だから、憎いと思った。
 だから、捨てたいと思った。
 だから、壊してやりたいと思った。
 だから、――――


 互いの首から提げたチェーンが揺れて、一瞬触れ合い耳障りな金属音を立てる。
「んぐっ、んんっ……!」
 一つ年下のくせに、自分よりも背が高くて、肩幅もあって、そんな大男が自分の力に抗えず壁に押しつけられている様は、実に滑稽な光景だった。
 彼の手のひらの熱を自分の冷たいそれで奪うように、指を絡めながらぐっと力を込める。同時に、軽く触れたままだった唇も更に深くへ、禁断の場所へと沈んでいく。
 このまま歯を立てて、唇をかみ切ってやりたい衝動に駆られた。火神の乾いた唇が自分の唾液で潤っていくのを感じながら、心の中で忌々しい、と吐き捨てる。アレックスの行きすぎた愛情表現しか知らない唇。同世代の男たちはもっと女という柔らかい生き物に夢中で、中には童貞を捨てた奴もいるくらいなのに、この男ときたら、まるでそういう匂いがしない。それだけバスケに夢中だったのだろう。まさにバスケバカだ。そう思うと同時に生まれたやりきれない苛立ちが、氷室の手に更に力を込めさせた。
 やがて氷室はゆっくりと顔を引いた。ようやく解放された唇の間から必死に酸素を取り込もうと肩を上下させる火神を、氷の如き冷たい瞳で睨んでやる。その視線に気付いて、はっと目を見開いた火神に、更に追い打ちをかけた。
「……抵抗、しないんだな」
「タツヤ、なんで……っ」
「男からの口付けを素直に受け止めるなんて、タイガは女に飢えすぎているのか、それとも……ゲイなのか、どっちかな」
 唇の端を吊り上げて笑ってやる。火神が鋭く息を呑むのが分かった。屈辱にまみれればいい――氷室は明らかにショックを受けた顔をしている、かつての弟分を冷めた目で見つめた。
 かつては自分も彼の前で兄貴面をしていた。そうすることが楽しかった。そんな自分を兄と慕ってくれる火神がいることが、何より嬉しかった。
 けれど、賢い氷室はやがて悟る。自分と火神の才能の差が、天と地ほどに開いていたということに。自分がどうあがいても到達できない場所に、火神がいたことに。そして不幸なことに、火神がそれに、未だ気付いていないということに――
 アメリカでの最後の試合となったあの日から、首から提げた忌々しいシルバーリングを何度捨てようと思ったか知れない。火神の前で引きちぎったはずのチェーンも、気付けば元に戻っていて、氷室は激しい自己嫌悪に駆られた。捨てたい。全てを忘れて、あんな奴なんていなかったことにして、自分は自分の道を歩んでいきたいと思うのに、どうしてもその手から離れていかないのだ。
 そんな火神と、日本で再会した時は驚いた。否、ああ、やはり――と思った。火神も自分も日本に帰国し、それからもバスケを続けている以上は、どこかで会うだろうと確信にも似た思いを持っていた。その予感が当たっただけにすぎない。相変わらず少し頭の回転が鈍いかつての弟分は、氷室の顔を見て人目も憚らず大声で自分の名を叫んでいたけれど――
 火神はまだ、自分を兄貴と慕っていた。自分と同じように首から提げたあの指輪を見た瞬間、氷室の心にどす黒い感情が宿った。なんというおめでたい頭なのか、と。兄貴と慕われることそのものが、煩わしくて煩わしくて仕方がないというのに。
 だから、憎いと思った。だから、壊してやりたいと思った。自分は火神が慕うような兄貴などではない、そう彼の前で思い知らせてやりたかったのだ。
 ウインターカップの会場で出会った彼に、後で話があるからと呼び出すのは簡単だった。あの時面食らいつつも微かに期待の宿った声を上げた火神が滑稽でならなかった。誰にも見つからぬよう建物の陰で、呼び出して早々に壁に押しつけた氷室のことを、火神はどう思ったのだろう。それでも抵抗せずに、なんでとかタツヤどうしたんだとか、どうでもいいことを口にするばかりだから、余計に腹が立った。
 だから唇を押しつけてやったのに、この結果には実にがっかりした。火神は信じられないという瞳で氷室を見つめている。手はわなわなと震えているけれど、氷室の言葉に屈辱を感じているようには見えない。
「腹が立たないのか、タイガ。お前のファーストキスだったんだろう――アレックスを除けば、だが」
 この多感な時期の男子に、ファーストキスだのなんだのという言葉は実に効果的に響くはずだったのに、火神はそれでも怒りを感じているように見えない。ただただ、信じられないと唇を震わせている。先程氷室が潤わせた唇は、陰の中でも一際目立って艶めかしい輝きを放っていた。
 心の中で生まれた感情を氷室は心底嫌悪した。まさか、こんな時になって、押し殺してきた思いが顔を出すだなどと。
「タツヤ、なんで、こんな、お前――」
「お前こそゲイじゃないのか、って? 残念だけど、オレはタイガが思ってるような兄貴じゃないよ」
 その言葉を、火神がどのように受け取ったのかは知らない。ただ、火神が慕う自分ではもうないのだということを、思い知らせてやりたかった。そして、願わくば、火神が自分を捨ててくれることを願った。何故なら、自分にその気力はもうないから。
 火神の握り拳が強く震えていた。俯いた彼の唇が、きゅ、と口の中に引っ込んで、彼がそこに歯を立てたのだと分かった。悔しいか、憎いか、自分に向けられる感情が、そのどちらかであればいいのにと願った。
「……オレは……オレは、それでも、それでも、タツヤを……」
 ぷつん、と何かが切れる音がした。一瞬でも期待をした自分は、相当バカだったと――そう言われたと同義だった。氷室は鬼のような形相で、再び火神に迫った。
「っ!」
「タイガ、お前は、自分が一体何を言ったか分かっているのか!!」
 怒りに任せて再び押しつけた唇は、微かに血の匂いがした。歯がぶつかり合って鈍い音を立て、窒息させてやると言わんばかりの勢いで、唇を火神に押しつけた。勢いで呑み込まれた火神の熱い息が、再び腹腔から押し戻されて返ってくる。氷室はそれを丸呑みした。
 黙って受け止める火神に、あらゆるものが混ざり合った激しい感情が湧き上がった。自分が火神に兄貴以外の目で見られることがないという事実が、悔しくて、そして悲しかった。
「ん、っはぁっ、タツ、――」
「煩いな。舌、噛むぞ」
「オレは……っタツヤ……」
 氷室の息継ぎの合間に呼ばれる自分の名が、憎くて愛おしくてたまらなかった。火神が言おうとして呑み込んでいる言葉は、おそらく火神自身にもまだ分かっていないに違いない。彼は頭の回転が鋭くて、鈍いのだ。湿った唇から唾液が零れる。それすらも音を立てて吸い上げてやったら、火神は目を見開いた。軽蔑するか。そう身構えたのに、揺れっぱなしのはずの火神の瞳は、その点では塵ほども揺らがないのだった。
「――ツヤ、なんで……」
「なんで? それはオレの台詞だ! 何故タイガ、お前は……!!」
 ――そんなにも、オレに縋るんだ。
「心底失望したよ、お前には」
 吐き捨てて、氷室は火神に背を向けた。再びチェーンが揺れて耳障りな音を立てる。鎖に手を掛けて、力を込めて、けれども引きちぎれない自分が嫌で嫌で仕方がなかった。火神もおそらく、自分からあのチェーンに手を掛けることはしないのだろう。ああいっそ、と氷室は思った。あのチェーンを握り締めて、自分の首を絞めてくれたら、どんなにいいか。


「待ってください」
 ウインターカップ会場の建物の角を曲がったところで、氷室は足を止めた。少し視線を下げると、そこには火神の今の相棒――黒子テツヤの姿があった。氷室は一瞬目を見開いたが、やがて柔らかな微笑みを、その唇に浮かべた。
「黒子くん……だったかな。何か用かい?」
「お願いがあります」
「このオレに、一体何だろうか」
 黒子はすう、と息を吸って、思いがけない言葉を吐き出した。
「無駄なことをして、これ以上お互いの体力を消費しないでください」
 一瞬、何を言われたか分からなかった。
「どういう、意味……かな?」
 出来る限り愛想の良い顔をしたつもりだが、黒子の表情は少しも揺らがなかった。タイガは自分のことを、相変わらずのポーカーフェイスと称したけれど、本当はこの男の今の表情の方が、真のポーカーフェイスなのではないだろうか――そんなことを思うほどに。
 黒子の瞳の奥は笑っていない。一点の曇りも見られないその瞳に、氷室は一瞬恐怖した。
「火神くんが、あなたを捨てられるはずがないじゃないですか」
 喉元を強い力で抑えつけられたような感覚がした。息が出来ない。黒子の視線が鋭いナイフとなって、氷室の胸を突き刺した。
 知っていた。知っていたはずなのだ。火神大我がこれ以上ないくらいに優しくて、これ以上ないくらい、不器用なことに。そしてこれ以上ないくらい、自分を慕っていたことに。
 気付かないふりをして、氷室は自分の業を押しつけた。自分の手を汚したくなかった、卑怯な自分に目を逸らし続けた。けれどもそのまま逃げ続けることを、黒子は許さなかった。それが果たして自分のためなのか、それとも光と仰ぐ相棒のためなのか、わからないが。
 氷室は目を細め、ふっと笑いを洩らした。
「……そうだな。無駄、か。結局は実にならないことをした、と」
 けれど、と氷室は歩を進める。靴の位置が黒子と重なったところで、
「――でも、オレはまだ、認めるわけにはいかないんだ」
 その行為が、無駄だった、などと。
 黒子が振り向く気配があった。けれども彼は、もう何も言わなかった。
 氷室は空を仰いだ。憎くて愛おしい弟分の髪と似た、真っ赤な夕焼け空。氷室は無意識に、指輪を握り締めていた。その頬に一筋の露が滴ったことにも、気付かないまま。


 だから、憎いと思った。
 だから、捨てたいと思った。
 だから、壊してやりたいと思った。
 ――だから、タイガを、愛おしいと思った。


火神くんに対して歪んだ愛憎を抱く氷室さんが好きです(2012.9.12)