初めて身体を交えた次の日、駅の改札前に立つ氷室はいつものように穏やかに微笑んでいた。
「じゃあ、また……機会があれば試合でな、タイガ」
 昨日の夜はあんなにも我を忘れて激しく絡み合ったというのに、まるで何事もなかったかのようにひらりと軽く手を振って去っていこうとする氷室に、火神は不満を抱いた。
 さんざん人を振り回しておいて――兄にはなれないとか、オレはゲイだからとか、そんなことばかり言って火神の不安を煽り、挙げ句に火神の身体を侵し、その過程を経てようやく、氷室は自分の真の思いを打ち明けてくれた。悲しみに染まりかけた身体は戸惑いを生み、やがて込み上げるような喜びに占められた。そうして互いの想いを確認しあったはずなのに、氷室はこの関係を一夜で済ませる気だったのだろうか。
「待てよ、タツヤ!」
 火神は氷室を引き留めていた。怪訝な表情で振り向いた氷室に、手、貸せよ、と言い、差し出された手のひらに、火神はポケットの中に入れていた自分の部屋の鍵をキーホルダーから取り外して、ぐいと押しつけた。
「これは……」
 氷室は目を見開いた。
「親父が使うはずだった鍵……タツヤに、渡しとくから」
 察しの良い氷室なら、それだけで分かってくれると信じていた。実際、氷室はその意味を一瞬で理解したようだった。僅かな躊躇いの後、鍵を握り締める。
「ありがとう」
 短く言って、氷室はその場を去っていった。
 これで良かったのかは分からない。けれども、火神の中に抵抗はなかった。あれを渡したということは、氷室をいつでも自分のスペースに受け入れるということ。予告されなくても、不意打ちでも、自分がどんな状況でも、氷室を全て受け入れるということ。その覚悟が今の自分にあるのかどうか、それすらも分からない。けれど嫌悪感がないことだけは確かだった。
「……部屋、片付けるようにしねぇとな」
 とはいえ、自分でも思うくらい殺風景なあの部屋だから、余程のことがないと散らかりようがないのだけれど――そんなことを考えて、火神はフッと、小さく笑った。


 それから氷室は、ほぼ一月ペースで東京に訪れ、火神の部屋に滞在していった。
 氷室の両親は火神の親と同様放任主義なようで、もうすぐ受験生になる息子がたびたび東京に滞在することに、何の文句も言わないらしい。更にアメリカで仲良くしていた火神の部屋に泊まるからというとそれだけで安心するらしく、一切お咎めを受けたことはないようだ。
 本当はその、安全なはずの部屋の中で誰にも言えないようなことをしているなんて、彼の両親は知る由もないのだ。
 同じベッドに寝そべれば自然と身体を合わせたくなり、成熟し始めた彼らの身体は未だ限界を知らなかった。疲れ果てたらシャワーを浴び、その浴室で興奮を覚え、更なる行為に臨んで、くたくたになって、ようやく眠る有様だった。
 だが、会う度にそれほどのことをしていても、氷室がその鍵を使う機会は訪れることがなかった。
 東京に来る時、氷室は必ず火神の携帯に電話をかけてきた。無論、今度そちらに行っても良いかというお伺いの電話である。逆にいえば氷室が電話を掛けてくる時の用件はそれしかなく、火神はある時、溜息を洩らしたことがある。
「律儀だよな、タツヤは」
「え? なんで」
「あのさ……まさか、なくしたワケじゃねぇよな。アレ」
 電話の向こうで、微かに笑う声が聞こえる。
「もちろん。なくしたりしないよ」
「じゃあ、勝手に来ればいいだろ。わざわざ事前にお伺い立てなくても」
 そのために渡したというのに、一度覚悟を決めようとした自分は一体何だったのか、虚しい気分にすらなってくる。氷室はははっと軽く笑って、全く意に介していないかのような口調で言った。
「勝手に人の家に上がり込むのは失礼じゃないか。常識で考えても」
 火神は呆れて言葉も出ないとはまさにこのことか、と溜息を吐いた。常識だって! 確かに、こんな関係になる前、火神が一方的に知っていた氷室になら、全く違和感のない言葉だっただろう。けれども常識を逸脱した関係になり、常識を逸脱した行為を繰り返している自分たちに――しかもその発端となった氷室には、とても似つかわしくない言葉のように感じられた。
「じゃあ、三日後。そっちに行くから……よろしく」
「あっ、タツ、……」
 電話は一方的に切れてしまった。火神は携帯のディスプレイに残った氷室辰也、という名前をしばらく見つめていたが、バックライトが消えてしまってから、携帯をベッドの上に放り出した。続けて自分の身体もベッドに沈め、真っ白な天井を見上げる。
 火神はしばらく放心したように口を開け放していたが、その後右手を癖のようにジャージの上から陰部に宛がってしまい、我に返って慌てて引き離した。
「あと三日、か……」
 ――それからずっとシてないのか? タイガはいやらしいんだな、そんな身体でオレを待ってたなんて……
「タツヤ……」
 火神は寝返りを打って、波打つ白いシーツに右頬を寄せた。自分の妄想が作り出した幻聴に興奮を覚えてしまうなんてどうかしている。誰にそんな妄想を覗かれたわけでもないけれど、顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。その恥ずかしさが更なる興奮に変わって火神を襲う。
 三日も待てない自分は獣だ。氷室という餌となる肉塊をただ待ち続けているだけの獣。
 それも氷室が来れば、自分が肉塊となって喰らい尽くされる側になるのだけれど――


 氷室が来ると予告した日の、前日の夜。
 その日は土曜日で、珍しく部活の練習もオフの日だったため、朝から部屋の掃除、買い出し、その他諸々を終えた火神は、氷室を迎え入れる準備万端で、次の日に備えて早めに寝るつもりだった。とはいえ、火神は試合の前日もそうなのだが、何か行事がある前日は大抵興奮して寝られないことが多い。その日も例外ではなく、火神は月明かりだけが差し込むベッドで、何度も何度も左右に寝返りを打っていた。
 二日前の氷室の電話を思い出す。いつもと何ら変わりはなかった。ただ、彼が常識なんていう言葉を口にしたこと以外は。思い出しただけでも違和感がありすぎて何故か自分の身体がむず痒くなる。その常識外れのことをしているという背徳感が自分たちを更なる快感に駆り立てることも、火神は最近ようやく理解するようになってきた。
「タツヤ……」
 シーツを掴んで男の名前を恋しげに呼ぶなんて、お前は恋に恋をしている乙女かなにかか。心の中で呟いて、自分の背格好とは真逆のイメージに、火神は思わず戦慄した。どうかしている。どうかしているというなら、氷室が自分に心情を吐露したあの時から、全てがどうかしてしまったのだが、本当にどうかしているとここまではっきり思ったのは初めてだった。
 それでも口から洩れるのは彼の名であり溜息であり、ちくちくと疼き続けるのは彼との繋がりの証であるシルバーリングの向こうにある胸の奥である。火神はいよいよ眠れなくなって、くそっ、と悪態をつきながら、掛け布団に顔を潜り込ませた。
 その時だった。
 玄関から、ガタッ、という音がしたような気がした。火神は埋めた布団から顔を上げ、ゆっくりと寝室の扉を振り返った。カチャリ、とドアが開いたような音もする。時計の針は午前0時を指していた。
 まさか泥棒だろうか。一人暮らしの男子高校生の部屋に忍び込んだって盗むものなんて何もありはしないのに、とは思いつつ、それなりのマンションに住んではいるから、狙われても仕方がないのかも知れない。火神は警戒した。もしここに入ってくることがあったら、ベッドから出て、渾身の力で殴りかかってやる――
 思った以上に、その機会はすぐ訪れた。静かな足音がひたひたと寝室まで向かい、向こうの人物がドアノブを回す音がした。金属音と共に、扉がゆっくりと開かれていく。火神は掛け布団をはねのけ、身体を起こした、その時だった。
 ちらりと覗いた顔の右半分の泣きぼくろ。火神は思わずその場で固まっていた。驚いたのは彼も同じようで、腕を振りかぶったまま固まっている火神の姿を見て、一瞬の後に噴き出した。
「なんだ……タイガ、寝ていなかったのか」
「タツ……ヤ!? なんでここにっ」
「これだよ」
 氷室はジーンズのポケットから、火神が以前渡した鍵を取り出して見せた。ああ、と一度はそれで納得したものの、疑問は次々と湧き出てくる。
「で、でもタツヤ、お前明日来るって」
「今日の終電で、ね。どうせなら、タイガを驚かせてやろうと思って。それにタイガも、こういうこと、望んでるんじゃないかと思ったから」
「こ、こういうこと、って」
「鍵、使ってくれ、って、要はこういう不意打ちでもいいってことじゃないのか」
 氷室は笑って、固まったままの火神の唇にキスをした。魔法が解けたように、火神の身体から力が脱けていく。崩れ落ちそうになる火神を抱き締めて、氷室は愛おしげに広い背中を撫でた。火神もおそるおそる、氷室の背に手を伸ばす。
「会いたかったよ、タイガ」
「タツヤ……」
「なんだ、まるで女みたいな声出して。そんなにオレが恋しかったのか」
 氷室が喉の奥でくつくつと笑う。火神の頬は一気に紅潮したが、何も言い返せなかった。どうにもこの兄貴分には弱い。幼い頃から彼を信じて、慕って、敬ってきた。氷室は火神の中で、絶対的な存在だった。決して服従させられているわけではないけれど、氷室の言うことには絶対に逆らえないという、ある種の情けない自信はあった。
「明日、練習?」
「……ある……けど」
「じゃあ、ちょっとセーブした方がいいかな」
「なんでだよ……オレ、」
「溜まってるのか。二日分?」
「……言わせ、んなよ……」
「偉いよ、タイガ。オレはタイガと電話した晩、お前の声が可愛くて、思い出すだけで我慢できなくなって、結局シてしまったからな」
 オレだってどれだけシたかったか――その言葉を呑み込んだ。けれども氷室には何故か伝わってしまう。伝わってしまうことによる羞恥はそのうち、それ以上の快楽にかき消される。そのはずだった。
「……でも」
 氷室はそこで、火神から一度離れた。いつもなら何度もキスを繰り返した挙げ句シャツを捲って胸をまさぐり、更に次の段階へと進むのに、氷室は意味ありげに笑ったままだ。さすがに気味が悪くなって、火神は戸惑い気味に尋ねた。
「なんだよ……しねぇのかよ、続き……」
「今日は大人しく寝ようと思って。夜も遅いし、タイガも明日練習があるなら、なおさら」
「はぁ!?」
 耳がおかしくなってしまったのではないかと思った。だが氷室は本気のようで、先程まで火神が被っていた掛け布団の中に、一切無駄のない動きでするりと入り込んできた。そうして、ベッドから出てしまった本来の主を迎え入れるように、布団を上げて待つ。火神は呆気にとられて、その様子を見つめていた。
「タイガ、どうしたんだ、寝ないのか」
「バッ……」
 火神は近所迷惑になることも忘れて叫んだ。
「バッカじゃねえのか! そんなんで寝られるわけねーだろ!」
「何だよ、そのウブな反応は。オレと一緒に寝るのは今日が初めてじゃないだろう」
「だっ、だけどよ……!」
 確かに初めてではないが、いつもは疲れ果てて眠ってしまうから、隣に氷室がいようがぬいぐるみが置いてあろうが、火神にとっては大して変わりがないのだ。朝はいつも氷室の方が先に起きて支度をしているし、火神は氷室と一緒に寝たという感覚がまるでない。だが今日は違う。氷室の息遣い、四肢の動き、衣擦れの音、それらがはっきりと感じられる中で寝ろなんて、拷問に近い。
 氷室は身体を起こして、ベッドの前で立ち尽くしている火神に抱き付いた。
「かわいいな、タイガは」
「……うっせぇ」
 頬が熱すぎて死にそうだ。それでも氷室の動きに合わせて膝を折り、ベッドの中に雪崩れ込んでいる自分に気付いた時は、もう、抗えない。そう思った。
「オレだって、たまには……お前をこっちに引きずり込んでしまったことが、後ろめたくなることがあるんだよ」
 何という今更な言葉だ。すること全部しておいて、今更後悔して何になるというのだ。たとえ後ろめたさに引きずられて氷室が身を引いたとしても、既に火神の身体は氷室なしには生きられない身体と化しているのに。
「……じゃあ、責任取れよな……最後まで。兄貴だろ」
「ん……そうだな。タイガがそれを望んでくれる限りは」
 言葉の合間に、ついばむようなキスを数回繰り返した。それだけでは足りない。足りない。下半身は必死にそう訴えているけれど、今日はこれ以上はないのだと、火神は肌で悟った。仕方がないから、氷室から与えられる小鳥のようなキスだけで我慢する。
 餌を与えられずに「待て」をされている犬はこんな気分なのだろうか。そんなことを、徐々に判断力を失ってきた頭で、ぼんやりと考えた。
「眠れないなら、オレが抱き枕になろうか」
「余計眠れねーよバカ」
 微笑みを浮かべ続けている氷室を軽くはたいた後、火神は氷室に背を向けて布団を頭まで被った。五感が意図せずともキャッチしてしまうあらゆる情報を遮断するための苦肉の策だったが、結局のところ、氷室が確信犯なのかそうでないのか、度々不意に皮膚をぴたりと当ててきたり耳元で吐息を洩らしたりと様々な妨害をしてきたせいで、あまり効果は得られなかった。


「おはよう。あれ、タイガ、目真っ赤だけど……眠れなかった?」
「うっせぇ、テメェのせいだろどう考えても……」
「ついでにそこも元気みたいだけど、朝するのは健康に悪いらしいからね。もうちょっとおあずけかな」
「……もう黙ってろよ……殴んぞマジで……」
「あはは、やれやれ、発情期の獣は怖いな」
「こんなにしたのは誰のせいだと思ってんだよタツヤァアア!!」
 今朝一番の火神の叫びが何よりも近所迷惑であったことは言うまでもない。


合鍵渡して通い婚いいですよねー氷室さんの手の中で踊らされてるかがみんマジ天使(2012.9.21)