、その異物をどうしようもなく欲していることに気付く。縋るように氷室を見つめると、氷室はそれを察して、嬉しそうに笑った。
「今日はもうおしまい。最初だからね」
 火神は持て余したもののやり場を失って俯く。氷室はそんな火神の唇を下からさらうようにして、自分のそれと口付けた。
「イけなくて辛い? なら、自分ですればいいよ。ここで。オレが見ててあげるから」
 耳元に囁かれた言葉を、最初冗談ではないかと思った。目を見開く火神と向き合う氷室の瞳は、しかしその言葉が偽りではないと語っていた。誰かの目の前で処理をしたことなんて当然のことながらなかった。それは人前でするべきことではないと思っていた。羞恥の壁が迫り、しかし氷室の瞳を見た瞬間に、火神はその壁をあっさりと乗り越えてしまった。火神は勃ち上がったままの自身に視線を落とした。右手を添えて、いつもそうするように、ゆっくりと上下させ始めた。
 氷室の視線がその場所に集まっているのが分かる。火神は頬を赤らめ目を伏せた。芯をきゅっと締め付けるようなその羞恥でさえ、不思議なことに快感に変わった。火神の息が上がっていく。血液がその場所に集まって、まるで何かの生き物であるかのように鼓動し始める。
「はぁ……っ」
 もうイきそうだ。火神が深く息を吐き出して、ふと、目の前にいる氷室も自分のそれを扱き始めたことに気付く。氷室の瞳からいつもの冷静さは消え失せていた。炎のような熱情を感じた。ああ、タツヤも一緒なんだ。こんなに嬉しいことはなかった。火神は扱く手を速めた。何度も何度も襲い来る快感の後、
「っ、く、っん……っぁ!」
 火神は身体を仰け反らせ射精した。首に掛けたチェーンが跳ね上がり、リングが胸を叩いた。先端からはどくどくと白濁液が零れ落ちた。
「はっ、く……っ!」
 そのすぐ後に、氷室も射精したのが分かった。彼の胸で揺れるリングを、彼の先端から吐き出される熱の塊を、今は純粋に愛おしいと思った。タツヤも、オレを見て、気持ち良くなったのか。そう思うと気怠い幸せが身体に満たされていくのがわかった。
「タツヤ……」
「……タイガ。すきだよ」
 氷室の言葉が鼓膜を震わせて、火神の体内に落ちていく。どうしようもなく欲していた言葉。
 二人はどちらからともなく抱き合って、しばらく熱を分け合っていた。


 カーテンの隙間から差し込む朝日に揺り起こされて、火神は瞼を上げた。
 何気なく身体を起こし、自分の腕に触れ合う、もう一つの温もりの存在をすぐに知覚した。驚いて目を見開く。そこには氷室がうつぶせになったまま眠っていて、火神の心臓が一気に鼓動を速めた。
 昨夜の出来事は嘘ではなかったと、火神は改めて思い返す。思わずシーツを握り締めた。オレは、男で、タツヤも男で、それなのに、欲情していた。今までは女という別の生き物の身体に惹かれ、未知の感触に思いを馳せては高まる欲を処理していた。それが普通だと思っていた。それなのに、火神が初めて目の前で欲情したのは、自分と同じ、男という生き物だった。
 きっとどうかしていたのだと、冷えた頭で思い返す。あまりにも自分に女っ気がなかったせいで病んでしまったのか、それとも――万が一昨日抱いた感情が真であるとするなら、その可能性に思い当たって火神は震えた。それはあまりに恐ろしくて、けれども受け入れるに抵抗のない思いであることに、火神は何より驚いた。
「朝メシ……作んねーと」
 担当が自分であることを今更のように思い出す。とりあえずベッドを出て着替えなければと思った。いつものように朝を始められるような気がしなくて、でもなんとかその溝を埋めなければならないと思った。掛け布団をめくろうとした火神の手を、しかし遮るものがあった。氷室の手が、火神の手に重なった。火神の心臓が跳ね上がった。
「タイガ……おはよう」
「あ……ああ、おはよう」
 氷室は視線だけ火神を見上げて微笑んだ。その手に束縛力はないはずなのに、何故か火神はその場から動けなくなってしまった。
 更に氷室の口から飛び出した言葉に、火神は首根っこを掴まれたような気分になる。
「なあタイガ、今日もオレに付き合ってくれないか。物件探し」
「な……な、なんでだよ。昨日はここにいるって、」
「いて欲しいって言ったのはタイガで、オレはここにずっと住むとは一言も言ってないよ」
 昨日の記憶を必死に手繰り寄せる。確かに氷室は、火神がここにいて欲しいと言った時、そう言ってくれるのを待っていたとは言ったが、その言葉を肯定も否定もしなかった。
「い……やだ、オレは! オレは、ずっとここでタツヤと……」
「タイガ、オレはな、もうお前の兄で居続けることはまっぴらなんだ」
 ゆっくりと起き上がりながら言う氷室の声が一段と低くなった。ぞくりと背筋が震えた。有無を言わせない口調だった。氷室は身体を起こすと、泣きボクロのある方の目で、真っ直ぐに火神を射抜いた。
「それでも、という覚悟がお前にはあるか。ないなら、オレを引き留める資格はない」
 選択を迫られていた。火神は唾を呑んだ。急に覚悟があるかと問われても、咄嗟に返答することは不可能だった。けれども、だからといって氷室を手放すことなどできるはずがなかった。火神は無意識のうちに、胸のリングを弄っていた。氷室を手放したくない。氷室の温もりを感じながら生きていたい。それが真実の望みであると、火神は自覚した。
「それでも……オレは、タツヤと一緒にいたい」
「そうか……タイガ、それがお前の選択か」
 刹那、何が起こったのか、火神にはわからなかった。
 気付くとベッドに押し倒されて、首に掛けたチェーンを思い切り引っ張られていた。ぎりぎりと音を立てて金属が軋みあい、火神の肌に食い込んでいく。やがてそれが喉元に達し、火神は呻いた。
「っ、ぐ……タ、ツヤ……」
 それをしているのは紛れもなく氷室辰也その人だった。冷たい目で火神を見下ろし、思い切りチェーンを引っ張り上げる。苦しくて苦しくてたまらなかった。酸素を求めることすら許されなかった。
「一緒になっても……幸せなんて、ない。いっそこのまま、オレと永久を誓ってくれ、タイガ」
 氷室が手を上げたまま、唇を下ろして、火神の鎖骨にかぶりついた。氷室と兄弟を誓ったチェーンで、氷室の手に掛かって殺される。そのことに、火神は不思議と恐怖は湧かなかった。苦しさに呻きはしたけれど、抵抗しなかったのは、きっとそのせいだろう。
「お前は光……なんだろう、その光を曇らせたオレは罪深い存在だ。そして一度曇った光は、もう光としての用を為さない」
 だから、どちらも死ぬべきなんだ。氷室はそう言って、更に強い力でチェーンを引っ張った。
「っうぐ……タ、ツ……く……ッ」
「永遠なんてないんだ。でもオレは永遠が欲しい。オレが永遠を手に入れる方法は、これしかない、そうだろう、タイガ、分かってくれるだろう、お前なら」
「ぐ……タ、ツヤ……っ」
 火神は必死に抗い始めた。盲信に近いものを抱いていた兄が、自分と違う考えを口にしたから。
「わか、んねーよ……生き、なきゃ、永遠だって、何だって、手に入れられ、な」
 必死に訴える。だが、氷室は残酷にも首を横に振った。
「お前は分かっていない。タイガ、人の心は移ろうものなんだ。お前が心変わりするのが堪えられない。オレはな、お前に会って、リングを渡したときからずっとお前が欲しかった。オレのものにしたかった。独り占めしたかった。ずっと二人は一つだと思っていたのに、お前の才能が開花して、オレは堪えられなくなった。だから兄であることを止めようとした。それなのにお前は止めた。オレは未練と自己嫌悪で、どうしようもなく苦しんだ。死にたくなった。お前から逃げることを、お前は許してくれなかった。手に入らないものを見つめ続けなければいけない拷問を受けていたオレの気持ちが、お前に分かるか? 再会して、やはりお前には敵わないと分かって、それでもお前が欲しかった。さんざん突き放そうとしたオレを、それでも慕ってくれるお前が嬉しかった。お前がオレを思って嫉妬に燃えていると分かったとき、オレは気が狂いそうなほどに嬉しかったよ。お前の身体を手に入れかけて、そこでようやく、オレは罪深い存在だと自覚した。恐ろしくなった」
 氷室の口から零れ落ちていく言葉を、火神は黙って聞いていた。
「それでもオレはお前が欲しい。だがオレはこのままじゃ生きていけない、お前を汚すという罪を犯してしまったから。だから、お前の気が変わらないうちに、オレは、お前と、」
 火神は堪えかねて、勢いよく氷室の手を掴んだ。氷室は驚いたように持っていたチェーンを離し、火神は肩で息をしながら、氷室のチェーンを力任せに掴んだ。身体のバランスを崩して、氷室が自分の方に倒れ込んでくる。それを受け入れながら、火神は自分から、初めて氷室の唇にキスをした。
「タイ、ガ……」
 それは常に余裕を崩さなかった氷室が初めて見せた、戸惑いの表情だった。
「もう、やめろよ……オレだって、やっと欲しいもんが分かって、手に入れられたんだ。心変わりなんて、タツヤ、あんただって可能性がないって言い切れないだろ。そんなことにいちいち怯えてたって、未来なんか掴めやしねえんだ。オレは生きたい。タツヤと生きたい。そうやって作ってくんだろ……オレたちのこれからを。死んじまったら、永遠なんてねーんだ。そこで全部終わっちまうんだよ」
 賢いタツヤなら、全部分かってんだろ。そう言うと、氷室ははっと目を見開いた。火神は先程まで氷室が握り締めていたチェーンに指を引っかけて、シルバーリングを掲げた。
「これがある限り、オレたちはずっと一つだよ……二つで、一つ。もう、兄貴である必要なんてない。だってオレは、……オレの思いは、」
 もうとっくに、違う感情へと変化してしまったから。
「罪、償うってんなら、責任……取れよな。昨日のこと……とか」
 火神は思い出して、火が出そうなくらい頬が熱くなるのを感じた。氷室はそこでようやく、表情を崩した。ああ、と、吐息混じりに頷く。
「オレが開発してもいいの? お前のナカ、感じるようにしてもいいのか」
「っ、そういうこと、あんま、言うなっ」
 火神はそっぽを向いた。昨日の感触が蘇る。未知の生物へと変化していく自分の身体に、恐怖を覚えながらも、快楽に抗えなかった。それに、と火神は思う。氷室となら、どうなってしまってもいいかもしれない。氷室がしてくれるがまま、氷室の喜ぶ身体になれるなら。
「可愛いな……タイガ。可愛すぎて、頭がおかしくなりそうだ」
 氷室は笑って、火神の唇にキスをした。優しいキスだった。侵入してくる舌に戸惑いながらも、それを受け止めていた。氷室の受験前に、チョコレート菓子を渡した時のことを思い出していた。二つに分けた、甘ったるいチョコレート菓子。胃袋の中に入ってしまったそれは、もうとっくに身体から排出されてしまっているだろうけれど、あの時の味なら今でも思い出せる。氷室の唇は、まるでそのチョコレートをまだ蓄えているかのように甘かった。頭がくらくらする。それでも火神は夢中になって、甘い蜜を啜った。
「愛しているよ、タイガ」
 火神が一番欲しい言葉をくれるのは氷室だけだ。それを与える資格があるのも氷室だけだ。
 氷室が一人で罪を背負う必要なんてないのだ。その思いに応えてしまった時点で、自分も同罪なのだから。火神はアメリカにいた時、ベビーシッターに連れられて行った日曜学校のことを思い出していた。おお、神よ。色とりどりのステンドグラスから光の漏れる教会で、神父が謳うように告げる。その続きを、心の中で呟いた。自分たちが罪深い存在だというのなら、どこまででも堕ちてやる。二人は一つ。その覚悟を背負い続ける限り、覚悟の証であるシルバーリングが胸にある限り、神も誰も、自分たちを止めることなどできないのだと。
 氷室の言葉に応えるように、火神もまた、氷室の唇にかぶりついた。


同居するほのぼの氷火を書くつもりがいつの間にか氷室さんがヤンデレくさくなりました…(2012.10.1)