季節外れも甚だしいですが桜を題材にした話が書きたかった(2012.9.13)
ロサンゼルスに住んでいた頃、一度だけ向こうで桜の花を見たことがある。
今日もバスケの練習をしようと集まった愛弟子二人に向かってにっ、と笑いながらアレックスが指差したのは、彼女の父親のものだというおんぼろの水色の車だった。アレックスのやや、どころかかなり乱暴な運転で肝の冷える思いをしながらも辿り着いたのは、ロサンゼルスの北西に位置するレイクバルボア――日本の桜が見られるという、湖のほとりの公園だった。
休日ということもあって、公園は大勢の家族連れやカップルで賑わっていた。公園のあちこちで、美しくも可憐なピンク色の花を咲かせる桜に、幼い大我と辰也は心躍った。日本にいた頃は春になればどこにいても見られた桜の花だが、ここアメリカで見られる場所は少ない。それだけに、日本を離れて久しい二人の興奮は高まっていた。
「タツヤ、タイガ、綺麗だろう? 一度、日本人のお前達をここに連れて来たかったんだ」
嬉しそうに言いながら歩くアレックスの足取りはいつも以上に軽やかで、大我と辰也が思わず顔を見合わせたほどだった。けれども、二人はすぐさま、アレックスに向かって笑顔でうんと頷いていた。バスケの練習では常に厳しく男勝りな彼女が、恋する少女のように浮き足立つのも無理はない――そう思わせる魔力のようなものが、桜にはあった。
桜の木に囲まれながら、三人で舗装された白い道をランニングした。その途中、ぶわっ、と突風が吹いて、柔らかく咲いた桜の花びらが吹雪のように舞い踊った。公園のあちこちから歓声が上がる。三人も思わず足を止めて、その光景に見入っていた。
「舞い散るところも美しい……か。桜というのは、実に不思議な花だな」
大学で日本語を専攻していたというアレックスが、これが日本人の心か、と納得したように頷いている。大我と辰也も、わあ、と目を輝かせて、その光景に見とれていた。何故かその桜は、本場の日本で見るよりも、一際美しいように思えた。
アレックスがさらりとなびく金髪を翻して、大我と辰也の方を振り返った。
「知っているか? お前達。桜の花言葉は“心の美しさ”。優美な女性、という意味もある。まさに私にピッタリの花だと思わないか?」
赤縁のメガネをくいと上げて、唇の端を広げてにやりと笑う師匠に、大我と辰也は再び顔を見合わせた。その反応が不満だったのか、アレックスは二人の愛弟子を軽くはたいた。
「痛っ!」
二人で声を合わせて、同時にはたかれた部分を手で押さえると、アレックスは口を尖らせた。
「なんだ? 二人揃ってその顔は。私には似合わない、とでも言いたいのか?」
「そうじゃなくて、ただ……」
「それよりアレックス、“ユービ”って、一体どういう意味なんだ?」
フォローに入ろうとした辰也を遮って、大我が呑気な声でそう尋ねると、今度はアレックスと辰也が顔を見合わせる番だった。一瞬その場の空気が止まり、そして二人は同時に噴き出した。
「アッハハハハ!! そうか、お前はそこからだったか、タイガ」
「タイガ、優美っていうのは、上品で美しいことを言うんだよ」
「上品? 美しい? アレックスが?」
「コラッ、タイガ! お前、もう一回同じこと言ってみろ!」
「うわあ、ごめん、ごめんなさいアレックス!!」
大我が頭を抱えて謝り始めると、先程まで鬼の形相をしていたアレックスと隣でその光景を見つめていた辰也が、同時に破顔した。大我もおそるおそる顔を上げて、大笑いしている二人を見つつ、自然と笑顔になっていた。
「にしても」
ひとしきり笑い終えたアレックスが、辰也の頭をくしゃりと撫でる。
「さすがはタツヤ。優美の意味をちゃんと知っているなんて。賢い兄貴を持って良かったな、タイガ」
「へへ……たまたま、この間読んでた本に出てきたんだよ」
謙遜しながらも、アレックスに褒められて照れたように笑う辰也に、大我は尊敬の眼差しを向けていた。
「やっぱ、タツヤはすげえや。なんたって、オレの兄貴だもんな!」
「タイガまで……」
大我からも言われて、ますます嬉しそうに辰也は笑った。
「心の美しさ、精神の美……純粋にバスケが大好きな、お前達にこそふさわしい言葉かもな」
アレックスが穏やかな口調でそう言って、遠くの桜の木に視線を移す。
再び風が吹いて、薄紅色の花びらが三人の周りを舞い踊った。
二人からの言葉が純粋に嬉しかったと、あの笑顔は偽らざる感情の証であったと、今でも断言できる。兄と慕われる存在であれたことが、当時の自分の幸せだった。きっと大我――火神に言わせれば、その関係は今でも変わっていないのだろう。だが、そのままでいることは、誰よりも当の本人である辰也――氷室が、それを許さなかった。
『外は4月にもかかわらず季節外れの雪、桜の花の上に雪が積もるという、珍しい光景に――』
テレビの向こうでリポーターが興奮気味に伝えているのを聞き流しながら、氷室は歯磨きの終わった口を濯いだ。
今日はアレックスが来日するというので、氷室は秋田から上京し、前日から火神の家に泊まっていた。家主である火神はというと、キッチンの向こうで朝食を作っている。190センチもある大男がエプロンを着けて卵を割り入れ、フライパンを軽く揺すっている姿は、見ただけで思わず笑いを呼び起こされる光景だった。
「タツヤ、半熟でいいか?」
「ああ、それでいいよ。ケチャップかけておいてくれ」
「了解。しかしケチャップは異端だよな、普通日本人なら醤油だろ」
日本ではアメリカ帰りであることをさんざんアピールしていた(と、彼のチームメイトの黒子たちが話していた)火神が、こんなところだけ日本人を主張するのも面白い。この論争は、アメリカにいた頃から続いていた。醤油じゃなきゃと主張する火神に、ケチャップもうまいよ、と主張する氷室は、本格的な喧嘩にこそならなかったものの、どちらも互いの主張を曲げることはなかった。
「いただきまーす」
朝食の並んだテーブルについて、二人同時に手を合わせる。千切ったレタスと短いウインナーを添えた半熟のサニーサイドアップ、マーマレードジャムが一面に塗られた、こんがりと焼けたトースト。白いカップに注がれたブラックコーヒーを啜れば、その苦さに目が覚めた。
火神がトースト片手にテレビのチャンネルを変えると、先程氷室が聞き流していたのと同様のリポートがなされていた。東京で季節外れの雪が降った。画面に公園の薄紅色の桜に白い雪が積もっている光景を映し出しながら、現場のリポーターとスタジオにいるアナウンサーたちが、興奮気味にやりとりを行っている。
「アレックス、いい時に来たな。こんな珍しいもん見られるなんて」
「本当にそうだな。まるでアレックスが来るの、分かってたみたいだ」
氷室はそう言って微笑を浮かべた。
タイガは覚えているのだろうか――氷室は桜を見ながら、遠い過去に思いを馳せていた。桜を見ると複雑な思いに駆られるようになったのは、いつからだろう。おそらくは、アメリカで火神と自分の才能の差を自覚した、あの時だ。否、あるいは火神への感情が、溢れ出る才能への嫉妬と憎しみと、そしてそれとは相反する愛しい思いに変わった頃から、なのかもしれないが――
桜はアレックスと火神との、大切な思い出の一つだった。その思い出を忘れ去りたいと僅かながらも願ったあの時から、桜は氷室にとってあまり見たくないものの一つへと、変化していった。
朝余程冷えたせいだろうか、白い雪が透明な氷のようになって桜を覆っている光景を見ながら、氷室は無意識に自分の姿を重ね合わせていた。桜の開花を止めようとしているかのような、あるいは美しいまま留めておきたいと願っているかのような、あの透き通るような氷に。
「そういえば……ロスで一度、アレックスとタツヤと、桜を見に行ったことがあったよな」
とろりとした黄身と醤油のかかった白身を口に運びながら、火神が何気なくそう言った。その出来事自体は覚えていたらしい。ああ、と、氷室は胸の痛みを感じながらも、相槌を打った。火神はだんだん思い出してきたのか、おかしそうに喉の奥を鳴らした。
「なんだっけ、アレックスが自分のことを桜みたい……とか言って、オレが首を傾げたら、頭はたかれたんだよな」
「はは」
「んで、なんか難しい言葉言われて……タツヤがその意味をすらすらっと答えたから、やっぱ兄貴だな、すげーな、ってなって」
いよいよ胸の痛みが増していく。鉄の扉で封じたはずの思い出したくもない思い出が、火神の手によって軋みながらこじ開けられていく。氷室は無意識のうちに、持っていたトーストを再び皿の上に置いていた。それを見た火神が、怪訝そうに声を掛ける。
「タツヤ? もういらないのか」
「なあ、タイガ。覚えているか? 桜の花言葉」
「え?」
火神がきょとん、と目を丸くする。氷室は軽く目を逸らしながら、唇の端に笑みを浮かべて言った。
「心の美しさ、精神の美……そして優美な女性。それで、アレックスが自分のことみたいだ、って言ってたんだ」
「ああ、そういえば……」
「その後、アレックスが言った言葉は?」
「いや、覚えてねーけど……」
「そうか」
なら、それでいい。氷室は何事もなかったかのように、再びトーストに手を付けた。火神がテーブルから身を乗り出して、軽く目を伏せた氷室の顔を覗き込んでくる。
「なあ、アレックス、何て言ってたんだ? 教えてくれよ」
「今のオレたちには、関係のない言葉だよ」
「だって、そこまで言われたら気になんだろ」
腕組みをして椅子にもたれかかった火神にちらりと視線を向けて、氷室は深く息を吐き出した。
「その花言葉は、純粋にバスケが大好きなオレたちにこそふさわしい言葉だ、って言ったんだ」
火神は目を丸くした。氷室はトーストの最後の一欠片を口に入れて、火神の顔を見ないようにしながら、静かに噛み続けた。先程まで少し甘いとさえ感じていたマーマレードジャムが、何故か口の中で酸味と苦味ばかり目立つようになって、氷室は暗澹たる思いに駆られた。
「関係ないって……タツヤはバスケが好きじゃないのか」
「そうは言ってない。ただ、純粋に、というのは――」
一度言葉を切った。それ以上言うのは憚られた。
「じゃあ、なんで」
それでも火神は、身を乗り出して答えを要求してくる。
「――激しい嫉妬に駆られて、その嫉妬の相手に勝ちたいがためにバスケを続けたオレが、果たして純粋なのかどうか」
自嘲気味に言うと、火神は一瞬黙った。先日のウインターカップでの試合を思い出しているようだった。
「それに、それだけじゃないんだ」
「え、」
氷室は微笑みを浮かべた。
「もうオレはあの頃のように、タイガの純粋な兄貴ではいられなくなったってことさ」
「それって、でも、オレたちは――!」
火神は自分の首から下げたシルバーリングを握り締めた。相対する氷室の首からも、同じリングが下がっている。ウインターカップでの誠凜対陽泉の試合を経て、互いの確執は一旦解消されたはずだった。それなのにどうして、と、火神の考えていることが手に取るように分かった。確かに関係は、ある程度は元に戻った。けれども、幼い頃にはなかった氷室の心に出来た、ある一つの感情が消えない限りは、自分は純粋な存在にはなれない。
「ごちそうさま」
氷室は食べ終わった皿を重ねると、火神と目を合わせないようにしながら流し台に向かった。火神はそんな氷室を目で追い、震える声で呟くように言った。
「なんでだよ……なんでそんなこと言うんだよ、タツヤ……」
「くだらない話をしてしまったな。ごめん」
「そんなこと聞いてんじゃねーよ!! なあ、タツヤ、オレたちはもう一生戻れないのか? オレは……オレは、お前とこんな、ぎくしゃくしたままなのは嫌だ……」
「タイガ……」
自分よりも身体の大きい大男が、唇を噛んで絞り出すような声を出している。僅かに箍が外れて、堰き止めていた思いが溢れ出した。分かっている、これ以上進めないということは。これ以上進めても、何の得にもならないということは。
「……タイガ」
氷室はテーブルの上で握り拳を震わせている火神の肩を叩いた。
「あんまり可愛いことを言うなよ。……我慢、できなくなる」
「えっ、」
はっと顔を上げた火神と視線を合わせないようにしながら、氷室は何事もなかったかのように、再び流し台のところへ戻り、洗い物を始めた。ニュースが一旦終わって、再び雪桜が画面に映し出されたのを見ながら、氷室は唇に微笑みを浮かべた。
「昼になれば、あの雪も少しは溶けるんだろうな」
「えっ、あ……ああ……」
我に返った火神がつられるようにテレビ画面に視線を移す。
あの雪が太陽の光で溶けて、桜の花びらが再び本来の姿で咲き誇る日が来るように、自分もいつか、この感情にどうにか決着を付けられる日が来るのだろうか。あの頃と違って、アレックスの言葉を素直に受け止められるほど、自分の心は美しくも純粋でもなくなってしまったけれど――
朝食の続きを食べることも忘れて、呆然とテレビに見入っている火神の背中を愛おしく思いながら、氷室は肩を上下させて、深く息を吐き出した。
季節外れも甚だしいですが桜を題材にした話が書きたかった(2012.9.13)