火神くんがお兄ちゃんコンプレックスを脱するお話(2012.9.26)
カーテンの隙間から差し込む光で、氷室はゆるりと瞼を上げた。
「ん……」
いつもの癖でベッドサイドに置いた携帯を確認しようとして、ふと、自分以外の皮膚に指先が触れる。氷室は思わず目を見開いた。
ややあって、ああ、と今置かれた自分の状況を把握する。うつぶせになって眠っている火神大我を、氷室は目を細めて見つめた。
昨夜の出来事はやはり夢ではなかったらしい。火神の部屋で苦し紛れに自分の思いをぶちまけ、それを受け入れてくれた火神を抱いて寝た。
正直なところ実感がまるで湧かず、昨夜の出来事は嘘なのではないかと思っていた。ノーマルであるはずの火神が、自分の思いなど受け入れてくれるはずがない。バスケットボールプレイヤーとしてのコンプレックスもあって自分でも面倒くさいと思うくらいの鬱屈した思いを抱いていた自分が、こんなにもすんなり受け入れられるなんてにわかに信じがたい話だった。
だが、どうやらそれは真実であったらしい――自分も火神も、あの誓いのシルバーリングネックレス以外のものは一切身に付けないまま眠りに落ちていた。つまりは、きっと、そういうことなのだろう。
微かに汗ばんだ火神の、少し日焼けした肌が愛おしくてならなかった。もう一度触れようとして、氷室はその手を引っ込める。触れてはいけない気がした。正直、氷室の思いを受け入れてもらえた上、ここまで関係が進んだということは、世間的にはもっと喜んでもいい関係だと、そう解釈しても良いような気はする。だが、と氷室は踏みとどまった。これ以上越えてはならないものがある気がする。越えてはならないというよりも、これ以上進めてはならない、という方が正しいか。
こんな歪んだ関係があっていいはずがなかった。タイガには将来がある。夢がある。誠凜高校を日本一にして、いずれは世界で活躍するバスケットボールプレイヤーになるという、輝かしい将来が。いずれは伴侶となる女性を見つけて結婚し、子どもを生み育むという、ごく普通の男性としての将来が――
火神の隣に寄り添う女性とその子どもの姿を想像し、氷室は激しい吐き気に襲われた。胸が苦しくてたまらない。火神から背を向けて、氷室はえずいた。それは幸せな未来のはずだった。誰もが祝福すべき未来のはずだった。なのに、と氷室は拳をぎりぎりと握り締めた。こんなにも握り潰したいものが世の中にあるなんて、知らなかった。
「っ、う……、くっ、がはっ」
襲われる吐き気に必死に堪えていると、その声で目覚めたのか、火神の口から微かに声が洩れた。
「……う……んん……」
はっとして、氷室は振り返る。だが、火神はまだ覚醒したわけではなさそうだった。ほっと溜息をつくも束の間、火神の口から洩れた一言で、氷室は戦慄することになる。
「……タツ、ヤ………………ずっと、一緒に……いよう、な……」
ああ、と氷室は白い天井を見上げた。閉じた瞳から涙がこぼれ落ちる。嬉しくて気が狂いそうだ。それゆえに受け入れるわけにはいかない言葉でもあった。
自分という存在はなんと罪深いのだろう。火神を歪めてしまったのは間違いなく自分だ。彼を歪めてでも、自分を存在させるには、火神という人間が傍にいてくれなければならなかった。だから巻き込んだ。罪深いことであると知っていながら、自分を慕ってくれている火神が、決して自分を拒まないと確信していたから。
未来永劫なんて言葉を素直に信じるほど子どもではない。それゆえに、ずっと、という火神の言葉は氷室の心の奥深くまで突き刺さった。この関係が永遠に続くはずがない。たとえ一時的に火神が自分を仕方なく受け入れてくれたとしても、いずれはこの関係が歪んでいることに気付いて、いつかは離れていく日が来るに違いない。その日が来ることを、氷室は何よりも恐れていた。今まで通り、兄弟のままで良かったのだ。それなら程よい関係を維持したまま、ずっと、を望めたかもしれないのに――
氷室はそっとベッドから出た。床に散乱した服を回収し身に付けてから、洗面台に向かって顔を洗った。鏡に映った自分は随分酷い顔をしている、と氷室は思った。元々白い肌が更に白く、黒い髪の間から覗く目に生気がない。生きている人間の顔ではないと思った。
火神が眠っている間に、ここを出てしまいたかった。そうすれば火神には、あれが夢ではない現の出来事だったのだと信じる根拠がなくなる。元々ここに氷室辰也という人間は存在しなかった。そう信じてくれて、日常に戻ってくれるならば、こんなに嬉しいことはない。
そう思って、氷室は自分の荷物がまだあの寝室に置きっぱなしにされていることに気付いた。なるべく音を立てずに寝室に戻り、ドア付近に置かれていたバッグを肩に担いで、そのまま部屋を出ようとした、その時だった。
「……ん……タツ、ヤ……?」
氷室の肩が震えた。振り向かずに立ち去ってしまえば良かったものを、氷室は思わず振り返ってしまった。ベッドで眠りに落ちていたはずの火神が目を擦って身体を起こしていて、最悪の展開だ、と氷室は絶望した。
火神は寝ぼけ眼だったが、氷室の全身をゆっくりと見て、どうやら様子がおかしいと悟ったようで、はっと目を見開いた。氷室は思わず顔を逸らしていた。
「タツヤ? もう……帰るのか? 今日は何も用がないって、」
「タイガ」
氷室は火神の言葉を強引に遮った。
「オレはもう、ここには来ない。きっと、未来永劫、ずっと」
一番嫌いな言葉を自分で使うとは、なんという壮大な矛盾だろう。火神は思った通り、驚いたように身体を乗り出した。
「ど……どういうことだよ!? いきなり、タツヤ、何言って……」
「オレたちは、一緒にいない方がいい。これ以上いたら、おかしくなってしまう。オレも、お前も」
なるべく冷静な声で、火神の瞳を見据えて言った。火神がただならぬ雰囲気を感じて、ごくりと唾を呑み込む。何か言いたそうな顔をしていたが、何も言えないようだった。
「巻き込んですまなかったと思っている……忘れてくれないか、全部。その方が、お前にとっては幸せなんだよ。お前はゲイなんかじゃない、そうだろう?」
「それは……」
否定などできないに違いない。人々は皆、テレビや何かでゲイの男性の姿を目にする機会はあっても、その存在はどこか幻のようなものだと思っている。火神もそうだったに違いないのだ。それが突然、近しい人間にゲイだと告白されて、しかも自分のことが好きだと言われて、けれどもその相手がどうしても切れぬ相手だったから、受け入れる他なかった。それだけなのだ。氷室を本当の意味で受け入れてくれたわけでは、ない。
「でも、タツヤ、それじゃお前は、」
「この期に及んでも心配してくれるのか……タイガ。お前は優しすぎる。だから……オレが断ち切らなきゃいけないんだ」
鋭く透明な氷柱のような声で、氷室は火神を突き刺した。火神が息を呑むのがわかった。
もう火神の顔を見るのも辛かった。純粋な彼は、人間の汚い感情を知らない。氷室が抱いた、嫉妬、羨望、憎悪、愛情――それら全てが渦巻いて、まるで絵の具を使った後の筆洗バケツのように濁った色をしている人間の心を、火神は覗いたことなどないのだ。これ以上汚いものに触れさせてはならないと氷室は思った。誰のためにもならないことだ。
「――Goodbye, Taiga」
氷室はそう言って、火神に背を向けた。ひたひたと廊下を歩く。火神が追ってこないことを、好都合だと思った。追ってくれるなと願った。もしこれ以上追われたら、自分は――
火神の家の扉のノブに、すんなりと手を掛けられたことに氷室は驚いていた。彼のことだから、きっと追ってくるのではないかと思ったのだ。そう信じていた、という方が正しいのかもしれない。この期に及んで未練を残している自分を心底嫌悪する。だが、どこかで断ち切らなければ、お互いこの先道はない。だから、氷室は一歩を踏み出した。新しい道に繋がると信じる、新たな一歩を――
「待てよ!!!」
そのまま外に踏み出していればよかったのに――氷室は後ろから飛んできた声の迫力に、思わず立ち止まってしまった。
大きな足音が追ってくる。怖い。そう思ったのに、氷室は後ろを振り向いていた。
慌てて下だけ身に付けてきたのだろうか、上半身裸のままやって来た火神の形相は、先程と違って、驚きの色がすっかり消失していた。怒り――それに近い、と氷室は感じた。
「出て行くなんて、オレが許さない」
氷室は目を瞠った。火神の荒々しい息が、その言葉を本心だと告げている。試合の時以外の火神が、ここまで自分に対して強い言葉を投げかける姿を初めて見た。
「昨日はオレを……その、好きだ、とか言っておきながら、もう終わりにしようってどういうことだよ? 振り回されたオレの気持ちはどうなんだ。無視か?」
答えることができなかった。振り回したのも、氷室の罪だという自覚は十分にあったからだ。
「なんだよ、巻き込んですまなかったとか、一緒にいない方がいいとか。そんなの誰が決めたんだ。少なくともオレはそう思ってない」
「タイガ……」
氷室は悲しげな目で火神を見つめた。
「タイガ、男同士のカップルに、なんの未来がある。この関係に、なんの光明があるっていうんだ。誰も幸せになれないんだ。中途半端な感情を抱えたまま、うろうろするしかなくなる。お前も人並みの幸せを手に入れられなくなる」
「人並みの幸せってなんだよ! その幸せが、アンタが……タツヤが隣にいてくれることだとしたら、断ち切る方が不幸だって、タツヤはそうは思わねぇのか。本当はタツヤだって、オレと一緒にいたいって、そう思ってくれてるんじゃねえのか。本心じゃ、離れたくないって思ってくれてるんじゃねえのか!」
吠えるように火神が叫んだ。その言葉は氷室の心の誰にも触れさせたことのない奥深くに届いて、氷室の心を鷲掴みにした。
そうだ、本当は。本当に自分が望んでいることは、ここからいなくなることでも、火神との関係を断ち切ることでもなくて――
そう思いかけたのを振り切ろうとするように、氷室も声を荒げていた。
「同情は要らない!! タイガ、お前はどうせ、オレにずっと兄でいて欲しいからそう言っているだけだろう。お前が優しすぎるから……その優しさが罪だと思ったことは、一度もないのか? それで傷つく者がいるという可能性は、考えたことがないのか?」
火神はその言葉で軽く俯いた。考え直してくれるのか、そう思った氷室の期待は、一瞬にして裏切られることになる。
顔を上げた火神は、絶対に逃がさないと言わんばかりに、氷室を真っ直ぐに見据えていた。
「確かに……今までのオレなら、もう兄であることをやめるって言い切ったタツヤを引き留められなかったように、そのまま素直に見送ってたかもしれねぇ。けど今は違う……、オレはオレ自身が自分の未来を決める。タツヤにだって、勝手に決められたくねえ。オレはタツヤと一緒にいたいと思ったから、タツヤを受け入れることを選んだんだ。同情なんかじゃねーよ、これはオレの意志だ!!」
――一瞬、何が起こったのかわからなかった。
気付けば氷室の顎が上向いて、唇を奪われていた。その唇の相手が火神だということは、すぐに分かった。かつん、と歯がかち合う、不器用なキス。それでも、氷室の全身は震えていた。思わず瞼を閉じたら、その隙間から涙が零れた。
「……なあ、」
少し離れた唇から、言葉が紡がれる。
「もうオレを突き放すようなこと、言わないでくれ。オレはアンタが昔から好きだったんだ。その好きの形が今とは違っても、好きっていう感情だけは今も昔も変わっちゃいないんだ。タツヤがオレのことをどんな思いでずっと見てたかは知らねぇ、けど、オレは……タツヤがいなきゃ、タツヤじゃなきゃ、もう」
今度は氷室がその唇を塞ぐ番だった。火神が驚いたように目を見開くのがわかった。食むように唇を動かして、火神の唾液すらも抵抗なく啜った。
「茨の道になる。それでも……?」
「タツヤがいてくれんなら、オレ、何も怖くねぇ」
「そんな恥ずかしい台詞、いつ覚えたんだ、タイガ」
微かに笑いながらそう言うと、その意味に気付いたのか、火神があっ、と頬を赤らめた。氷室はふふと笑って、火神を抱き締めた。ずっとこうしたかった。何のしがらみもない状態で、火神を思い切り抱き締めてみたかった。
「……けど、その恥ずかしい台詞に心を奪われるオレも、相当恥ずかしいよ……な」
「タツヤ……」
首からぶら下げたシルバーリングが触れ合って、小気味よい金属音を立てる。
汗ばんだ火神の皮膚に、自分の冷たい手がようやく馴染んだ気がした。
火神くんがお兄ちゃんコンプレックスを脱するお話(2012.9.26)