カミュ先輩の黒縁眼鏡に萌え隊(2011.12.6)
灰色の雲が空を覆い、冷たい木枯らしの吹く日だった。ショッピングモールの喧噪を耳障りに思いながら、カミュは早足である店へと向かっていた。
「全く……」
呟いて、忌々しげに溜息をつく。昨夜の出来事がふと、脳裏に蘇った。
あれは何が原因だったろうか、夕食中に他愛もないことで、同じ部屋に住む後輩のセシルと口論になってしまった。
「それは、カミュが悪い!」
「貴様、いい加減に――!」
言い合いに夢中になっていたせいで、カミュは自分がいつもかけている黒縁の眼鏡をテーブルの上に置きっぱなしにしていたことに気付かず、勢いに任せてテーブルを平手で叩いてしまい――気付いたら、見るも無惨な姿になっていたというわけだ。
「つっ……」
割れたレンズの破片で指先を少し切ってしまい、傷口から血がふつりと溢れた。その途端、セシルは我に返って、慌ててカミュの方に飛んできた。
「カミュ、血が……! すぐ手当します!」
「ふん、この程度、どうということは――」
「カミュは以前ワタシに、アイドルは傷だらけではいけないと言った! だから、きちんと手当しなくてはダメです!」
カミュはぐっと言葉に詰まり、視線を逸らした。以前懇親会でセシルと共に縄跳びをした際、慣れないことに挑戦して傷を作ってしまったセシルに、そう言って絆創膏を渡したことがあったのだ。ついついいつもの癖で強がってしまったものの、自分の言っていたことにまで反論はできまいと、カミュは大人しくセシルの手当を受けることにした。
消毒をして、少々おぼつかない手つきで絆創膏を貼る仕草が、カミュの心を無駄にざわめかせた。終わりです、と、まだ心配そうに上目遣いでこちらを見る仕草にも。
「この程度すぐに治る。余計な心配をするな」
礼を言うのも気恥ずかしく、カミュはぶっきらぼうに言ってセシルから視線を逸らした。
ふと、テーブルの上で無残な姿になってしまった眼鏡に目がいく。スペアはあるが、いずれは新しいものをもう一つ買いに行かねばならないだろう。カミュが溜息をついていると、セシルが突然、思いがけないことを言い出した。
「ワタシ、カミュの眼鏡を買ってきます」
カミュは驚いてセシルに視線を戻した。
「一体どういうつもりだ?」
「カミュが眼鏡を壊したのは、ワタシがアナタと口げんかしてしまったせい……だから、原因はワタシにもあります」
「馬鹿か、貴様は。まさか一人で行くつもりではないだろうな?」
「カミュも付いて来てくれるのですか?」
首を傾げるセシルに、冗談ではないとばかりにカミュは鼻を鳴らす。
「何故俺が貴様と共に行かねばならん。貴様が一体何を考えているのか知らんが、余計な気を揉む必要はない」
そうきっぱり言い切って、カミュは再び残った夕飯に手を付け始めた。あまり納得していないふうだったが、セシルもそれ以上は何も言わずに席に戻り、食事を再開した。
セシルには全く落ち度はないはずなのに、突然あんなことを言い出したのがやや気になりはしたが、釘は刺した。もう何もしないだろうとカミュは考えて、早速明日の空き時間にでもショッピングモールに行くとするか、と心の中で呟いた。
そんなわけでショッピングモールに一つだけある眼鏡店の前にやって来たカミュは、思わず目を疑った。
「なっ……」
驚きすぎて一瞬固まる。なんとそこにはセシルの姿があったのだ。サングラスをかけ、髪を後ろで束ねて変装しているカミュとは違い、何も変わらない普段通りの姿をしていた。女性店員にあれこれ聞いて、眼鏡を吟味しているようだ。カミュがいつもかけていた黒縁眼鏡を中心に手に取っていることから、カミュのものを買おうとしていることは容易に想像がついた。
カミュは早足でセシルのもとへと向かった。セシルは突然目の前に出来た影に驚いて顔を上げ、カミュの姿を見て更に目を丸くした。店員も怪訝そうにこちらを見ている。さすがに彼女の前で声を荒げるわけにはいかないと、カミュはさらりと営業スマイルを浮かべ、セシルの手を取った。
「君、少しこちらに来てもらえるかな?」
普段より高い声でそう言い、ぐっと握力を込める。セシルが痛っ、と顔を歪めたが、気に留めることなく、呆気にとられた女性店員に笑顔を浮かべて軽く会釈してから、セシルを店外へと連れ出した。
「貴様。一体どういうつもりだ? 眼鏡を使用せねばならぬほど、貴様の視力が悪いなどという話は聞いたことがないが?」
ショッピングモールの隅に移動し、なるべく声を抑え気味に、しかし地を這うような低い声で問い詰める。セシルは怯えたようにびくりと肩を震わせた。
「その……ワタシは、カミュの眼鏡を」
「昨日、言ったはずだ。余計なことはするなと。聞こえていなかったのか?」
セシルは俯いて、首を横に振った。
「でも、原因を作ったのはワタシです。ワタシが昨日、角砂糖を買い足すのを忘れていたから」
カミュはそこで、昨日の喧嘩の原因をようやく思い出す。コーヒーに入れる角砂糖を買い足すのを忘れた、とセシルに言われ、かっとなって思わず説教をしてしまったのだ。その話から、いつの間にかお互いの国の料理の話になり、アグナパレスの料理は辛すぎる、シルクパレスの料理は熱すぎる、などと言い争っていたのだった。今思ってみれば実にくだらないが、セシルはずっとそのことを気に病んでいたのだと思うと、なんとも言えない気持ちになった。
セシルの手を離し、カミュは小さく息を吐く。
「とにかく。貴様が余計な気を揉む必要はない、と言ったはずだ。さっさと帰れ。今日の食事当番は貴様のはずだろう」
手で振り払う仕草をしたが、セシルはそこから動こうとしなかった。そればかりか顔を上げ、カミュに迫った。
「カミュ! ワタシも一緒に、アナタの眼鏡を選んではいけませんか?」
「何故だ。これは俺がかけるものであって、貴様がかけるものではないのだぞ」
「分かっています。でも……傍で見ているだけでも、ダメですか?」
カミュは思わず、小さく舌打ちした。セシルのすがるような子犬の目は、カミュの最も苦手なものだった。普段は猫のように気まぐれのくせに、こういう時だけは懐くような仕草を見せるのだから質が悪い。
「……好きにしろ」
カミュはそう言って、セシルを振り切って再び眼鏡店に向かった。セシルが後ろで嬉しい、と言ったのには、気付かないふりをした。
自分たちが戻ってきたのに気付いた女性店員が再び近寄ってきたが、丁重に断り、カミュとセシルは眼鏡のフレームを手に取り始めた。
赤、緑、白――様々な色があるが、やはりしっくりと馴染むのは黒のフレームだ。試しにかけてみると、隣にいたセシルが似合います、と褒めてくれ、カミュは何とも言えぬ気持ちで視線を逸らした。
カミュはその隣にあった、先程自分が手に取ったものと同じデザインのダークグリーンのフレームを手に取った。無防備なセシルと向き合い、素早くかけてやる。不意打ちをくらって、セシルは目をぱちくりさせた。
「カミュ?」
「……悪くはない、か」
再び素早い仕草でそれを外すと、カミュは店員を呼んだ。
「すまないが、これとこれを」
先程の女性店員がかしこまりました、と微笑んで、店内の奥へと引っ込むのを見届けてから、セシルが尋ねてきた。
「カミュ、さっきのは……二つとも、カミュのもの?」
「一つは貴様用だ」
ぶっきらぼうな口調で言った後で、カミュはセシルに向かって目を細めた。
「愛島。貴様はアイドルだという自覚はあるのか? 普段と変わらぬ姿で外を出歩くなど……まだ名が売れていないからといって油断するな。プライベートで外を出歩く時は、変装くらいするものだ」
「それは……確かに、そうかも……しれません」
セシルは俯いて、反省している仕草をした。
「以前、レンも言っていました。うっかりそのままの姿で外に出て、女性達に囲まれて困ったことがあると」
カミュは蘭丸のところにいる、杏色の髪をしたフェミニストの青年を思い浮かべた。
「まあ、貴様はあれと違って、女性に囲まれるということはないだろうが、念のためだ。かけるだけでもだいぶ印象は違うからな」
代金を支払い、二つの眼鏡がまとめて入った袋を持って、カミュはセシルと共に店外へ出た。
セシルが立ち止まり、あの、と声を掛けてくるので、カミュも足を止めて振り返った。セシルは顔を上げ、微笑みを浮かべた。
「カミュ……ありがとう。ワタシ、とても嬉しい。大切にします」
「ふん。壊したりしたら承知せんぞ」
そう言って、足早にショッピングモールを抜けていく。セシルも少し遅れて、それについてきた。
ショッピングモールの出口付近で、突然セシルがああっ、と声を上げたので、カミュは何事かと振り返った。見ると、セシルはカフェのショーウィンドウに顔をぴたりとくっつけ、目を輝かせていた。
「カミュ! 見てください、あのパフェ! すごく大きい。色んなものがたくさん入っています!」
指差す方を見ると、確かに大きな器に入ったパフェの食品サンプルが飾られていた。赤いストロベリーソースと白いホイップクリームの対比が鮮やかだ。こんなもので興奮するとは子どもめ、と心で呟きつつも、これだけ大きく鮮やかならば、セシルが目を引かれるのも無理はない、とカミュは溜息をついた。
「ああ……あれはこの店の名物だからな。特製巨大パフェ、だったか」
「ワタシ、あれ食べたい! カミュも一緒に食べましょう!」
そう言ってセシルがぐいと腕を引っ張るので、カミュはバランスを崩しそうになった。
「貴様に付き合う義理などない! 行きたければ一人で――」
「カミュも一緒じゃないと、イヤです。カミュも甘いものは好きでしょう?」
カミュはうっと言葉に詰まる。確かに甘いものが好きなのは否定できない。パフェも好物の部類に入る。目の前にあればぺろりとたいらげてしまいそうだが――
「カミュ、ほら、行きましょう!」
そうしているうちにセシルに強引に腕を引っ張られ、店内に連れて行かれてしまった。店員に案内された席に向かい合って座りながら、カミュは深く溜息をついた。結局はいつも、この後輩のなすがままだ。悔しいとは思うのに、それに抗うことを、自分は心の底から望んでいない。
セシルが当然のようにあの巨大パフェを注文し、やがて二人の目の前に置かれた。想像以上の大きさだったが、セシルはやる気満々だ。巨大なパフェを見て、スプーンを持ったまま興奮している。
「すごい! カミュ、すごいです! 絶対食べきりましょう!」
「ふん、貴様はいつまでも子どもだな。まあいい」
カミュも用意されたスプーンを手に取り、パフェの前で構えた。
「やるからには最後までやり遂げねばならん。愛島、覚悟はできているな?」
「もちろんです!」
二人は笑みを交わし合い、同時にスプーンをクリームの波へと突っ込んだ。
カミュ先輩の黒縁眼鏡に萌え隊(2011.12.6)