“拝啓 親愛なるカミュ伯爵へ

 時下ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
 ニホンのてがみの書き方にも、そろそろなれてきました。けれど、ジカ、マスマスゴセイショウノコトトオヨロコビモウシアゲマス、なんて、なにかの呪文みたいで、まだよく意味が分かりません。やはりニホンゴはむずかしいですね。
 ワタシの国では、日中はやけるようなあつさですが、夜はこごえそうなくらい寒くなる日があります。夜、外で月を眺めるとき、砂漠のひんやりとした空気にふるえながら、そちらで一日だけ過ごしたときのことを思い出します。この世とは思えないようなさむいさむいアナタの国で、アナタがにぎってくれた手が、どれほど温かく感じられたことでしょう。
 ワタシの国には、残念ながらニホンほど咲いている花は多くありません。けれどこの間、オトヤに頼んで、一本だけ送ってもらったので、差し上げます。
 これがアナタの心に届きますように


敬具
                           アグナパレス 愛島セシル”



 先程届いたばかりの手紙を丁寧に折り畳み、磨き込まれたマホガニー製の机の上に置くと、カミュは黒縁の眼鏡を指先に引っかけて外した。
 その口からは、自然と溜息が洩れる。手紙の最後にたとたどしい日本語の文字で書かれた署名を、そっと人差し指の腹でなぞった。
 書斎の暖炉から、薪の爆ぜる音が小気味よく響く。その中で煌々と燃える赤い炎を見ながら、カミュもまた、少し前の記憶へと思いを馳せていた。
 あれは暑い暑い砂漠の国。日本の夏ですら暑くてかなわないと思っていたのに、よもやあのような灼熱地獄に行くことになろうとは、予想もしていなかった。一歩歩いただけで黒い革靴が砂に埋もれ、砂から放たれた熱がじわじわと皮膚の上へと這い上がってくる。ぎらぎらと照りつける太陽の下にいるだけで汗が滲み、喉の渇きがすぐさま我慢の限界に達した。
 この国では、水はとても貴重なものなのです。そう言って彼がオアシスから掬い恵んでくれた水が、どれほどありがたいものに思えたことか――同時に、彼の手の中で揺らぐ透明の水に一心不乱に口を付けていた自分を思い出し、思わず眉間に深い皺が刻まれた。
 ――忌まわしい記憶、か、それとも。
 手紙に添えられていた紫苑の花は既にしおれかけていたものの、それでも必死にカミュに向かって花を広げていた。
 これがあの男の意志なのだ。カミュは弱々しい茎を持って軽く指先で転がした。激しく振れば細い花びらなんてあっという間に散ってしまいそうなのに、それでも紫苑は原型を留め続けた。まるで一度こうと決めたらてこでも動こうとしない、頑固なあの男のようだった。
 胸に突き刺すような痛みが走り、カミュは深く息を吐き出した。瞳を閉じて、更に過去の記憶を辿った。

 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 



 あれは、セシルが作り上げてきた曲がようやく日の目を見ようかという時のことだった。深夜の歌番組に呼ばれ、新曲を披露する機会を得たのだ。
 収録日のセシルは、朝から大はしゃぎだった。朝はコーヒーと共に静かに過ごすと決めているカミュは、いつも以上に眉間に深い谷を作っていた。
 忘れ物はないか、歌詞はきちんと覚えているか、と、まるで遠足の日の子どものようにはしゃぐセシルを、カミュは睨んで一喝した。
「この俺がコーヒーを楽しんでいるところなのだ、静かにしろ!!」
 忌々しさに任せて角砂糖をもう一つ追加する。セシルは途端に火が消えたようにしゅんとなって、
「ごめんなさい……」
 と、申し訳なさそうに上目遣いで謝ってきた。カミュはふんと鼻を鳴らし、コーヒーの香りと味を楽しむことに専念することにした。
 やがて準備を終えたらしいセシルが、躊躇いがちに話し掛けてきた。
「あの……カミュ」
「なんだ、静かにしろと言っているだろう」
「今日、確かオフだと言っていましたよね」
「そうだが、それが何だ」
「ワタシと一緒に、スタジオに来てくれませんか」
 よそを向いて素っ気なく返事をしていたカミュは、驚いてセシルの方を向いた。
「俺が? 何故貴様に付き合わねばならんのだ、貴様は一人では何も出来ない赤子か?」
「違います! ワタシの歌を、カミュにも聞いて欲しいのです」
「貴様の歌なんぞ、ここのところ耳にタコが出来るくらい聞いているではないか」
「耳にタコ? 耳からタコができるのですか? なんだか、キモチワルイです……」
 慣用句の意味が分からず勝手に気味悪がっているセシルに向かって、カミュは煩わしげに手を振り払う仕草をした。
「貴様はもう少し日本語の勉強をしておけ! 要するに、貴様の歌なんぞ毎日のように聞いているのだから、今更聞きに行く必要はないだろうと言っている」
 でも、とセシルは食い下がってきた。
「いわば、今日はワタシの晴れ舞台。そのワタシの姿を、カミュに直接見てもらいたいのです!」
 力強く訴えるセシルにぐいと身体を近づけられ、カミュは軽く仰け反った。こういう時のセシルは何を言っても考えを変えないし、結局はカミュが折れる羽目になるのだということを、これまでこの後輩と付き合ってきた経験から容易に想像ができた。
 せっかくのオフは一人で静かに心を休めようと考えていたカミュだったが、これ以上セシルとの問答に付き合って時間を浪費させると、余計に疲労が溜まりそうだ。
「顔を近づけるな! ……今日だけだぞ、二度目はないと思え」
「本当ですか! 嬉しい。カミュ、ありがとう!」
「ふん。子どもめ」
 コーヒーの残りを飲み干しながら、カミュはやれやれと心の中で溜息をついた。


 歌番組にはセシルと、もう一人別の事務所に所属している若手男性アイドルグループのメンバーが出演していた。歌を披露した後、司会とトークをして、曲や自分を売り込む。
 セシルは相変わらずたどたどしい日本語で、司会の方も若干戸惑っている風だったが、さすがはプロというべきか、トークにうまくオチを付けて笑いを取っていた。もう一人の方はバラエティ慣れしているということもあり、トークはセシルに比べて非常に軽快だった。
 カミュは先にスタジオを後にし、楽屋に戻ってきたセシルを迎えた。セシルは大喜びとはいかないまでも、清々しい表情をしていた。楽屋にはもう一人のゲストも戻ってくるはずだったが、一緒には来ていないらしかった。
「カミュ、ワタシの歌は――」
 目を輝かせて褒め言葉を待ったらしいセシルに、カミュは素っ気なく言葉を叩き付けた。
「貴様はトークの練習をすべきだ。歌をメインに活動するとはいえ、これからの時代、トークのできる人間の方が確実に人気は取れる。今日のあれは何だ? せっかく良いフリが来たというのに、額面通りに受け取って真面目に返すなど言語道断だ」
「あ、あれは……ワタシはそうだと、気付かなくて……」
「気付けるようになるべきだ。飛んでくるフリに臨機応変に対応できるようにならねば、貴様はいつまで経っても売れないままだ」
 セシルは俯いて、ぐっと唇を噛んでいた。セシルは確かに頑固だが、的確な指摘をすればそれを受け止めて反省する。今も必死に、カミュの手厳しい言葉を自分の中に呑み込む作業をしているのだろう。
 眼鏡を上げる仕草をしながらセシルの様子を見守っていると、楽屋の扉が開いてもう一人のゲストが顔を出した。
「カミュさん、来られてたんですか。お疲れ様です!」
「ああ、お疲れ様」
 セシルより一年デビューの早い彼は、先輩にあたるカミュにはつらつとした笑顔で挨拶をした。
 その後で、俯いて一人で反省会をしているセシルを一瞥する。その際、いつも人前で爽やかな笑顔を見せている彼が、嘲笑うように唇の端を歪めたのを、カミュは見逃さなかった。
「しかし、カミュさんも大変ですね」
「何が、かな」
「あんまり言葉の通じない人を指導するなんて」
 ぴくり、とセシルの肩が動き、カミュは僅かに顔をしかめたが、彼はその微妙な変化に気付いていないようだった。
「今日の歌は、日本を意識したような曲調と歌詞でしたけど……日本語できないのにあんな難しい言葉使えるなんて信じられなくて。ほんとはカミュさんが書いたんじゃないですか、あの歌詞」
 セシルがはっとしたように顔を上げた。その表情は、怒りよりも悲しみに満ち溢れていた。カミュも思わず、全身が怒りで震えるのが分かった。
 セシルの日本語は、確かにまだたとたどしいものだ。だが歌に込める思いは人一倍で、歌詞を作る時もその思いは変わらない。日本人の母を持ち第二の故郷日本を愛する彼は、同時に日本語のことも深く愛していて、一つ一つの言葉の響きを大切に歌詞を作り上げてきたのを、カミュは知っている。カミュが一切アドバイスをしなかったと言えば嘘になるが、基本的にはセシルの質問に答えてやった程度のものだ。様々な文献などから言葉を拾い集め、丁寧にその意味を調べ、音の響きに当てはめていく作業は、紛れもなくセシル一人で成し遂げたものなのだ。
「ワ……ワタシは!」
 反論するべくセシルが声を荒げようとするのを、カミュは手で制していた。どうして、と彼の瞳が問いかけてくるので、いいから黙っていろ、と強い視線を送った。
 セシルのトークは確かにまだまだだったが、歌に関しては本当に素晴らしいといえるものだった。セシルを手放しに褒めるのは気が進まないから、敢えてカミュが言及しなかっただけのことだ。彼にとっては世間話程度に軽口を叩いただけなのかもしれないが、その中には、多少の嫉妬も含まれているだろう。自分よりデビューの一年遅い新人が、自分よりも人の心を掴む歌を歌っていることへの嫉妬だ。
「口を慎め、この愚民めが。貴様なんぞに、この男の価値が分かろうはずもない」
 カミュの氷のような冷たい声に、さすがの相手も驚いたようだった。おどおどし始めた彼を尻目に、カミュはセシルの手を強引に掴む。
「行くぞ、愛島」
「あっ、待ってください、カミュ……!」
 慌ててソファの上に置いてあった荷物を拾い集め、セシルはカミュの手に引かれるがまま、テレビ局を出た。
 自分でも、どうしてこんなに腹が立っているのか分からなかった。後輩など煩わしいだけのもので、社長が言うから仕方なく面倒を見てやっている、という認識でいたというのに、自分の中ではどうやらそれだけではなかったらしいことに気付いた。
「カミュ、待ってください! 手が、痛いです……」
 はっとして手を離すと、セシルの身体が軽くぐらついたが、慌てて立て直した。
「あの、カミュ、さっきは……」
「愛島。この先に、美味いラーメン屋があるらしい」
「……え?」
 ぽかんとするセシルに構わず、カミュは前を向いたまま言葉を続けた。
「寿が絶賛していた。俺はラーメンなどという庶民の食べ物は好かんが、貴様が行きたいというなら、付き合ってやらんでもない」
 それが、今の自分にできる最大限の譲歩だった。
 いつだったか、グルメ番組を見ていた時、そこに出てきたラーメンに興味津々で、画面を食い入るように見つめていたセシルのことを思い出したのだ。ラーメンを褒めるグルメレポーターの過剰な言動を見ながら、くだらん食べ物だ、とカミュが一蹴したせいで、セシルは何も言わなかったが、あらゆる日本の食文化に興味津々のセシルのことだ、いつか食べたいと思っていたに違いないのだ。
「い……行きます! 行きたいです!」
 セシルは戸惑いつつも、力強く頷いた。
 カミュは満足げに唇の端を吊り上げて、ついてこい、と視線で合図した。心なしか自分の足も、セシルの足も軽くなったような気がする。先程の怒りを忘れてしまいそうなわくわくとした感覚に、カミュの頬はいつもより緩んでいた。

 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 



 それからだ。二人の間に、特別な感情が芽生えるようになったのは――
 意識を一旦現へと戻し、ゆっくりと目を開けて真っ先に視界に入ってきたのは、カミュの白い指先につままれた紫苑の花だった。
 あの時の、全く自分らしくもない、燃え上がる炎のような感情に突き動かされていた自分。どうかしていた、と振り返って改めて思う。本当にどうかしていたのだ。けれど、愛島セシルという人物がそこまでの感情を抱かせるくらい、自分に対して影響力を持っていたのは間違いない。音楽などくだらぬと切り捨てていたカミュが、セシルの歌声を愛おしく感じるほどに。そしてセシルへの侮辱が、自分に対する侮辱と同じだとして、激しい怒りを感じるほどに。
 ――そういえば。
 ふと、便せんを切らしていたことを思い出す。普段なら、使用人に言って買いに行かせるところだが、今日は敢えてそうしないことにした。外は微かに雪がちらついているが、外出を迷うほどのものではない。
 眼鏡をかけ、ハンガーにかけたカシミヤのコートの袖に手を通す。マフラーを丁寧に首に巻き、暖炉の火を消してから外に出た。
「お出かけですか」
 廊下で会った、年老いた侍女に尋ねられ、カミュはああと頷いた。
「お気を付けて」
 玄関まで見送ってくれた彼女に軽く手を振った後、カミュは街へと出掛けて行った。


 レンガ造りの建物が建ち並ぶ街で、カミュは真っ直ぐ馴染みの文房具屋に歩いて行った。この天気でも、多くの人々が買い物のために店に立ち寄っているし、雪で遊ぶ子どもたちの姿も見られる。彼らの声は騒がしいが、決して不快なものではない。
 いつも使っている便せんは、路地裏にひっそりとたたずむ文房具屋にあった。静かな店内は少々狭いものの手入れが行き届いていて、古めかしい木の棚に並んだ商品は個性的なデザインのものも多く、主人のこだわりを感じさせた。
 いつも使っている白地の便せんを手に取ったところで、その隣に置いてある様々な装飾の入った便せんが目に入った。ドット模様やストライプ、花柄、クマやキツネといった動物のものなど、それまではあまり目を向けてこなかった様々な柄を見て、カミュは素直に新鮮だと感じた。
 ――愛島なら……
 カミュは今まで受け取った、彼からの手紙を思い返していた。アグナパレス王室の紋様が刻まれた封筒はいつも決まった形だったが、その中に入っている便せんは、いつも違った模様で縁取られていた。例えば春ならサクラ、夏ならヒマワリ、といったようにだ。アグナパレスもシルクパレスも日本ほどのはっきりとした四季を感じないからこそ、その四季を懐かしむ意味で選んでいたのだろうと、カミュは今更ながらに思い至る。
 今は10月の下旬。既にシルクパレスでは雪がちらつき始めているが、世間的には秋と呼ばれる時期だ。カミュはいつもの白地の便せんを置いて、少し遠くに置かれていた赤と黄の紅葉の便せんを手に取った。
 らしくないと言われるかもしれないが、一度くらいなら構わないではないか。そう思い切って、カミュは便せんを購入した。
 冬の装いを始めたシルクパレスの街に、白い妖精達が舞う。灰色の空から舞い降りる雪を見ながら、カミュは再び遠い記憶に思いを馳せた。
 あれは確か、先程の記憶から三ヶ月ほど経った後のこと――

 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 



「ワタシもシルクパレス、行ってみたいです!」
 一週間予定を空けてシルクパレスに帰国することにしたカミュがそのことを話すと、セシルは寂しがるでも快く送り出すでもなく、一緒に行くなどととんでもないことを言い出した。
「馬鹿なことを言うな。貴様、仕事はどうするつもりだ」
「これから五日間はオフだと言われました。少しでいいのです、連れて行ってください」
 五日も連続でオフがあるなんて決して褒められたことではない、とたしなめようとしたが、今のセシルにそんなことを言っても馬の耳に念仏だろう。結局また自分が折れることになり、うきうきと旅の支度を始めるセシルを見ながら、カミュはつくづく自分の甘さが嫌になるのだった。
 シルクパレスまではジェット機をチャーターした。これならば一瞬で祖国に着くことができる。初めてのジェット機だとはしゃぐセシルに、カミュは頭痛がするのを感じたけれども、同時に妙な高揚感があったのも事実だった。
 身内にはセシルの身分は伏せて、日本でのアイドルとしての後輩だということだけ紹介し、二日間のみの滞在を許した。基本的にセシルに構ってやる暇はなかったのだが、一日目の昼間に空いた時間で、セシルを街へと連れて行った。
 ジェット機に乗っている間は一面の雪景色を見て大げさなくらいに騒いでいたというのに、シルクパレスに到着してからというもの、セシルはしきりに寒い寒いと身体を寄せてきて、その度にくっつくな、と向こうへ追いやらねばならなかった。部屋に荷物を置いて外へ出た後、何度も注意した後だというのに、またセシルが寒いと言ってカミュの方に身を寄せてきた。
「寒いです……ここは本当に地球なのですか? 信じられません!」
「来たいと言ったのは貴様だろう。我が国が気にくわないなら、さっさと帰れ」
「それはイヤです」
 きっぱりと言いながら、そっとカミュに身体を寄せる。カミュはもう振り払うのも疲れて、セシルの冷たさで真っ赤になった手を、コートの袖の中に隠して見えないようにしながら、そっと握った。セシルが驚いたように顔を見上げてきたが、カミュは敢えて気付かないふりをして歩き出した。
 店の建ち並ぶ街の中心部に来ると、セシルはわぁ、と感嘆の溜息を洩らした。カミュにとってはいつもと変わらない風景だから、そんなにも瞳をきらきらさせるような何かがあるのだろうかと疑問に思ったが、そういえばセシルは日本で生活している時も、デパートやショッピングモールのような店の立ち並ぶ通りに行くたび、楽しそうに瞳を輝かせていたのを思い出して、納得がいった。
「スバラシイです! すごく寒いけれど、活気があって、みんな生き生きしている!」
「当然だ。我が国民は皆女王の慈悲と恩恵を受ける身。シルクパレスに生きているというだけで、幸福を感じることができるのだ」
「なるほど……皆、女王様のことを敬愛しているのですね」
 セシルは納得したように何度も頷いた。
 まさに“敬愛”という言葉は、シルクパレスの国民が女王に抱く感情を的確に表している。普段から誰とも馴れ合わぬ態度のカミュも、女王にだけは心を開き、心から敬愛の念を抱いている。日本に行くまでのカミュは、女王のためだけに生き、女王のためだけに動く男だった。
 それがもはや過去形となってしまったことに、カミュは罪悪感を抱いていた。無邪気に笑うセシルに対し、許されぬ感情を抱いているということは、重々承知している。そもそもこの国に他国の王子を、誰の許可もなしに黙って連れてくるということ自体が論外なのだ。以前のカミュならば、そんなことは決して許しはしなかっただろう。
 自分が情に流されるだなんてどうかしていると思いながら、カミュはその思いを堰き止める術を持たなかった。今だってセシルの冷たい指先を温めながら、妙な高揚感に襲われている。心の中で溜息をついて、カミュは自身を軽蔑した。
「カミュ! あれ、とてもキレイです! 見てください!」
 突然セシルが建物に向かって走り出し、カミュは咄嗟のことに反応できずずるずると引っ張られていく羽目となった。
 セシルが向かったのはガラス細工の店だった。そこの職人は昔から腕が良いと評判で、女王にも気に入られ、年に何度か作品を献上していると聞いたことがある。
 玄関先に飾られていた赤、青、黄などの様々な色をした動物たちのガラス細工を、セシルはあらゆる角度から眺め回し始めた。まるで子どもだな、と馬鹿にするはずが、カミュはいつの間にか頬を緩ませてその様子を見ていた。
 やがて店主が出てきてガラス細工について話し始めたが、セシルはシルクパレス語が分からずぽかんとしているので、カミュが間に入ることにした。
「カミュ、彼は何と言っているのですか? ワタシにも分かるように説明してください」
 そうせがむセシルに、わかったわかったと子どもに言い聞かせるような口調で返し、店主の言葉を通訳してやることにした。
「すまない。奴は日本から来たものだから、ここの言葉が分からぬのだ」
 シルクパレス語でそう告げると、店主は納得したように頷き、今度はカミュに向かって説明をし始めた。このガラス細工工房の歴史、工房を支える職人たちの苦労、そして作品の精巧さ。セシルはカミュが訳す言葉を聞き逃すまいと、真剣な表情で耳を傾けていた。
 店主の言葉は少々長かったものの、話を聞き終えたセシルはいっそう目を輝かせて、ガラス細工を素晴らしいと褒めちぎった。一つ土産に欲しいと言うので、カミュはシルクパレスの通貨を持っていないセシルのかわりに代金を支払うことにした。
 セシルが気に入ったという青いフクロウのガラス細工を指差して、店主にこれをくれと告げると、セシルが横から手を出して、もう一つ隣に並んでいた赤いフクロウも一緒に、店主に差し出した。
「同じものを二つも買ってどうするつもりだ」
 咎めるような声を出したカミュに、セシルはにっこりと笑って言った。
「もう一つはカミュの分です」
「……俺には不要のものだ」
「じゃあ、ワタシからのプレゼント。もらってください」
「俺に払わせておいて、一体何を言っている」
「もちろん、後で返します。アグナパレス王室に請求しておいてください」
 セシルの口からアグナパレスという単語が出たことに一瞬焦ったが、日本語の分からない店主に気付かれることはなかったようだ。にこにこと微笑むセシルがどれほど本気で言っているのかはかりかねたまま、カミュは代金を支払って、二つの色違いのフクロウのガラス細工を受け取った。
「もう気は済んだか」
 カミュが尋ねると、セシルは少し考えて、首を横に振った。
「もう少し、アナタと一緒に歩きたい」
 そう言って、自然な動作でカミュの手を握った。セシルの手は先程よりも熱を取り戻していて、思わず心臓が跳ね上がった。
 そのまま街を突っ切るようにして歩く。郊外まで出ると、建物も人通りも少なくなった。
 しばらく歩いていると、突然セシルが立ち止まった。
「カミュ……知っていますか?」
「何を、だ」
「フクロウは幸福の象徴なのです。だから、これを持っていれば、ワタシもカミュもきっと幸せになれる」
 握っていないもう一方の手で、セシルがカミュに向かって青いフクロウを見せた。セシルの顔からは、いつもの穏やかな微笑みが消え失せていた。
「ワタシとカミュが幸せになれる道は……何なのでしょう。カミュ、分かりますか?」
 咄嗟に答えかねて、カミュは視線を逸らして軽く俯いた。胸の奥の痛みがじわじわと増してくる。
「貴様は卑怯な男だな」
「どうしてですか」
「貴様の中に答えはあるのか。答えのない問いを他人に投げかけるな」
 自分でも驚くくらい冷たい声が出た。セシルは一瞬言葉に詰まったらしかった。だがそれでも果敢に、カミュに――否、目の前の見えない敵に向かって、挑むように言葉を投げてくる。
「ワタシは……アナタと共にいれば、きっと幸せになれる」
 うっかり目を合わせてしまったことを後悔した。セシルの瞳は純粋無垢だった。逸らそうにも磔にされたように動けなくなり、カミュは唇を噛み締めた。
 彼も自分の立場が分からぬ子どもではないし、それが叶わぬ願いであると、薄々感付いてはいることだろう。だがそれでも、1%の可能性をも諦めない純粋さがある。セシルよりも数年早く生まれたカミュの中からは、とっくに消え失せてしまった感情だ。
「貴様ももう子どもではないのだろう。世の中には実現不可能な望みも存在するのだと、何故理解せんのだ」
「不可能なのはどうしてですか? ワタシがアグナパレスの王子で、アナタがシルクパレスの伯爵家の生まれだから?」
「分かっているなら、何故――」
「ワタシはワタシ、カミュはカミュです。それ以外の何物でもない!」
 語気を強め、セシルはそう言い放った。カミュは一瞬気圧されそうになる。正論故に反論はできない。けれども世間は必ずしも正論を素直に受け入れるわけではない、むしろ排除することの方が多いのだと、カミュはよく知っている。けれどもそれを伝えたところで、セシルの意志が揺らぐこともないと知っていたから、カミュは無言を貫くしかなかった。
「カミュ……少しの間でいいのです」
 カミュの手を握るセシルの手の力が強くなる。
「身分も立場も性別も――全てを忘れさせてください」
「……一体どうするつもりだ」
「ワタシの国へ来てください」
 カミュは目を見開いた。思わぬ提案だった。
「何故、そのようなことを」
「ワタシのことをもっと知ってください。その上で――不可能かどうか、決めてください」
 咄嗟に返答できず、カミュはその場に立ち尽くす。
 セシルの瞳の奥の強い光が、カミュの心を大きく揺るがした――――

 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 



 本国で残していた仕事を一日で終わらせ、アグナパレスに飛ぶ――それが、あの時のカミュの出した結論だった。
 どれほど軽々しい決断だったろうと、今振り返って思う。結局、そのことは何の解決も生まなかった。アグナパレスへ行き、セシルの生まれ故郷を肌で感じた。自分とはあまりにも違いすぎる環境で育った彼を、ますます愛しく思う気持ちが強くなったのも事実だった。けれど同時に、全てを捨てて自分たちだけが結ばれることなどできぬと、強く実感した。カミュを含めたシルクパレスの国民が女王を敬い慕うように、セシルもまた、王子として国民たちから大きな期待を集めている。カミュだけではなく、久々に母国に帰ったというセシルも、それをひしひしと感じたようだった。
 日本でのアイドル活動を止め、それぞれの国に帰った二人ができることといえば、こうして文を交わす程度のことだ。淡い感情が浮き上がることはあれど、あの時自分の原動力になっていたような、強い情は生まれない。生まれぬよう、自身を制している。だから文の内容も、お互いの近況を尋ね合うような、他愛もないものが多かったのだ。今までは。
 それを変えたのが、先程セシルから送られてきた文と添えられた紫苑の花だった。
 カミュは便せんを購入した帰り、花屋に立ち寄った。季節は秋から冬へと移ろい始める中、花屋の店内だけは、年中様々な種類の花々が色鮮やかに咲いているのだった。
「何かご入り用ですか」
 女の店員が話し掛けてきたので、カミュは迷いなく答えた。
「千日紅を一本」
「かしこまりました」
 店員が用意してくれるのを待つ間、カミュは彼女に話し掛けた。
「シオンという花を知っているか」
「ええ、紫色の綺麗な花ですね。先日まで、私の家の裏庭にも咲いていました」
 一本の千日紅を薄紙で包みながら、彼女は言葉を続ける。
「花言葉は確か、“遠くのあの人を思う”」
 カミュが静かに頷くと、彼女は愛らしい微笑みを浮かべた。
「この千日紅……その遠くにおられる方のことを、本当に愛していらっしゃるのですね」
 カミュは気まずさを感じ、思わず視線を逸らした。花を贈るなどというのは趣味ではないのだ。挨拶代わりに女性に対してならともかく、後輩の、しかも男になど。
 急いで代金を支払って、一本だけにも関わらず丁寧に包んでくれた彼女に短く礼を言って、花屋を出た。
 真っ赤な千日紅は、雪がちらつくだけのモノクロの世界によく映えた。あの鈍色の雲を切り裂き地上を照らす、太陽のようだった。
 変わらぬものなどない。現に自分たちの環境は、日本にいた頃と随分変わってしまった。けれども――カミュの心の中で、一本の細い糸のようになっても、切れることなく続く確かな感情が、一つだけある。
 手紙の文章を考えながら、カミュは足早に自宅に戻った。


“拝啓 親愛なるセシル王子へ

 あのような花を送りつけるなど、一体どういうつもりだ――と、問いただしたかったが、どうやら俺も貴様に毒されてしまったらしい。
 この花を見ていると、貴様の国のあの灼熱の太陽を思い出す。暑くてかなわないという思い出しかないというのに、どうして今更になってそれを懐かしんでしまったのか、自分でもよく分からない。
 貴様と関わると、本当に碌なことがないとつくづく思う。数年前の俺が、お前と文通しているとなどと知ったら、狂気の沙汰だと吐き捨てるに違いない。
 貴様は数年前、俺に卑怯な問いを投げかけた。そうだ、貴様はいつも卑怯だ。あのような花を贈って、俺を一体どうしたいのか。投げっぱなしで、俺をこれ以上動揺させるな。
 卑怯ではないと証明したいのなら、きちんと自分の言動に責任を持て。



敬具
シルクパレス カミュ


 P.S.
 近く、日本を訪れる用ができる。その時は――――”


それぞれの国に帰ってから文通する二人っていいなという妄想から生まれた産物です(2012.3.22)